証(あかし)
「大丈夫ですか?」
日蝕が明けたばかりの辺りは薄暗く、梢の隙間からのぞく空には、わずかに赤みかかった雲が漂っている。
朝から今まで、コクアらの背中に揺られてきたラミアルとマーゴは、地面に下ろされた途端に、しゃがみこんでしまった。
トワロの問いに答える元気もない。
その横に、トリウィも崩れ落ちる。ずっと走り詰めだったわけではないが、近く遠くに戦いの音を聞き、ずっと気を張っていたのだ。戦いの雰囲気は、普段よりも体力を削る。
「よく頑張ったじゃないか」
その背中を、コクアが軽く叩いた。そのコクアは、汗こそ掻いているものの、息を軽く弾ませるくらいで平気な顔をしている。
「み……水……」
喘ぎながら、トリウィが呻く。コクアは困ったように辺りを見回した。
百台以上の牛車を収容できるこの駅の広場を、傷ついた戦士たちが埋めている。戦の最中に戦うことの出来ないキシュは、本当に重傷なのだ。手当てが出来なければ、明日の太陽を拝めるかどうか。従軍治療師のエクシアの行方は知れず、予備役の術師を召集する間もなかった。それでも、町の法術師が何人か到着し、手当てを始めている。
当然、兵糧などは運んできてはいないし、密林に果物を探しに入ろうにも、手近な所ではとても十分な量を賄うことは出来ないだろう。ただ、天蓋の向こうに見える雲が厚みを増していく。間もなく雨が降る。
トリウィは水にありつけるだろう。しかし、怪我人の体力を、雨は容赦なく奪う。コクアは首を振った。
「水が欲しけりゃ、上を向いて、口を開けてなよ。もうすぐ雨が降りそうだ」
「う……うん」
ごろり、とトリウィは体を返して、下生えの草の上に仰向けに寝転がった。口を大きく開けたまま、喘ぐ。息を大きく吸うごとに、雲が厚くなっていった。
「……あの……、ロウゼンさんは?」
半日背中に揺られて回っている目と、むかつく喉を押さえながら、マーゴがみなを見上げる。だが、それに答えることが出来るものはいない。シージは、密林の中での追撃戦の指揮を取っている。組合長に従っているはずのサルトは、まだ追いついて来ていない。
誰からも答えを貰えないまま、マーゴは俯く。
「おなかすいたー」
豹の背中に、俯せにもたれかかったペグが、マーゴに言う。
「ごめんなさい。我慢して。今、ないの」
不服そうに頬を膨らませ、ペグは密林に目をやる。そこには様々な果実が実っていることを知っているが、しかし密林は再び闇が沸き立ち、さすがのペグもその闇の中に入ろうとはしなかった。
ゴボッ!
突然、泡立つような音が聞こえた。すぐ近くに横たわっていた戦士の体が痙攣し、最後の息をはいたのだ。
体を硬張らせるマーゴを、トワロは痛ましそうに見る。
フィガンが、彼女の娘に何をしたのかは、正確にはトワロは知らない。しかし、今朝の街中での戦いを見るかぎり、彼女に与えられた力は途方もない。四十人近い賊の命を一瞬で奪った。それに、城兵たちは明らかに彼女を恐れている。その力を揮ったのは、今日が初めてではないはずだ。
大勢の命を自らの力で奪い、それなのに、人の死に慣れることがない。
それは彼女の力が、彼女自身で望んだものではない、明らかな証だった。だけど、その細い躰に潜む力には、憎悪と憤怒が溢れている。
この子はなぜ、ロウゼンという男の娘と呼ばれるようになったのだろう。その経緯を、今訊くわけにはいかない。
トワロに出来るのは、ただ罪を償うことだけだ。自分の娘を、守ることが出来なかったという罪を。細い腕で抱えきれないほどの罪を与えた罪を。それが自分の背負う罪の、ほんの一部でしかないとしても。
「マーゴ……」
自分の知らない名前を、口にしてみる。
あの男が、フィガンが名付けたのだろうか。あの男は、その名の意味を知って付けたのだろうか。
犠牲、という意味の、その名を。
だとしたら、何の犠牲だろう。
「どうしたんだ?」
コクアが、顔を上げて辺りを見回した。それを目ざとく見つけたトリウィが、体を起こして訊く。
「なにが?」
「騒がしいね」
この駅に入りきれないほどの人が詰め掛けているとは思えないほど、疲れきった人たちが交わす囁き以外に聞こえてくる物音はない。
ラミアルも、不思議そうな顔で、見上げる。
「どうやら、休んでる時間はないようだね」
「そのようだ」
コクアの言葉に、ゼオブロがうなずく。
「何を言ってるの」
不安そうに、ラミアルも問う。
「戦いが近づいているみたい」
「トリウィ、もう少し走れるかい」
コクアの問いに、トリウィは、うん、とうなずいて立ち上がるが、膝が笑っている。
「ゼオブロ。背負ってやりな」
「ああ」
オオァァァ
それまでトリウィやラミアルにはわからなかった戦いの気配が、膨れ上がった。遠くから悲鳴が近づいてくる。
タァァン
突如、天空を閃光が走り、轟音が耳をつんざく。
大粒の雨が、密林を叩いた。
「何をしている。急げ。来るぞ」
道をふさいだ、悲嘆にくれる人々を押し退けて、身を赤く染めた戦士が現れた。
血に塗れた剣を持った右手で、左の二の腕を押さえている。
「シージさん!?」
「どうしたんです?後ろは組合の連中が守っているんじゃ……」
コクアが、怪訝な顔をする。
「烏合の衆とはいえ、十万を超える数がいるんだろう? そう簡単に破れるものでもあるまい」
ゼオブロも、無口な口を開いた。
「奴ら、とんでもねえ。並みの城兵と比べものにならん程、腕がたつ。数も、二万や三万じゃきかねえようだ。密林に入っても、動きが乱れねえ。はなから皆殺しにするつもりだから、ガキや年寄りを見ても容赦がねえ。すぐにここまで来るぞ。ロウゼンは何してやがる」
しかしシージは、近くで負傷者を治療している法術師を捉まえ、自分の傷を癒させながら、喚く。
「くそっ! 本当に城を盗れるんだろうな。このままじゃあ……」
「みんな、殺されちゃうの……?」
マーゴが、震える声で呟いた。雨音を貫いて、その声がトワロだけに届く。
――まさかこの子、自分のせいじゃない人の死にも、罪を感じている……?
「それだけの軍勢……、ミューザ王が率いているのでしょうか」
トワロがシージを振り向いた。
「あ……、い、いや、わからん」
シージが緊張する。
「そう」
統率の取れた軍隊には、二通り考えられる。
指揮官が、全軍を完全に把握しているか、各部隊が統一された意志の下に、いちいち命令を受けなくても有機的に戦うことが出来るのか。
もっとも、密林の中での戦いが殆どを占めるアロウナ大陸で、指揮官の意志を常時伝達することは不可能に近い。これまで、ほぼ不敗を誇るミューザ王の軍勢だ。恐らく後者だろう。だからこそ始末が悪い。城主や王でない指揮官を討ったところで、勝ちに結びつかない。
「まあいいわ。道さえ塞げば、それ以上進むことはしないでしょう」
そう言うと、唇を固く結び、二本の剣を持ちなおす。統率が取れている軍勢は、突出や孤立を恐れる。要の道の上さえ押さえれば、全体の足を止めることが出来るはずだ。
「トワロさん……。罪滅ぼしのつもり?」
トワロは、思わずラミアルを見た。
――本当にこの娘には、驚かされるわ。
「罪は滅びません。出来るのは、償うことだけですよ」
「誤魔化さないで。みんなを守るために戦うなんて、あんたらしくないんじゃないの?」
何を言っているのかわからず狼狽えるトリウィを尻目に、ラミアルが追求する。
「お父さまを見殺しにしといて、いまさら戦おうなんて――」
「ラミアル。ありがとう。大丈夫よ」
「何が大丈夫なのよっ! 今……、今死んでどうするのよっ!」
「死ぬんだったら、もっと簡単な死に方がありますから――。さあ、シージさん。行きましょう」
「あ、ああ」
「トワロさんッ!? おい、どういうことだよ?」
トリウィの声を背に、スコールを肩に受けながら、トワロは戦場に向けて足を踏み出した。
いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。
第二部も、余すところあと五話。
次回予告っ!
天がやにわに暗くなり、今までとは比べ物にならないくらいの邪悪が、世界に満ちた。
「なによっ、これはっ!?」
悲鳴を上げるマーゴに、ラミアルが諭すように語り掛ける。
「あなたの魂が闇に呑まれかけているのです。そう、あなたの母親のように――」
七幕第二話「血脈」
6/5更新予定!