………剣の二
「……ここだ」
何か目印でもあるのだろうか。ロウゼンは道沿いの薮を踏み分けて、密林の中に入っていった。マーゴも後に続く。密林の中は陽も射さず暗かったが、そのために下生えが柔らかい羊歯や苔くらいしかなく、思いの外歩きやすかった。とはいえ、薮の中よりはまし、という程度で、注意しないと木の根や蔓につまずいてしまう。
足音に驚くのか、倒木の影から鼠や蜥蜴がたまに飛び出し、木々の梢で、猿や鮮やかな色をした鳥が声を上げる。稀に大きく木が踏み拉かれているのは、野性の三角牛の通った跡だろうか。
おそらくマーゴは密林に踏み入るのは初めてなのだろう。あちこちを珍しげに眺めながら、そして時には、頭上の枝でとぐろを巻く大蛇に小さく悲鳴をあげながら進んでいる。
さしてつまずいたりせずに歩けるのは、ロウゼンがうまく獣道を選びながら先導しているおかげか。それでも、マーゴが少しもたつけば、いつのまにか引き離され、大急ぎで追い付くということを繰り返す。
そうやって進んでいるうちに、日も傾いて、だんだん暗くなってきた。
いい加減マーゴの息もあがり、足元以外を見る余裕がなくなった頃、ようやくロウゼンが脚を止めた。
そこはおよそ二十歩四方の広場で、その奥には、この広大な多雨林のなかでも、めったに見ることのできないほどの巨大な木が立っていた。その木の根元には、ロウゼンが立ったまま入れるほどの洞が開いており、その入り口には簡単な廂がある。
「帰った……」
ロウゼンが声をかける。
洞の奥から小さな人影と獣の影が一つずつ出てくる。それはまだ幼い女の子と、金色の毛並みをした豹だった。
女の子は見た目、五才くらい。焦茶の髪はくしゃくしゃともつれ、浅黒い肌も、決して清潔であるとは思えない。大きめの麻の服からのぞく手足は細く筋張っていて、女の子らしい柔らかさはかけらもないが、琥珀色の円らな瞳がそれを救っている。
この場所に他の人影はなく、ロウゼンが帰ってくるまで一人で待っていたに違いないのだが、彼を見てもにこりともせず、その眉はへの字に曲がり、口元もぎゅっと結ばれている。
そして女の子の横にいる豹は、体高が女の子の肘くらい、マーゴを警戒しているのか少し体を低くして、小さく唸っている。
「あの……」
マーゴがロウゼンを見上げる。
「ペグ……だ。ペグ、飯を……」
ロウゼンはそう言うと、荷物を廂の横に下ろし、剣をつかんですでに暗くなった密林に駆け込んでいった。
「あ……」
仕方なくマーゴはペグに話しかけようとする。
「あの、私、マーゴといいます」
しかし、ペグはしかめっ面のままマーゴをちらりと見ると、何も言わず木の洞に入ってしまった。
「え……と」
戸惑いながら、それでも何か手伝おうかとペグの後について洞に入ろうとすると、金色の豹の唸り声が大きくなる。体を一層低くして、今にも跳びかかって来そうだ。
仕方なしに、豹に背中を見せないよう広場の端まで引き返し、切り株に腰を下す。
どうしよう、とため息を吐きながら、木の洞の方を眺める。
ペグはすぐに、鍋や壷などを持って出てくる。さらに、巨木の横に寄り掛かるように建っている小屋の中から、一抱えの薪を持って出る。広場の片隅に切ってあるかまどにそれをくべ、壷の中から火種を取り出すと、瞬く間に薪に火をつける。
なに? マーゴはその燃え上がった炎を見て驚いた。この湿り気の多い密林の中で、そう簡単に火を起こせるものではない。法術を使うヨウシュであれば容易だろうが、彼らなら火種を必要としない。第一、力が顕れるのは、ある程度体と精神の成長した二十才前後である。さらに生木に火を着けようとすれば、成人してからでなくては難しいだろう。
どういうことだろうと、マーゴが思っているうちに、ペグは水樽から鍋に水を汲み、そこに塩漬けの肉や、ロウゼンの持って帰った米を入れ、火に掛けて煮込みはじめた。
広場の上、木々の間から覗く空が暗くなり、火の周りをのぞいて闇に沈んでいく。
肉入りの粥が、やわらかく煮上がってきたとき、ロウゼンが帰ってきた。肩に小さめの雌鹿を担いでいる。そして火の傍で、鹿の解体を始めた。
小剣ではらわたを抜き、豹に放り投げる。豹が口のまわりを血塗れにして、それにかぶりつく。ロウゼンはさらに皮を剥ぎ、手早く幾つかの塊に切り分けていく。
そして、鹿の肉を串に刺し、かまどに肉を刺した串を立てると、ペグの用意した木の椀に粥をよそい、食えとマーゴに差し出した。
「ありがとうございます」
礼を言って粥を受け取る。
木の匙でかき回してみると、塩漬け肉の他に、いつ入れたのか茸や香草も入っており、おいしそうな湯気がたちのぼっている。
ふうふう、と粥に息を吹き掛けながら、二人を椀越しに覗き見る。
ペグは自分の椀を抱え、匙にすくった粥をやはり息を吹き掛けながら、冷ましていた。なかなか食べないところを見ると、猫舌のようだ。
一方ロウゼンは、大きなどんぶりになみなみとついだ粥を、冷ましもせずに口の中に流し込んでいる。そしてあっという間に残りの粥も食べてしまうと、肉の串を取り上げ、よく焼けているところを削り、マーゴとペグの椀の中に放り入れ、まだ生焼けの肉にかぶりつく。
それも食べ終わると、剣を取って立ち上がる。そして、まだ食べている二人を尻目に、剣の鍛練をはじめた。
広場の端に立ち、右手に持った剣の柄に左手を軽くそえて振り回しはじめる。
普通この大陸で戦う場合、密林の中でのことが多い。もちろん戦うのは、月の力を受けた強力な戦士であるキシュだから、人の腕程度の太さの木など、剣を振り回す上で邪魔にはならない。簡単に切り倒してしまう。しかしさすがに素早い足さばきで剣を避ける、というわけにはいかないので、利き手に剣を持ち、もう片方に邪魔にならないような小さな丸い盾を持つか、守り用に小剣や小太刀、十手、鉄鞭などを持って二刀で戦う。
密林の中で獣を狩ることを生業としているが故の一刀流なのか、剣技に詳しいわけではないマーゴにはわからなかったが、それでも、剣の持つ力だけは、伝わってくる。もちろんそれだけで、人同士の戦いに熟練している城兵を、それも多人数を相手に戦えるかどうかはわからないが。
鹿のはらわたを食べ終えた豹が、ようやく冷めた粥を口に運び始めたペグの側に横たわり、満足そうに毛繕いを始めた。
「ねえ、ペグ」
マーゴがペグに声をかける。ペグは手を止め、マーゴの方を見た。
「ペグはロウゼンと二人で暮らしているの?」
ペグは答えずに、改めて粥の残りを食べ続ける。
「……その豹は、あなたのお友達?名前はなんて言うの?」
なおも訊くが、答のかわりに、ロウゼンの剣が風を切る音だけが聞こえてくる。
それ以上話し掛けることもできずに、マーゴも食事を続けた。
二人とも食べ終わると、ペグは鍋と食器を水樽の所へ持っていき、片付ける。
ロウゼンの剣の軌跡は、ますます鋭さを増す。
マーゴは、ペグが食器を片付け、かまどの火から大きな燠火を掻き出し、火種の壷の中に入れるのを見つめた。ずいぶん小さくなった炎が、まわりをゆらゆらと照らしている。
その火を見つめながら、マーゴはひとつ溜息を吐いた。