五幕・車輪の音
体の下から、軋む車輪が泥濘るんだ地面を踏んでいく音が聞こえてくる。幌を叩いていた大粒の雨の音は、少し前から聞こえなくなった。梢からの雫が、思い出したように落ちてくるが、それもだんだんと間遠くなってきた。
平和よねぇ。トワロが見上げる薄汚れた幌に、木々の隙間をくぐり抜けた日の光が淡い模様を描きだしている。たまには何も考えずに、こうやって牛車に揺られるのも悪くないかも……
突然幌が捲り上げられた。この牛車を護る護衛が、雨が上がったので幌を取ったのだ。この荷台に乗せてある鎧用の獣の革は、風に当てないと黴びてしまうからだろう。外の気温は決して低くはないはずだが、それでも幌の中で蒸されていた身には、涼しく感じられる。
すぐ後の牛車の御者台には、ラミアルが座って手綱を握っており、その横を、戦士の身形をしたトリウィが歩いていた。荷台の両脇には、ジェンジーのつけてくれた護衛が二人、ゆっくりと歩を進めている。
この隊商の持ち主であるジェンジーには、ラミアルが話をつけた。独立前に主人について旅をしていたこと、野盗に襲われて、彼らだけ助かったことなどを、作り話を織り交ぜながら彼に話し、うまく彼の同情を誘って、ランデ地方までの同行を承諾させたのだ。
彼女はたいしたものだわ。そう、トワロは感心する。この隊商の規模――牛車十二台に護衛が四十人――を見れば、かなりやり手の商人なのであろうジェンジーに対して、交渉を成立させた。まだ独立もしていない子供相手だという、ジェンジーのいわば彼女を見下した気持ち、それすらも利用して話をまとめた。護衛を一人もつれていない牛車を隊に入れることは、彼には決して得にならないにもかかわらず。
ラミアルに向けて、トワロは小さく手を振ってみるが、無視された。たとえわずかな間でも、生きるために何もしなくてもいいということは、退屈なことだ。とはいえ、夫を亡くしてそれを子供に伝えにいく可哀相な女という役を割り振られている以上、客を取ることも出来ない。
今のように、何もかも与えられっぱなしというのは、わたしの主義に反するんだけど……まあいいわ、一緒に行ってくれって言ったのは、あの子たちのほうなんだから。
「なになに? 俺を呼んだ?」
トリウィがトワロに寄ってきた。どうやら彼に手を振ったと勘違いしたらしい。
「呼んでません」
そう冷たく突き放してみるが、彼は気にせず、トワロの隣に上がり込む。こちらを睨むラミアルに、彼もまた小さく手を振っておいて、トワロに話し掛ける。
「あのさあ、トワロさんに教えてほしいことがあるんだけど……」
「……なんです?」
「トワロさんって、結構って言うか、かなり……って言うか、すげえ強いよな」
「……そうね」
一応まわりを見回して、護衛たちが二人の会話を聞いていないことを確かめる。か弱いはずのトワロが、強いと言われてうなずく訳にはいかない。
「どれくらい?」
「……?」
その問いに、トワロは首を傾げた。質問の意味がわからない。
「だからさあ、城兵より強いって言ってた野盗を三十人以上、一人でやっつけちゃうくらい、トワロさんは強いわけだろ。だから普通のキシュとトワロさんの差は、キシュとヒシュの差と比べて大きいのかな、と思ってさ。もちろんヒシュは武器を持ってて、ある程度心得があるとしたら……」
考えたこともない。トワロはそれをトリウィに言うと、彼はがっかりした顔をした。
「トワロさんは、ケンシュだから、キシュと違うのは、ヒシュとヨウシュの力も合わせ持っているところだよね。ヨウシュの力は戦いには関係ないから、じゃあトワロさんが強いのはヒシュの力のせいじゃん。だったら俺もうまく戦えば、普通のキシュ相手なら勝てるんじゃないかな、と思って……」
「無理です」
「……なんでだよ」
あっさり否定されて、トリウィは恨みがましい目でトワロを見る。
「法剣士のことを言ったのは、あなたですよ」
「だって、あんたは違うって言ったじゃないか」
「わたしはヨウシュではなくケンシュだと言ったんです。法剣術の修業もしました」
あの子を取り戻すために……
「じゃあ、あんたが強いのは、そのせい……」
トリウィはがっくりと肩を落とす。
「やっぱりケンシュになれないと、駄目なんだ」
そう言って、荷台から降りた。そのまま立ち止まって、ラミアルの牛車が追いついてくるのを待つ。その姿を見ながら、トワロは軽くため息を吐いた。
ヒシュでもキシュに勝てるのではないかと、実のところトワロは思っている。腕力、体力、反応速度、どれをとってもヒシュははるかにキシュに劣る。しかし、剣を急所に当てれば人は死ぬのだから、ヒシュでもキシュに勝つのは無理な話ではない。
とはいえ、それはトワロがケンシュになってしまったからこそ言えるのかもしれないし、実際にトリウィがここにいる護衛と戦って勝てるのかといえば、無理だろうと思う。彼が勝つには、相手をよく知り、戦う場所を選び、相手の力を出し切らないうちに戦わなければならない。理想を言えば、不意を衝いて背中から斬りつけること。そして彼が望んでいるのは、そんな勝ち方ではないだろう。彼が望んでいるのは、望んでも得られない力を得ること。
愚かなこと。まあいいわ。わたしには関係ない。
だがすでにトワロは、そう言い切れなくなっている自分に気がついていた。
ケンシュの力を得たところで、幸せになれるものでもないのに、彼はヒシュとして、例えばラミアルと生きていくことが幸せなはずなのに。彼らの為になにかしてあげられることがあるだろうか。……わたしはいつからお節介になったんだろう。人との繋がりを断ち切る痛みは、よく知っているはずなのに。
お付き合いいただきありがとうございます。
前回お伝えしたように、更新のペースを上げていきます。頑張れ、自分!
次回予告
勇者トリウィの振るった光の剣が、ダークマンティスの闇を貫いた。
「これはっ!」
そのとき彼が見たものは――
五幕第二話「螺旋の夢」
3/31更新予定