第二部〜闇の瞳〜一幕・かまきり
あの男が死んだとの噂が、女の耳に入った。人の生き死にに奪われるような心を、その女は持ってはいなかったが、その男の死だけは何かを呼び覚ました。
なぜならその男は、女がただ一人産んだ子供の父親だから。
噂を聞かせてくれた男がまだ眠っている宿を出て通りを見回す。すでに人通りはまばらで、空を見上げれば月がその姿をほぼ丸く現わしている。月蝕の始まる真夜中が近い。
「すいません」
宿屋の前に数台の牛車を止めて荷を確かめている商人の男に、女は声を掛けた。
「もし海の方へ向かうんでしたら、途中まで連れていってもらえませんか?」
商人は、胡散臭そうに女を見る。
黒く真っすぐな髪は、自分で切っているのだろうか、肩の上で不揃いに断たれている。細く形のいい眉の下の切れ長の瞳は、月のない夜空はこのようなものかと思わせる真の黒、長い睫毛が寂しげに揺れている。その唇には、白い肌には不釣り合いなほどの濃い紅が塗られていた。
彼女が身にまとうのは、色街でたまに見る、異国風の着物だ。地面を擦るほどの長衣を体の前で合わせ、帯で留めている。この大陸の人間が、カイディアの風俗を真似て麻布で作ったものではなく、舶来の絹で仕立てられている。朱色に染め上げられた布地に、美しい色とりどりの花や鳥が描かれているが、すでに色褪せており、衿や裾は擦り切れてしまっている。だが、だらしなく襟元を開いたその着方には、かえって相応しい。
商人の目が、女の体を舐め回す。襟元からのぞく白い肌と、豊かとは言えないが形のよい膨らみに目を奪われ、裾からのぞく素足を羞かしげに隠すその手にも、習い性になっているのだろう、女の媚を感じる。
女はその胸に、筵で巻いた棒状の物を抱えていた。その端からのぞくのは、明らかに剣の柄だが、男は気にしなかった。おそらく情人が死んだかどうかして、他の町へと移りたいのだろう。剣はその形見だ。
「かまわんよ。女一人では、密林を抜けるわけにはいかないからな」
そう言うと、いやらしげな笑みを浮かべる。
「明日は早い。遅れられてはかなわんからな。同じ宿に泊まってもらう。それでいいか」
「はい……」
「名前は?」
「……トワロと申します」
カイディアの言葉で、かまきりを意味する。男はそれを知っていたのだろう。
「物騒な名前だな。――さあ来い」
そして、二人は宿に消えた。
トワロと名乗った女は、四台列ねた牛車の最後尾の荷台に身をまかせていた。先頭の御者台に、ハンガという名の商人が乗り、隊商を束ねている。総勢二十人の護衛団が、周りを固めている。
まだ夜が明ける前に宿を出て、町を囲む農園をゆっくりと抜けてきた。すでに太陽はその姿を見せている。畑には農民が出て、収穫に励んでいる。
ふっと、視界が暗くなった。密林の中に入ったのだ。見上げれば木々の梢の造る天蓋に、朝の光が揺れているが、まだ道の底までは陽射しは届かない。すでに蒸し暑かった空気も、一気に涼しくなる。
「ねえ、お姉さんはどこに行くの?」
牛車の横を歩いていた少年が声を掛けてきた。まだ成人前だろう。おそらく二十三、四歳か。茶色がかった金髪を短く刈り込み、少し垂れた瞳は茶色、鼻の頭にそばかすが残っている。簡単な革鎧からのぞく肩から腕は、よく鍛えられているが、キシュの子供にしては線が細い。第一、成人前のキシュが、護衛として仕事に就くことはない。
「ちょっと、なにやってんのよ」
同じ年頃の少女が、座っていた二台目の牛車の御者台から降りて、少年の隣に跳ねるようにやってきた。赤茶色の少し癖のある髪をくるくると、頭の後ろで巻いている。大きな瞳と、少し上を向いた鼻が愛らしい。
「うるさいなあ。ラミアルはあっちに行ってろよ」
そう少年は邪険にするが、少女は少年から離れない。
「俺、トリウィってんだ。お姉さん、お名前は?」
そう話しかける少年の横で、少女はその年頃に特有の、潔癖そうな眼差しで、女を見つめる。
「トワロです。よろしく――」
首を傾げながらそう答える女に、トリウィの人懐っこい表情が、さらに崩れる。ラミアルは不安そうだ。トワロがその見た目どおり、あからさまにトリウィを誘惑すれば、それなりの態度が取れるのだが、控えめな彼女の笑顔に、それ以上何も言えない。それに、崩れた色気を別にしても、匂い立つ成熟した女の雰囲気に、ラミアルは圧倒されていた。
「トワロさんは、どこまで行くの?」
ラミアルがつい、訊く。
「ランデレイルへ……」
「知ってる!あそこの今の城主、どこの城兵でもないのに、城に乗り込んで、城主を討ち取ったんだぜ。かっこいいよなあ。誰か知り合いがいるの?男?」
「ちょっと!トリウィ!」
ラミアルがトリウィの肘をつかむ。
「なんだよっ!?」
「いい加減にしなさいよっ!」
「いいんですよ。……子供がいるんです」
そう言って、薄く笑う。
「そんなことより、あなた達のことを聞かせて下さい」
「俺達はね、レイクロウヴの結構でっかい商家に生まれたんだけど、親同士が友達でね、俺達を奉公に出す時に、お互いに預けたんだ。それで今度成人して独立する前に、見聞を広める意味で、おじさんに――」
「旦那様でしょ」
ラミアルが訂正する。
「あ、うん、旦那様に、っていってもラミアルの親父さんなんだけどね、カイディアの船に商品を売りに行く旅のお供をしてるんだ」
「じゃあ、あなたはヒシュなのですか?」
「ああ、この格好かい?」
そう言って、トリウィは腰に下げた剣を叩く。
「実はね、俺、商人よりも戦士になりたいんだ。小さい時は奉公をさぼって、錬成館に潜り込んでばかりいたし、実際二十歳前までは、キシュの奴らより、俺の方が強かったんだぜ」
そう言って、天を仰ぐ。
「でも、やっぱり持って生まれた力はどうにもならなくて、だんだん太刀打ちできなくなって……、でもね」
トワロの近くに寄って、声をひそめる。
「カイディアの人間って、俺達みたいに月の力を受けてないっていうんだ。ってことは、カイディアの戦士も、キシュみたいに馬鹿力じゃないってことだろ。だったら、俺でも戦士になれるかもしれないんだ」
「まだそんなこと言ってる。カイディアには月がないんだよ。そんな所に行ったら、ただでさえ弱いあんたのおつむが、パーになっちゃうんだから」
筋肉に月の力を受けているキシュとは違い、ヒシュはその頭脳に月の力を受けているといわれているのだ。
「うるさいなあ。そんなの、行ってみなくちゃわらないじゃないか」
「行かなくってもわかるわよ。おじさんも嘆いていたわよ」
「旦那様だろ」
「……旦那様も」
「親父は関係ねえよ!」
「仲がいいのね」
二人の顔が真っ赤になる。
「お、俺達?」
「そうですよ、こんな奴。ただの幼なじみなんだから」
トワロはくすくす笑っている。
「遊びにきたんじゃねえぞ」
先頭の牛車から、ハンガが怒鳴る。
「この道は、野盗が多いんだ。気ィ抜くんじゃねえ!」
「やべ」
「行きましょ」
そう言って二人は小走りに戻っていった。