五幕・剣の十
少女は、多くの人の気配を感じて、目を覚ました。少女と同じ部屋には、連れの二人と一匹の寝息以外は、なにも聞こえない。
当然だ。気配はもっと近く、躰の中に感じているからだ。
少女の右腕が、小さく痙攣をするように震えだす。そして、左手、両足、さらに体中の筋肉が、皮膚と脂肪の下に何か別の生き物が蠢いているような動きを繰り返す。
少女は、思い通りにならない右腕を、それでもなんとか持ち上げ、まだ薄い左胸にあてる。その手の下に、あがくように、踊るように、鼓動が感じられる。
少女は、唯一己れの自由になる顔の表情に薄い笑みを浮かべ、まだ暗い天井を見つめている。躰の中の生き物を、自由にならない両手のひらで撫でさすりながら、少女はぼんやりと考える。――まだこの子達は生きている。大丈夫。
そして、彼らが再び眠りに就くのを体中で感じながら、少女も墜ちていった。
懐かしい、悪夢の中へと。
一夜明けて、三人と一匹が朝食を終えた頃、店の親父――ランドウという名前だそうだ――が、食堂まで迎えにきた。
「どうも、お待たせいたしました。さっそく出発してもよろしいですかね」」
そのランドウは、牛車を二台とヒシュの御者を一人、キシュの護衛を二人連れていた。
牛車一台につき、御者が一人に護衛が三人というのが、この大陸を旅する商人にとって最低の備えであるということを考えると、ランドウがわざわざロウゼンに声を掛けたことも肯けなくもない。
そして宿の一同に盛大に見送られ、一行はロイズラインに向けて出立した。
護衛の女戦士が一人先頭に立ち、もう一人は後を護る。一台目の牛車は、ランドウが手綱を引いて、ロウゼンが持ち込んだものを含めた、古い剣を積む。二台目の牛車には、これは新しい鎧や、鎧に加工する前の、丈夫な革を山積みにしてあった。
マーゴはランドウの横で牛車に揺られ、ロウゼンはその横を牛車の歩みに合わせてゆっくりと進む。ペグはといえば、よほど気に入ったのだろう、ロウゼンの肩の上に陣取り、豹はその足元をつかずはなれず歩いている。
誰も口を開かずに、黙々と歩き続ける。ランドウなどは明らかに黙っているのが苦手な質なのだが、隣に座るマーゴの冷たい態度を打ち破ることが出来ずに、独り口をもぐもぐさせている。そして一行が、町を抜け、広い農園を抜け、密林を貫く隧道のような道に入り、ようやくランドウが何か話そうと、マーゴの方を向いた時――
「ひぃっ!」
ランドウがのけぞった。
その悲鳴と、二の腕に感じた少し固めの毛皮の肌触りにマーゴが目を向けると、いつの間に牛車に乗り込んだのか、豹が頭をすりつけて、小さく喉を鳴らしている。
金色の毛皮に目を奪われたままのランドウに、小さくごめんなさいと言っておいて、マーゴは豹を連れて荷台に移った。覆いをかぶされた剣の束に背中を預け、左手で豹の喉を掻いてやりながら、木の葉の隙間から見え隠れする、青い空を見上げる。
不思議だった。あの男のことを考えただけで、彼女の心は恐怖に慄いていたはずなのに、実際にあの男のもとに向かっているのに、今はなんともない。もちろん心の片隅は、痺れるように緊張しているが、決して怖れに足が竦むようなことはない。
視線を倒して、ロウゼンを見る。あいかわらず、物も言わずに歩き続けている。その肩の上には、今は肩車のようにロウゼンの首にまたがって、大きな頭を抱きかかえるようにして眠っているペグが見える。むっつりとした顔をして、それでもペグが肩から落ちないように小さな彼女の小さな足をささえているロウゼンが、何となく微笑ましい。
「そういえば……」
なんだろう。昨夜、自分の躰に起こったことは、ぼんやりと覚えている。あの発作は初めてのことではない。二度目。いや、三度目だろうか。夢うつつで、意識がはっきりしていなかったので良くは覚えていないが、だれかの意識が伝わってきたような気がする。それも一人ではない、多くの人の意識が。
以前、同じことが起きたのはいつだっただろう。確か、あの家からなんとか逃げ出したいと、そう考えていたときだった。あの男がどこかに出掛け留守にしていた。友達もその時にはすでに一人もいなかった。彼女をその家に留めるものは、十数人の、あの男の配下の兵士たちと、本当に逃げ出すことが出来るのかという不安。失敗したときに、あの男に何をされるのかという恐怖だった。
そして、その夜にあの発作が起きた。次の日には、あの家を逃げ出す覚悟が出来ていた。
今、心は、不思議なくらい落ち着いている。まるであの時と同じように。
今度は逃げ出そうというのではない。あの男と対決しようとしているのに。
ロウゼンどころか、ペグも巻き込もうとしているのに。
「あれは誰だったんだろう」
左手に、豹の喉を鳴らす響きが伝わってくる。一瞬差し込む日の光が、銀の瞳の中で輝き、その目を細めさせる。
――もちろん、彼女は答えを知っている。
一行が、ロイズラインへ向かう道の中間点である駅にたどりついたのは、まだいくぶん、明るさの残っているときだった。
進もうと思えばもちろん出来るが、そうすれば、屋根もなく、火も焚けない道の途中で夜を明かさなければならない。
ロイズラインの城主が変わり、何かと物資が不足しているわけだから、ラルカロオから商品を運ぶ商人が他にいてもいいはずだが、今日はランドウたち一組だけのようだ。後から到着するものもいるかもしれないが、目敏いものは昨日のうちに町を出ているのだろう。火を焚いた後もまだ黒く、轍の跡もたくさん残っている。
夜の雨をしのぐための小屋に牛車を入れ、引き牛を放してやる。そして荷台に積んできた薪を篝火にして火を灯し、これも町から持ってきた果物と塩漬け肉で、食事を始める。
「ランドウさん。誰か来る」
一人だけ食事を取らずに、道で見張りに立っていた女戦士が、駆け寄ってきた。
「ロイズラインの方からだ」
「城兵か、それとも野盗か?」
ランドウは慌てて立ち上がり、女戦士を問い詰めた。残りの護衛も、剣を手に立ち上がる。
ロウゼンとペグは、そ知らぬ顔で食事を続けたが、マーゴはとても冷静ではおれず、その場に立ち上がり、女戦士を見つめた。いくら覚悟を決めたとはいっても、あの男に関係しているかもしれないことについては、どうしても鼓動が激しさを増してしまう。
「いや、ただの商人だと思うが、一応報せておいた方がいいかと思って」
なんだ、と立ち上がった三人が、異口同音につぶやいて体の力を抜く。そして改めて食事を続けるうちに、つぎつぎと空の牛車が駅に入ってきた。ラルカロオに買いつけにいくのだろう。全部で十五台。かなりの規模である。もっとも、明らかに独立した商人に見える者が、数人いることから、幾つかの店で共同で買付けに出たのかもしれない。隊列が大きければ、それだけ道中襲われる可能性も低くなるので、結構頻繁に行なわれている。
その中で頭立った商人が挨拶に来た。護衛を一人連れている。
物腰の柔らかい、高齢の女商人である。
「どうも、お食事中、お邪魔しますよ」
ランドウが、また慌てて立ち上がる。護衛がついているのを見て、女戦士もそれに続く。
そして、お決まりの挨拶に続き、様々な情報交換を始める。とはいえ、主に情報が欲しいのはランドウの方なので、ロイズラインの治安の様子などを尋ねている。
そのとき相手の連れていた護衛が、マーゴを見て目をすうと細めた。なにか、探していたものを見つけたかのように。しかし、それに気づくことができたものは、誰もいない。
「それでは、失礼いたします」
女商人が立ち去り、日もとっぷりと暮れる頃には皆、小屋掛けの下に持参した布を敷き、眠りにつく用意をする。明日は、日のあるうちにロイズラインに入って商売が出来るように、夜も明けないうちに出発するためだ。
ロイズラインからの一行も含めて、皆が寝静まった頃、黒い人影がひとつ起き上がり、ロイズラインに向かって走り去った。それを見送るのは、横になったまま目を光らせている男が一人。女商人について挨拶に訪れた、あの護衛だった。
翌朝、まだ足元もはっきりと見えない時間に、ランドウの一行は駅を発った。
この駅は、中間点とはいっても幾分ラルカロオ寄りにあるために、ロイズラインに日のあるうちに着こうと思えば、このくらいに出発しなければならないのだ。
逆にラルカロオに向かう一行は、もう少しゆっくりするらしい。ランドウらが出発する頃にようやく食事を済ませ、軽く体を動かしていた。
彼らの姿が木々の向こうに隠れる頃に、ようやく辺りが明るくなってきた。
日の光が差し込むにはまだ時間がかかるが、それでも天蓋の上の方は、きらきらと光を受けて輝いている。その下を、美しい羽をはばたかせて、ゆったりと鳥が飛び回っている。
太陽が直接照らす町中とは違って、密林の中はまだしばらくは涼しさを感じることができる。
マーゴは昨日とは違い、牛車に乗らずに歩いていた。
膝近くまで伸びている下生えの草々に降った朝露に、むき出しの膝まで濡らしながら、牛車の歩みに合わせて一歩ずつ足を前に進めていく。
荷台では、ペグが一人遊びをしている。豹は密林の奥を、見え隠れしながらついてくる。
そしてマーゴは、すぐ横を歩いているロウゼンの手を、ぎゅっと握っていた。
「ロウゼンさん――」
マーゴが、ずっと上の方にあるロウゼンの顔を見上げてその名を呼んだのは、朝露が完全に蒸発してしまい、日光がちらちらと、地面まで届くようになってからだった。
そんな時間までロウゼンは、マーゴの手を振り払ったりしないように、そっと腕を垂らしたまま歩いていた。
常に怒っているような顔をして、真っすぐ前を見て歩いているロウゼンの視線が、マーゴが声をかけると一瞬下を向き、マーゴを捉える。が、すぐに元に戻る。
マーゴもそのまま、ロウゼンの腕にすがりついて、歩き続ける。上空を風が通り過ぎ、木々の梢を揺らす。時折、戯れに大鼠を追って、豹が飛び出してくる。
誰も言葉を発しないまま、ゆっくりと歩き続ける。護衛の二人はあくびをかみ殺しながら歩いている。ランドウにいたっては、手綱をなんとか握ったまま、首をがくっと落としてはなんとか目を開くということを繰り返している。
夜明け前から鳴いていた虫の声も、時が経つにつれて耳を聾せんばかりになっている。
「お父さん――」
ロウゼンの耳に、虫の声に隠れるように小さく、しかしはっきりと、マーゴの声が聞こえてきた。彼のふしくれだった指をつかんだままのマーゴを、見下ろす。
彼を見上げる銀色の瞳の中に、かすかな怯えと迷い、そして、狂おしく、何かを求めるような光がある。
しかし彼は、その光に対して何かを答える術を、言葉を、今は持っていなかった。
だから、少女の瞳から視線をそらし、道の先を見つめる。
マーゴもまた、自分の足元に視線を落とす。
――何か返事を期待して呼び掛けたわけじゃない。でも、今日中には、あの男のいる町に入る。お城に乗り込んでいくわけにはいかないから、あの男とすぐに対決するわけじゃないけど、いや、どうやったら、あの男に捕まらずに対決できるのかさえ、よくわからないままだけど。
足が竦んで、動かなくなることもない。小さな胸の中の心臓が、破裂しそうになることもない。あの男に会うための覚悟は出来ている。でも――
それでも、誰かに助けてほしかった。そして助けてくれるのは、自分を「娘」と呼んでくれたこの人しかいない。だから、その絆を、この人が繋いでくれているはずの絆を、確かめたかっただけなんだ。
虫の鳴く声が、少し響きを変える。梢を跳び飛び交う猿たちの呼び合う声も、少し低くなる。まだ空の色は変わらないが、今日も日蝕の刻が近づいている。
今日が、もう半分過ぎた。あと半分であの男のいる城下町に着く。
マーゴはまた、ロウゼンの指を、ぎゅっと握り締めた。
道の先から、ラルカロオへ向かう隊商が、ゆっくりと近づいてくる。