………剣の八
その夜、少女は暗い部屋の中にいた。
五歩四方の小さな部屋。後ろの壁には扉があるが、それはかたく閉ざされている。壁に掛けられた、いくつかの灯明以外にはなにもない。薄暗い、揺らめく炎が、窓一つない部屋を照らしだしている。だがこの部屋にいるのは、少女ひとりではなかった。
少女の前には、厚い木材を組んだ格子がある。まるで牢獄のようだ。しかし、少女が牢獄に入っているわけではない。牢の中は、少女の目の前の格子の向こう。そこに置かれた、どす黒い何かで汚れた椅子に座っている、黒い目と褐色の肌をした、昨日までいつも一緒にいた少年。囚われているのは、彼。
少女を見つめるとき輝いていた目は、涙で曇り、少女の名を呼んだ口は、恐怖でこわばっている。少女に花を差し出した優しい手は、細く固い紐で椅子に縛り付けられ、少女とともに駆け回った足は、床につけることもできず、宙をさまよっている。
「ルジョン?」
少女は格子にすがりつき、少年の名を呼ぶ。
少年は、その声に目を見開き、泣き叫んだ。
「ねえ、ここから出してよ。お願いだよ。ねえ」
少女は宙を見上げ、そこからは見えない誰かに叫んだ。
「お願い。もうやめて。ルジョンを助けて!」
「ぎゃあ!?」
少年の絶叫。
「ルジョン!」
突然少年の腹から、一本の剣が生えた。
「痛いよ……痛い……うう……イタイ……」
少年の顔が、これ以上ないくらいに歪み、足が不思議なくらいゆっくりとあがく。体をときおり、痙攣するように捻る。
「やめてぇぇぇ!」
少女が、少年との間に立ちふさがる格子を、必死にゆさぶる。だが、少女の細い腕でいくらゆさぶろうと、こゆるぎもしない。
縦と横の木を結ぶ綱をなんとか引きちぎろうと、指先から血がほとばしるのにもかまわず、爪をたてる。
少年の名を、狂おしく叫ぶ。どうか助けてと、哀願する。
少年の座る椅子の下に、濃い色をした何かがしたたり、広がっていく。
少年の身体から、少しずつ力が失われていく。
少女は、格子のすき間から、
少年に向けて、手を差し伸ばした。
少年の身体から、淡く赤い光が浮かびあがり……
少女の手が、突然引かれた――
「ごはん」
少し不機嫌そうな声が、そう告げる。
声のするほうに目をやると、琥珀色の瞳をした女の子が、マーゴの手を引っ張っている。
「……あ、ペグさん。おはようございます」
マーゴは身体を起こし、ペグに挨拶をする。
「お……う……」
ペグは、はにかんだように顔をしかめ、小走りに部屋を出ていく。
マーゴも寝台から身体を下ろすと、いったん宿屋の外に出る。建物は違うが、夕食を食べた食堂と経営が一緒なので、食事はその食堂で食べることになっているのだ。
太陽はすでに高く、その空をまぶしそうに、マーゴが見上げる。密林のなかではほとんど届くことのない光が、銀色の髪の毛を輝せた。
いつもなら、日の出とともに目が覚めるのだが、やはり昨日は疲れていたらしい。すでに熱をはらみだした空気を、大きく胸に吸い込みながら、ついさっき見せてくれた、ペグの笑顔を思い出す。たとえすぐに失われてしまうかもしれなくても、いや、だからこそ、人の笑顔は宝物なんだ、マーゴはそう、心から思う。
その時、ふと気がついた。昨日あれほど不安そうだった町の人たちが、今朝はそれほどでもない。この時間に道を往来するのは、城兵や農民ら、キシュがほとんどだからなのか、食堂の主人にまた聞こうと、マーゴは食堂の入り口に足を向ける。
食堂に入ると、ペグが昨日の席についていた。その足元で、皿に乗せられた肉に、豹がかぶりついていた。
「ロウゼンさんは……?」
「……」
マーゴの問いに、ペグは入り口と逆のほうを指差すことで、答える。
そちらを見れば、ちょうどロウゼンが裏口から入ってきたところだった。すでに剣を振り回してきたのか、左手に剣を下げ、全身にうっすらと汗をかいている。
少女らの傍まで来ると、椅子を引きながら、体を縮めて立っている店の主人に目をやる。
「すっ、すぐに持ってまいります!」
かわいそうな主人は、いそいで厨房にかけこんだ。
店の中は相変わらず、三人以外に客はいない。ただ朝食の時間にしてはかなり遅いので、ロウゼンのせいで客が逃げ出したわけではない――と思いたい。
「どうしてみなさん、ロウゼンさんを恐がるんでしょうね」
ペグに小さな声で訊いてみると、くすくす笑っている。
「ペグさんは、ロウゼンさんが恐くないの?」
ペグは首をぷるぷると振ると、椅子から滑りおりて、ロウゼンの膝をよじ登る。ところが、ちょうどその時食事が運ばれてきたものだから、ペグはロウゼンにえり首をつかみあげられ、猫の子のようにもとの椅子に戻された。
「あ――!」
ペグは頬をふくらませると、肉を食べている豹の上に飛び降りて、豹の毛皮をかきまわす。当然、豹は怒って、ペグに襲いかかる。
「ひっ!」
それを見た店の主人が、牡鹿のあばらのあぶり焼きを持ったまま凍り付いた。
その焼肉を、手を伸ばして取り上げると、豹と一緒に床を転がり回っているペグにむかって、「早く食え」と、ロウゼンが声を掛ける。
「な、なんてことを言うんですか?」
店の主人が、悲鳴まじりに叫ぶ。今にも組み伏せられようとしている少女が、豹に喰われてしまうと勘違いしたのだろう。
もちろん、豹は戯れついているだけだし、ペグも素直に豹を押し退けて、椅子に上って食事をはじめる。
獣と女の子のいつもの戯れ合いを知っているマーゴでさえ、豹がペグを組み伏せて、肩などに牙をむいて噛み付いているところを見ると、つい声をあげそうになる。だから、茫然と立ち尽くしている主人を見ると、同情してしまう。と同時に、笑いをこらえることができなかった。
ロウゼンににらまれたので、マーゴも笑いをおさめて食事をはじめる。マーゴとペグのメニューは、牛の骨と野菜からとった出汁で炊いた、具だくさんの雑穀粥と、新鮮な果物。そしてロウゼンの前には、さっきの焼肉と、猪肉の薫製の野菜あんかけ、大きな椀にいっぱいの粥、米の粉の生地で挽肉を包んで蒸しあげた団子、そして果物と、密林の住居での朝食と比べものにならないくらい、豪勢なものが並ぶ。
朝からこれだけ食べる人もそうはいないだろうから、わざわざロウゼンのために作ったのか、それとも、昨夜の残りを温め直したのか。ロウゼンのせいで客が逃げてしまったことを考えると後のほうかもしれないが、そうであれば、店の主人も怯えている様子の割にはいい度胸をしているというか、なかなか根性がある。まあ、道沿いの、城からもそれほど離れていない一等地に店を構えるくらいだから、それも当然かもしれない。
「おいしい!」
一口粥を口に入れ、思わずマーゴは嘆声を漏らした。思えば、昨日一日、ろくにものを食べていない。口の中を火傷するのにもかまわず、あっという間に粥を平らげ、ロウゼンの料理をつい、ものほしそうに見つめてしまう。
ロウゼンは、その視線に気づいたか、それとも食物を狙う、殺気にも似た気配を感じたのか、食え、というふうにアゴをしゃくる。
そしてペグも含めた三人で、あっという間に並んだ料理を食べつくし、食後のお茶を飲んで、やっと一息ついた。そしてようやく、今朝の疑問を口にする。
「あの、町の皆さん、きのうと比べてずいぶんと落ち着いたみたいですけど、また何か情報があったんですか」
少し疲れた様子で、店の奥に立っている主人に、マーゴが訊ねた。食べる前から気にはなっていたのだが、空腹には勝てなかったのだ。
「ええ、そうなんですよ。お嬢さん」
基本的に、話し好きな性格なのか、ロウゼンを気にしながら、それでも少し嬉しそうに、マーゴのそばに歩み寄る。マーゴの見た目はまだまだ子供なのだが、いっぷうかわった肌や髪、瞳の色を見て、ヨウシュであろうと見当を付けたのだろう。ヨウシュは見た目と中身が、ずいぶん違うことがたまにあるので、マーゴに対する言葉遣いは丁寧なものである。
ロウゼンは、関心があるのかないのか、椅子の上にそっくりかえって、ゆっくりとお茶をすすっている。
「実はですね、昨日ロイズラインがミューザの軍に落とされたって言いましたけど、どうやら新しい城主が組合と共闘契約を結んだそうなんですよ。これでしばらく戦は起きないでしょう」
戦が起きれば、武器や防具が動くし、一方では道が封鎖されて、流通が滞ったりする。だから商人にとって戦の情報は商売上の命綱といってもいい。それに城主にとっても、商人だけでなく、城兵を越える戦力をもつ農民たちの協力を得やすいということもあって、積極的に情報を公開することが多い。それにしても、これだけ素早く、隣の城下の情報が入ってくるということは、このラルカロオの城主は、ただ何もせずに守っているだけではなく、情報収集に抜かりはない、ということだ。
しかし――
「あの、組合と契約って、どういうことなんでしょうか?」
主人の言っていることが、よくわからない。
「ああ、皆さんはシュタウズでしたね。わかりました。詳しくお話しましょう」
マーゴはシュタウズではないし、ペグもそうだ。ロウゼンも集落から出て暮らしていたので、生まれはともかく、いまは厳密にはシュタウズとは言えない。しかし常識から隔離された状態で暮らしていたことは間違いないので、かまわず話の続きを聞く。
「このアロウナ大陸には、たくさんの城があって、城下町に多くの人が住んでいます。で、城には城主がいて、彼が城下を治めるということになっています。それを定めているのが、偉大なる統一王の定めた統一法なのです。そのことはご存知ですか」
「ええ、まあ、なんとなく」
「そうですか。それで統一法には、農民たちを束ねる組合を置くようにも定めているのですが、その組合は、実質城主に匹敵する権力を持っているといえます。なぜなら農民はほとんどがキシュで、成人するまでは、戦士となるべく修練を積んでいた人たちですし、人数も城兵と比べものになりません。もちろん、城兵たちと違って、むやみに戦うことは、統一法で禁じられていますが、戦うべきときも法によって定められています。ロイズラインがどうやって落とされたか、誰かから聞かれましたかね?」
「いいえ」
マーゴが首を振るより前に、主人は再び口を開く。
「城主は強い戦士でなくてはならないと、統一王は考えられたんですね。ですから戦のとき、城主が城の中に引きこもることは禁じられました。もし敵に攻められたときに、城から出て、密林の中で迎え撃たなかったときには、組合、つまり城下の農民すべてが城主の敵に回るわけです」
「じゃあその、ロイズラインの城主さまは……」
「そう、城に篭もりましてね、そうなれば、城兵との契約も破棄されるので、配下の兵に討たれたのかも知れませんが……。戦の勝敗っていうのは、城主の首を取るかどうかで決まりますから、城主が外にいるかぎり、組合が戦うことはないんですよ。つまり、組合の戦力は、外ではなく、常に内側をむいているわけです。」
主人のしゃべりに熱が入る。
「ただ、城主にしても、いつも外に出られるわけじゃありません。とくに城主に新しく着任したときには、十分な戦力を持っていないわけですよ。そこを攻められて、それを迎撃しろってのは、まあ無茶ですよね。そんなときに、城の戦力が整うまで、どうか一緒に城を守ってくれ、っていうのが、共闘契約なわけですよ。それを結んだということは、ロイズラインには、ミューザも大きな戦力を持ってきていない、つまりロイズラインからこの町に攻め込んでくることもない、ということなんです」
「……」
ペグはいつのまにか、豹を枕にして、床で眠り込んでいる。
そしてロウゼンは、剣を片手に立ち上がった。いい気分で話していた主人が、見た目にもはっきりと、身をすくめる。
「あの……、何かお気に障るような……」
「……剣を振ってくる」
そのままロウゼンは、裏口に消えた。
「あの、何か怒ってらっしゃるので」
ふう、と息を吐いて、主人がマーゴに聞く。
「いえ、気にしないでください」
退屈だったのだろう。
「そう、ですか?」
主人はまだ不安そうだ。
「さっきの続きなんですけど、城主さまがいちばんえらいんじゃないんですか」
「まあ、そうなんですけど……。お茶、お代わりはいかがですか」
「いただきます」
「じゃあ私も、ご一緒させていただいて」
それでもロウゼンがいなくなって気が楽になったのか、お茶の用意をしながら主人が続ける。
「組合の長も、城主も、それに、いくつもの城を支配下に置く王でさえ、統一法に従っているだけなんです。で、その統一法は、統一王以外の人間に、大陸を支配するような権力が集中することのないようにできています。組合が城に納める食料で養える兵は限られているし、定められた以上の食料を徴収することは違法です。で、組合が戦うことも、定められたとき以外は違法。城主の権力を保障しているのも統一法だから、組合が法を破って、城の権力を握れば、まわりの城の城主がそれをよってたかって取り締まります」
「でも、城兵より組合の方が強いんじゃないんですか」
「一概には言えませんがね。たしかに数は違いますが、とくに腕の立つキシュが城兵になるわけですし、戦いにも慣れていますし、鋼の剣や盾も持っています。実際に戦えば、城兵の方が強いんじゃないですかね。だからといって、城主が力ずくで農民を支配できるほどの差ではないわけです。で、せめてまわりの国に攻め込んで勢力を拡大しようとしても、自分の国を空ければ、そこを攻められてしまう。それでも頑張って、いくつかの城を攻め落として、王となっても、その王が死ねば、それぞれの城主に分けられてしまいます。この大陸を統一しようにも、統一法が邪魔をする。でも統一法をかえられるのは、統一王だけです。まあ、うまく考えられてますよ」
「……」
「私等にしてみれば、せっかく大陸を統一して、戦もなくなったのに、なんでわざわざ大陸をばらばらにしてしまうような統一法を作ったのか理解に苦しみますが、そのおかげで統一王の名前が何千年も残っているわけですから、それが狙いだったのかも知れませんね。キシュの人たちは、自分の名誉のために戦っているらしいですから」
主人は、理解できないというふうに、肩をすくめる。
「話がずいぶん逸れてしまいましたね。ロイズラインですが、組合と共闘契約を結んだ、ということは、少なくとも戦力が整うまで戦にはならない、ということです。このラルカロオもしばらく戦をしてませんから、ロイズラインが落とされたと聞いて、みんな警戒していたんですが、やっと落ち着いた、というわけですよ」
「あの、城主には誰がなったのかは、まだご存知じゃないでしょうか」
おそるおそる、マーゴが訊ねる。
「えー、まだ正式に決まっていないらしくて、とりあえず代理ってことですが、フィル、じゃなくで、フィーゴ、でもなくて……」
「フィガン」
「そうそう、……ご存知なんですか?」
いえ、と口の中でつぶやき、視線を両手の間にある茶碗に落とす。マーゴの白い肌が、さらに透明感を増した。
急に雰囲気が変わったことに、主人は戸惑って、口をつぐむ。そして、昼のしたくがありますんで、とかなんとか、もごもご言って、席を立つ。
どのくらい考え込んでいたのか、窓から差し込む日の光の描く模様が、少しずつ、その位置を変えていく。
突然、マーゴの膝の辺りを、暖かい何かが触れていった。目をやれば、豹が椅子からぶらさがっているマーゴの足に、体をこすりつけている。その向こうで、ペグが目をこすりながら、体を起こしている。豹が動いたことで目が覚めたのだろう。不機嫌そうだ。
「ペグさん、おはようございます」
その声が震えているのに気がついたのか、ペグが怪訝そうな顔をした。マーゴに近づいて、その手に触れる。そして、マーゴの顔が、くしゃりと歪んだ。
「ペグさん、……どうしよう」
マーゴが体を折り、彼女のものと比べても、まだ小さなペグの手を推し抱く。
「あの男が……、近くまで来ている」
ペグの顔が、上を向いた。その理由に、マーゴは気付いていた。
「その男は、どこにいる」
錆びた、低い声が、頭上から降りてくる。その問いに答えることで、一体何が起きるのか、もちろんマーゴは知っていた。あの男との対決が避けられなくなること。ロウゼンが、彼女のために、あの男を殺そうとすること。そして、あの男は、決してそれを許さないこと。最後の時までに、ロウゼンと彼女の手によって、多くの命が失われること。
「ロイズライン……です……」
マーゴは、答えた。