臨戦
満点の星空から、光の矢が降り注ぐ。いつもは月が輝く天頂には、いまは暗く赤い円盤が、踏み消された焚火の燠よりも微かな光を、ぼうと放っている。じっと見つめるほどに、朧に揺らぐ昏い月。月蝕だ。
力の源たる月の隠れるこの時間は、戦いが交わされることが普通はない。ある程度夜目の効くキシュといえども、月明かりのない中で、敵と味方を見分けることができないということもある。
だが、より大きな理由は、赤い光の下で死んだ者の力が、月に帰らず地上を彷徨い、災いをなすと信じられているからだ。
――この男が戦わないのは、どっちの理由だろう。
ロイズラインへとつづく道の正面に陣取った王の横で、ふと、フェロは思った。
この男こそが災いなのだから、ミューザはなにものをも恐れないのだろう。それでもいい――
フェロは、慣れぬ思索をすぐに打ち切った。
――恐れは、戦いには不要なものだから。
黒々と浮かぶ雲の縁が、ほんの僅かだけ、白く見える。見上げれば、大地の影が、月を少しだけ吐き出していた。
「そろそろだな」
闇に目が慣れているはずの敵に対して不利にならないように、ミューザ軍は兵糧を使ったあと、すべての灯りを消している。それでも消しきれなかった町を焼く火に照らされて、黒い固まりが、あちらこちらで蠢きだしている。百戦錬磨の戦士達の感覚が、敵の接近を捉えたのだ。
戦術はすでに定まっている。目的は、敵の頭を獲ることではなく、殲滅。突出してくるであろう敵の先陣を誘い込んで、十分引き込んだところで退路を塞ぐ。
そのための戦力は、連戦のあとでも十分残っている。ミューザ配下の城から、決して十分とはいえない戦力を引き抜いてきていたし、町に火を放ち、民を盾とし、戦力の消耗を抑えてきた。
烏の偵察が正しければ、ミューザ軍は、敵の三倍以上の戦力差で、戦いに臨むことができるだろう。フェロの参加した今までの戦いと同じく、ミューザの勝利は間違いないように思える。だが、法の子の戦士は、期待をしていた。
このミューザの方が、より扱いやすいと言った烏の言葉。それが真実ならば、フェロが下界に下りてから初めて、歯応えのある相手と戦うことができる。
俺に与えられた使命の意味はこれだったんだ。フェロの体を、リーズを出てから初めて、歓喜がはしる。物心ついてから、ずっと鍛え上げられてきた俺の力は、無駄じゃない。
「来たか」
地べたに直接胡坐を掻いていたミューザが、立ち上がった。まわりに控える側仕えの戦士達が、弛緩させていた体を僅かに緊張させる。
ざあ、と視線の先を塞ぐ密林の闇が揺れた。それと同時に、敵の出現を待ち構える戦士達の剣が、抜き放たれた。
まだ半ば以上姿を欠いている月の光を、その剣が反射して煌めく。
低い轟きが、密林の奥から、溢れだしてくる。ミューザ軍の気勢が、指向性を持って、それを迎え撃つ。戦いが、始まる。
剣を天に掲げたフェロの雄叫びが、四万の軍勢のものと混じって、夜空を満たした。
自分の鼻先も見えない暗闇の中、それでもロウゼンの足取りは揺るぎない。見上げれば月蝕の中、木々の梢を通して、僅かな星空が前方へとぎれとぎれに続いている。ロイズリンガへと繋がる道が、その下にある。
ランタンも松明も、すでに消した。皆、前をゆく者の気配を辿って、脚を踏みだしてゆく。
どのように戦うかは決まっていない。だが決まっているともいえる。
軍は城主の手足だ。だがこの軍の頭であるロウゼンは、手足よりも先に斬り込んでゆく以外の戦い方を知らない。グルオンも、それ以外の戦い方をロウゼンに求めていなかった。
なぜなら、城に拠って生きる者の意志は、城主の意志だから。ロウゼンが勝つための戦いではなく、戦うための戦いを求めるのならば、それでいい。ロウゼンの後ろで戦うことが、グルオンの望みなのだから。
ロウゼンの歩みが、徐々に速くなる。姿を現してゆく月につられているようだ。
戦場が近づくにつれ、体が、心が昂揚してゆく。人の死を厭うグルオンでさえそうなのだ。戦いのために生きるキシュの戦士達は、すでに、声にならない雄叫びを体中からあげていた。それが、密林の木々を揺るがす。
道の先が、仄かに赤く光った。密林の出口だ。敵が待ち構えていることは、言うまでもない。だが、その気配に誘われるかのように、ロウゼンは疾走を始めた。
密林の切れ目を目前にして、剣が鞘走る。闇が開ける。
戦が、始まった。
いつもありがとうございます。
あまりに眠くて更新前に仮眠を取ったので、ボーっとしてます。
寝足りない……
でも寝ようとしたら、今度は目がさえて眠れないんだろうなぁ。
次回予告。
この子は、私に似ている。
マーゴの瀬を見つめながら、トワロはくすくすと笑った。
恋に恋する乙女じゃあるまいし――
四幕第十一話「見えない糸」
12/11更新予定。
でも眠い。