罅割(ひびわ)れた心
「ここだよ。――おーい。トワロさん、いまひま……じゃあないか」
治療院の戸口をくぐったトリウィは、トワロの姿を見て、たたらを踏んだ。
彼女は、診療台に横たわっている男の前で、たすきがけにした着物から伸びた両手を、肘まで血に濡らして立っていた。トリウィに目配せをしてから、小屋の奥に声をかける。
「傷はふさぎました。ただ、ずいぶん血が流れてしまいましたから、しばらく休ませてあげてください」
「おう。いつも世話をかけるな」
奥の暗がりから、太った男が歩み寄ってきた。台の上の男は、なんとか体を起こそうとする。
「すみません、親方」
「馬鹿野郎が。頭を下げる相手が違うだろうが。けえるぞ」
親方と呼ばれた男は、患者を肩に担ぐと、トワロに笑いかけてから、出ていった。
「エイルさんとこの人?」
「ええ、喧嘩で刺されて。十日ほど前にも、運び込まれてきたばかりなのに。――それより、どうしたんですか?こんな時間に」
「ああ、うん。トワロさんに、お客さんなんだ」
「お客様?誰です?」
「入っておいでよ」
トリウィに呼ばれて入ってきた、小さな客の姿を見て、トワロの目が大きく見開かれる。
「ああ、ちょっと――すぐに手を拭きますから」
慌てて濡らした手拭いで血糊を拭き取り、たすきを解く。
「ごめんなさい。いま椅子を――」
「いえ、いいんです。あの……助けてほしいんです」
マーゴは、両手を固く握り締め、トワロを見上げて言った。
「ペグさんが、軍を追い掛けて出ていっちゃったんです。でも、サルトさんは誰も捜索に出してくれなくて、わたし一人じゃあ、密林に捜しにいけないし――」
「でも、ペグちゃん、いつも遊びにいってるんだろう?俺も何度か見たぜ」
「絶対、夜までには帰ってきてたもの。それにいま、お父さん達と一緒に剣の修業の真似事をしているから、それで戦えるなんて勘違いして――」
「マーゴちゃん。それ、ちょっと、俺には痛い――」
「どうして、わたしなら、あなたを助けると思ったんです」
トリウィをさえぎって、トワロが言った。その表情が、トリウィには見覚えがあるものに変わる。
――どうして助けてくれなかったんだ――
かつて、彼がトワロに問い掛けたときに見せた表情。光を吸い込む、昏い瞳。
「そのペグと言う子が、戦場にいったかもしれない。ならばその子を助けるために、多くの戦士を殺さなければならないかもしれない。それだけの価値が、その子にあるのですか?」
「だって……」
「たしかにわたしは、あなたを助けました。そのために、多くの人を斬りました。でもそれは、あなたがわたしの娘だから。あなたはわたしにとって、この大陸すべての人を殺しても助けるだけの価値があるから」
トワロの頭が、くっと傾げられて、漆黒の髪の毛が、ゆらりと揺れる。
「でも、その子のことは知らない。わたしには何の価値もない子供を助けるために、わたしに戦え、と?」
「トワロさん、ちょっと待てよ」
顔を強ばらせたマーゴを見かねて、トリウィが口を挿んだ。
「あんたが言いたいことは、ちょっとはわかるような気がしないでもないけど、でも、いまそれはないだろう。せっかく娘さんが、あんたを頼ってきてんのに」
「トリウィは黙ってて」
「そりゃあ、あんたは誰かを助けるために、誰かを殺すことはしないって言ってた。その理屈はわかるけど、あんたはこうも言ってたよな――」
「トリウィ!」
「あんたが殺すのは、殺したいからだって。だったらマーゴちゃんのため……に……」
トリウィの口が凍った。
「ごめん……」
それは、トワロがすべてを消してでも忘れ去りたい言葉だった。彼女が誰のためにも戦わないというのは、己れの忌まわしい本性を覆い隠すために他ならない。
やばい。トワロさんには、絶対に言っちゃいけない言葉だった。トリウィの背中を冷汗が流れる。前に彼女がそれを口にしたときには、トリウィもラミアルも、殺されるところだった。この口は、どうしてこんなに軽いんだ。
「ごめんなさい」
マーゴが、頭を垂れた。どうして、この人なら助けてくれるって思ったんだろう。
「わたしひとりで、探してみます。おじゃましてすいませんでした」
「わあ、マーゴちゃん、ちょっと待って。トワロさんもさあ、子供一人探すだけなんだから、戦わなきゃいけないとは、限らないじゃないか。何をムキになってんだよ」
「わたしは別に、ムキになんて――」
抗弁しかけて、トワロは溜め息を吐いた。闇の瞳が揺らぐ。娘がお父さんと呼ぶのが、かつての自分の夫じゃない。それは仕方がないことだけれども、自分までもが母親じゃないと否定されているような気がした。だが、それも仕方のないことだ。赤子を奪われてから今まで、母親であったことはないのだから。
「――わかりました」
「トワロさん!」
トリウィが安堵の声をあげ、マーゴも再び振り向いた。
トワロは、小屋の奥の壁に立て掛けてあった二本の剣を拾い、筵で巻き込む。
錬成館で、同輩の誰よりも先に授けられ、とても誇らしかった二本の剣。
お前は戦士にはなれない、そう告げられてからも、ずっと手放さなかった二本の剣。
刻みの甘い後付けの量産品だが、敵の剣に咬ませることは滅多にないから、刃毀れはほとんどない。手入れは常に欠かさなかったから、赤錆ひとつ浮いていない。
それを胸に抱けば、ひび割れ、欠け落ちた己れの殼の隙間が、塞がれるような気がする。
「行きましょう」
「は、はい」
この子を胸に抱ければ、すべての隙間が埋まるのだろうか。いつか、罪が赦される刻がくるのならば――――
いつもありがとうございます。
……あれ? 何か書こうと思ったんだけどな。
忘れるってことはたいしたことじゃないかな。
次回予告。
闇が天の月を喰らうとき、戦気は森を揺るがせる。
残虐なる王と野蛮なる王。
激突の瞬間は近い。
四幕第十話「臨戦」
12/8更新予定。
うまく行ったら、クリスマスが三部の幕になるのかな?
どうか奇跡が我が頭上に……
更新中断なんてことになりませんように。