ささやかな願い
「あ、ああ」
ロフォラは口篭もり、茶を口に運びかけて、また下ろす。
「あのバカ烏がな、とんでもないことを言うんだ。使命が変わったと」
「……使命が?」
「ああ、でも、そんな馬鹿なことはあるはずないんだ。使命は、陛下が下される。陛下は、見通された未来に基づいて、使命をお決めになる。使命を変えるということは、陛下の見通された未来が、間違っていたということじゃないか。そんなことが、あるはずがない」
「……私は、陛下の御力について、あまりよく知らないから」
両手のひらに挟まれた湯呑みから立ち上る茶の香りが、少しだけ、心を落ち着かせてくれる。
「どんな使命? 私のも変わるのかしら」
あの人を殺すという使命。それに想いを向けると、落ち着いた心がまた踊りだす。
「いや、あんまり莫迦馬鹿しいんで、詳しく聞いていなかったが、たぶん俺だけだと思う」
「そう……」
よかった。
「ロフォラは、なぜ使命を果たそうとするの? あなたは、それを全うしなくても、死んだりしないんでしょう?」
「なぜ、と言われてもな。使命は果たされるべきものだ。それ以外に何がある」
そう言い切るロフォラの言葉は、弱い。
「……いや、違うな。陛下の下された使命は、その時点で果たされることが決まっている。それを言い訳にして、俺は積極的に使命を果たそうとはしていなかった。とくに、この城にきてからはな。俺の使命は、お前がミューザ王を殺すのを見届けることだ。それはたぶん、お前の死を意味する。だから、たとえそれが確定した未来であろうとも、少しでも先のことになればいいと思っていたのかもしれない」
キシッ、と椅子の軋む音がした。
「だが、使命が変わったという烏の言葉が本当ならば、未来は確定していないということだ。だからといって、使命が無意味だとは思わない。ミューザ王が生きているかぎり、統一法は蔑ろにされていく。この大陸を、戦が際限なく広がっていく。だから、王は死ななければならない。だが、お前が手を下す必要はないんだ」
「私じゃないと、あの人は殺せないって……」
「そうじゃないかもしれない。王に初めて会った時に、俺がフェロを止めなければ――いや、それでは、俺達みんな逃げることが出来なかったのだから……。そうだ、フェロはいま王の傍らで戦っている。戦場で王を討てば。あいつひとりなら、十分逃げ切れるはず――だが、どうやって、あいつに使命以外の仕事をさせる。この城に来てすぐならともかく……」
「あの人は、私が殺す」
フォルビィの言葉に、己れの考えに沈みかけていたロフォラは我に返った。
「だから、その必要は――」
「必要があるとかないとかじゃないの。私は陛下に、あの人を殺せと、それが私が生まれ、生かされてきた理由だと言われたときから、思っていたの。あの人を殺したら、私も殺される。一緒に死ぬことが究極の愛なら、あの人と私は、その愛で繋がっているはず――」
フォルビィの顔が、幸せそうな笑みに包まれる。
「――そしてあの人も、それに応えてくれた」
「それは……」
それは違う。死んで掴める幸せなんかない。死を前提とした愛なんか、あるはずがない。
しかし、ロフォラは口を噤んだ。彼女に与えられた使命を考えれば、その思いは彼女にとって救いなのかもしれない。法王の見通した未来がたとえ確定していないのだとしても、それは僅かに揺らいでいるだけなのかもしれない。ならば、フォルビィが王を殺すという未来からも、逃れられないのかもしれない。
法術師は立ち上がり、壁際の棚に置いてある黒塗りの壷を取り上げた。
「あ、ロフォラ。薬の量、元に戻してくれない?」
壷を持って歩み寄ったロフォラに、フォルビィが言った。
「いいのか?」
ミューザが彼女の毒に倒れてから、彼女の服む薬の量は、少しずつ増えてきていた。習慣性の薬物に対する身体的な耐毒能力は、禁断症状を除けば完璧なはずなのだが、精神的に依存するようになってしまっていたのだ。
あの日から今朝まで王は姿を見せず、城の人間も、食事時の下女以外には、この部屋に近づきもしない。部屋の外へと出れば、あからさまな忌避の視線を浴びせられる。彼女が薬のもたらしてくれる夢に逃げ込んでしまうのを、責めることは出来ない。どんなに優秀な癒し手も、どんなに強力な法術も、心を癒すことは出来ないのだから。
それなのに、ミューザが一度訪れただけで――
「うん、大丈夫だと思う。……あの、ロフォラ、ありがとう」
「ん、なにがだ?」
「私もわかっているの。本当は、私もあの人とずっと生きていければいいなあって。でも、それは出来ないから。私の身体から毒が抜けることはないし、それにもし毒で育てられてなかったら、あの人に会うこともなかった。あの人も私を愛してくれなかったと思うの。そしてあの人は生きているかぎり、たくさんの人を殺していく」
黄色い瞳が、見えているはずはないのに、一瞬だけロフォラの目と合う。
「私があの人を殺すのは、使命だからじゃないの。それが、私とあの人を繋ぐ絆だから。……でも、それでも――」
フォルビィは顔を伏せた。灯明の揺らぎに紛れてしまうくらい小さく、肩が震える。
「生きていてもいい間は、生きていたい。ロフォラ、お願い。私達を見守っていて」
「大丈夫だ。……それが俺の使命だからな」
ロフォラは、黒く変色してしまった銀の匙で薬をすくい、折り目をつけた薄い紙に移し、フォルビィに手渡す。彼女がそれを口に含むのを待って、白湯の入った湯呑みを渡す。
薬が効きだすまでの間に着替えを手伝ってやり、徐々に朦朧としてくる彼女を、寝台に寝かしつける。そして棚に戻すために薬壷を手に取り、無意識にその重さを計る。もう、ずいぶん軽い。この城に来たときは、ほぼ一杯に詰まっていた黒い粉薬は、手首まで差し入れなければすくい取れないくらいまで減っていた。
もし法王が真実未来を見通せるのならば、この薬の、いや、毒の残量は、フォルビィの命の残量なのだろう。この毒が尽きる前に、彼女は、そしてロフォラも使命を果たす。
半ば以上残された夕食を片付けて、ロフォラは幸せそうな寝顔のフォルビィをあとに、部屋を出た。
やはり烏は嘘と吐いている。その言葉に惑わされた俺が愚かだった。使命は、未来はこんなにもはっきりとしているじゃないか。フォルビィが王を殺し、俺がそれを見届ける。何の揺るぎもない。陛下の見通された未来が揺らいでいるように見えるのは、俺が揺らいでいるからだ。そして俺がどれだけ揺らごうとも、結果は変わらない。
食器を廊下の途中で待機していた下女に渡し、ロフォラは自分の部屋へ戻る。床に開いた暗黒の裂目のような羽根を、腰を屈めて抓みあげた。寝台に横たわり、指の間で羽根をくるくると回しながら、目を閉じる。
烏はなぜ、あんな嘘を吐いたのだろう。未来が確定していることは、俺よりもずっとよく知っているはずだ。一度下された使命が変わるはずがないことは。陛下に仕えた年数は、俺よりずっと長いのだから。
まあ、所詮烏だ。いくら賢かろうとも、あんなものに使命が理解できるはずがない。俺でさえ……
俺でさえ、解らないものを。
法術師は、羽根を口元に近づけて、ふっと息を吹きかけた。羽根は吐息に乗り、右手の僅かな動きに操られて、宙を滑る。そして燭台の炎に触れて、燃えた。
いつもありがとうございます。
え、と。
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では、
次回予告ぅ
「ねえ、あなたの肩を借りてもいいかしら」
「いいぜ。そら」
あっさりと首を傾けて、肩を突きだすフェロに、かえって烏が後退りする。
「本当にいいの? ぶったりしない?」
三幕第七話「戦士達の休息」
10/30更新予定。
外伝は、何とか来月中に……




