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………剣の五


「豹の怪我は、もうすっかりいいのね」

 数年ぶりに心の底から涙を流したおかげで、肩の力が抜けたのか、それまで決して近づこうとしなかった豹がじゃれてきた。

首のまわりを掻いてやると、のどを鳴らして喜んでくれる。赤く血に染まっていた毛皮も、きれいに舐め取ったのか、金色の輝きをほとんど取り戻している。大きく出血していた腹のあたりの傷は、今はまったく見当たらない。

 いくら月の力をその身に受ける金色豹といっても、怪我の治りが特に早いわけではないはずだ。となると、やはりペグが癒しの力を使ったとしか思えない。

 そのペグは、マーゴとじゃれている豹を、膨れっ面で見ている。自分以外の人間と豹が仲良くしているのが面白くないようだ。

「豹の怪我はペグが治してあげたんでしょ。ロウゼンの怪我も治してあげればいいのに」

 そのロウゼンは戦いの後、住居の中から干した薬草らしき物を取り出し、噛み砕いたそれを傷口に当てていた。本当ならば酒で傷を洗うのがいいのだが、彼の飲んでいるような甘い酒では効果はないのだろう。ヨウシュがいれば、体の傷や大抵の病は法術で治してしまえるので、いわゆる医術はこのアロウナではほとんど発達していない。せいぜい、戦場での応急処置程度のものだ。

「ふぎゃ」

 しかしペグは、そんなことできるわけないじゃない、何言ってるのという表情で――実際には相変わらずむくれた顔で、豹の首筋をむんずとつかむと、火のそばまで引っ張っていった。そして豹がせっかく毛繕いした毛並みを、ぐしゃぐしゃとかきまわす。

 その火は、ロウゼンのための肉を焼いている。今朝炊いていた粥は全部こぼれてしまっていたし、マーゴは当然食欲なんてない。自分の食事を用意しようとしないところを見ると、さすがにペグも食べたくはないようだ。それに比べてロウゼンは――。肉を焼く煙が、マーゴの前に漂ってくる。

「うっ」

 あわててその煙から逃げ出す。血の匂いの充満したこの広場で、平気で肉を食べるなんて、いくら猟師を生業としているといってもとても信じられない。

 そのロウゼンは、傷の手当てをした後、広場に散らばる死体の片付けをしている。とりあえず、剣や鋼をしこんである盾や篭手を拾い集め、住居の戸口に積み重ねた。そして残った死体を、これは広場から密林に少し入ったところに積んでいく。

 ロウゼンが死体の懐を探り、屍をまるでゴミのように扱っているのを見ても、マーゴは何も感じない。自分では立ち直ったように思っていても、彼女の心のどこかはまだマヒしたままなのだ。

 肉の焼ける匂い――もちろん数日前に獲って塩漬けにしてあった獣の肉だ――に辟易して逃げ出していることでさえ、なにか面白がってみているもうひとりの自分がいる。

 死んだ人間が、敵であったことは関係ない。自分をあの家、あの地獄に連れ戻そうとして死んだということはつまり、自分にかかわって死んだということに他ならない。実際、あの男がいない隙を狙って、あの家を逃げ出した彼女の前に立ちふさがった兵士が残らず死んだときは、隊商に拾われるまでの丸二日間、己れを失っていた。

 おそらく、多くの人が死んだ中で、決して死んでほしくない人、ロウゼンとペグが死ななかったことが、安全弁になっているのだろう。私と一緒にいても、この人たちは死ななかった。そしてロウゼンは、恐れることもなく、私を娘と呼んでくれた。そのことに対するかすかな希望が、圧倒的な絶望に心が押しつぶされてしまうのを、なんとかせき止めている。

 だから今、彼女は「家族」から目を離せない。彼らから目を逸らすことは、光から目を逸らすこと。彼らを否定することは、闇を肯定すること。だから今の彼女にとって、ロウゼンが死体をゴミのように扱うのならば、それはゴミなのだ。

 そのロウゼンは、死体を片付けおわると、水樽のところで水を飲み、塩辛い焼肉にかぶりつく。そしてあっという間に平らげると、戦利品の品定めをはじめた。これはと思う剣を手に取り、刃に着いた血を拭って、軽く振ってみる。それを幾度か繰り返し、満足できる剣が見つかったのか、一本を脇に置いた。そして住居の中から、木の皮を綯った縄を取り出して、残りの剣をまとめはじめる。さらに背負い紐を付けると背中に担ぎ、

行くぞ、とペグとマーゴに声をかける。

「え……。どこへいくんですか?」

マーゴが我に返って聞き返す。

 ペグも不思議そうな顔で、ロウゼンを見つめている。豹はその手からやっとのがれて、少し離れたところで毛繕いをはじめた。

「ここは臭い。しばらく町へ行く」

 ロウゼンは、鼻にしわを寄せて答える。実際、地面に流れた血や内蔵は、すでに腐敗臭を放ちだし、死肉を餌にする虫たちも、地面を黒く覆おうとしている。いまはまだ、大きな死肉喰らいはまだ見えないが、まもなくそれも集まってくるだろう。たしかにこんなところで暮らしたくはない。

 ロウゼンは、新しく自分のものにした剣を腰に吊すと、密林のなかに向かって歩きだす。 

「あ、待ってください。ペグさん、行きましょう」

 とたとたっ、とペグはマーゴの横を通り過ぎ、ロウゼンの後に張りつく。マーゴをここまで連れてきたときは、彼女がついていくのがやっとの速さで歩いていたが、いまはペグでも十分についていける。もっともそれは、ロウゼンがペグに気を使っているわけではなくて、重く大きな荷物を担いでいるために、立ちふさがる密林の木々を切り開きながら歩かなくてはならないためのようだ。

 ペグは、まだ小さいその体にもかかわらず、太い木の根を乗り越えて、倒れた木の下をくぐり抜ける。手の届くところに生っている果実をもぎ取って、歩きながら食べたりする。

 いつもロウゼンが町に出掛けるときは、留守番なのだろう。一緒に出掛けるのがとてもうれしい様子で、ロウゼンのまわりをうろちょろしている。一度など、ロウゼンの目の前をうろついて、立ち木を払う剣で首を断ち切られそうになった。その時は、うしろに下がってろ、とロウゼンに叱られていたが、それでも元気いっぱいだ。

 朝のあの戦いは、彼女のなかでどのように受けとめられているのだろう、マーゴは不思議に思うが、それを考えると、自分の心のなかの触れたくない部分にかかわってくるために、深く考えることができない。

 豹は豹で、姿を隠したり、現したり。高い木の上から突然ペグに飛び付いて、ペグにひっぱたかれたりしている。

 マーゴの目には、ロウゼンとペグ、そして豹しか映らなかった。以前密林を通ったときには、垂れ下るツタに咲く怪しい花の色や、木々の間を飛ぶ美しい鳥の羽に目を奪われていたが、今は目に入らない。それどころか、月の影が頭上を覆い、暗闇の中で立ち止まらざるをえなくなっても、日蝕が明けた後のスコールが、緑の天蓋を突き抜けて、銀色の髪を濡らしても、それを彼女の心がはっきりと意識することはなかった。



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