若鮎寮にいらっしゃい
世の中ってのは、時に、理不尽だったりする。
俺がそれを実感したのは、若鮎寮に入ってからだった。
それは、入寮してからちょうど一週間目の火曜日の夜。なんと、冷凍庫に入れてあったはずの俺のアイスが、ものの見事になくなっていたのである。
「ええっ! 何で俺のスーパーカップアイスがないんだよ!」
前の日、ちょうど部活が休みだった俺と吉田は、寮の近所にある「サンサンスーパー」に行ったのだった。目当てはもちろん、半額アイスの特売だ。「サンサンスーパー」では週に一度、月曜日の夕方五時から一時間のタイムサービスでアイスが半額になる。アイスは俺にとって、主食級の食いモンと言っても過言ではない。偏食の俺はアイスの栄養分で成長してきた。それほどまでに、俺には大事な食いモンだったのだ。だから俺は奮発して、五個も買った。なにしろ、寮生活をしていく上で小遣いは貴重である。当然、節約もせねばならない。安いときにまとめ買い。これは、鉄則だろう。しめて、二百六十二円也。バニラと、チョコチップクッキーと、クッキーアンドバニラを二個と、みかんヨーグルト。それらのアイスを袋に詰めているとき俺は、とっても満足な気分だった。
そしてその日の夜、みかんヨーグルトとクッキーアンドバニラを一個食って、あとの三個は翌日の楽しみにとっておいたはずだった。
なのに……。
それが、一つ残らずなくなっていたのだ。
「なッ、何でないんだよ……」
しかも、なくなっていたのは俺が入れたアイスだけじゃない。吉田や、他の奴が入れていたアイスも、ジュースも、チョコレートも、全部なくなっていて、冷蔵庫に入っていたのは、食いかけのトウモロコシと、マックポテトの箱だけ……。
これは、誰かに食われたに違いない。いや、絶対そうだ。くっそー!
俺は憤りのあまり冷蔵庫を思わず蹴ってしまった。でもって、蹴ってから冷蔵庫の野菜室のドアを恨めしい気分で睨んだ。
「食ったやつに、絶対復讐してやる! おぼえてろ!」
ってな按配に。
ところが、そう思った時だった。二人分の足音と共に、近づく異臭を俺は嗅いだのである。
この臭いは、もしや、ワキガの臭いか……?
不安に駆られ、慌てて俺が振り向くと、そこには案の定、松本先輩と山崎先輩の202号室コンビがいた。やばい、蹴ってるとこを見られたかも……。
「あっ、やっ、まっ、せっ、先輩! ここに入れてあった俺のアイス、知りませんか?」
まずいことに俺は、フツーにうろたえてしまったのだ。そして動揺のあまり、咄嗟に訊いてしまったのである。もちろん、訊いてから、「訊くんじゃなかった」と激しく後悔はしたのだが……。
この二人はサッカー部の二年生で、山崎先輩のワキガの臭いは、近くで嗅ぐと鼻がもげそうなくらいにクサイ。今日も部活あがりで汗だくなもんだから、殺人的な臭いを容赦なくあたりにふりまいていて、俺は一瞬息を止めた。しかし、この二人はいつものように平気そう。
「どうしてこの二人は、こんだけクサイのに平気なんだ?」
それが、入寮以来、俺には疑問だった。吉田は、
「毎日嗅いでりゃ、慣れるんじゃねえの?」
と、だるそうに言ったのだけど、
「あいつらは筋肉バカだから臭わないんだよ。毎日、無駄に筋トレとかやっててさ、嗅覚まで筋肉になっちまってんだ」
と言った高橋先輩の言葉には、妙な説得力があった。だってほら、今日なんかこんなに寒いのに、二人ともノースリーブとか着ちゃって、上腕二頭筋を見せつけてるし……っていうか、山崎先輩、ハンパなくクサイんで、どうか俺に近づかないでください!
しかし、そんな俺の願いなんかはそっちのけとばかりに、松本先輩は、ギロリと俺を睨むと、
「知らねーよ」
唾でも吐くみたいにそう言った。すると、隣にいた山崎先輩も、
「おい、なんだよ、山田。オマエ、まさか俺らが勝手に食ったとでも言うつもりなのか?」
ワキガの臭い大全開で言う。
げぇッ! マジでくっせー!
「いっ、いえっ、そんなつもりじゃないっす。ただ、俺のアイスが見当たらなくって……」
俺は、極力臭いを嗅がないでいられるように、躰をのけ反らせて首を振る。すると、
「ッたく、そんなに大事なアイスなら、名前でも書いとけ! この、ボケがぁッ!」
「だいたいな、一年のぶんざいで食わずに置いとくのが悪いんだよ。この、カスッ!」
そう言ってから、松本先輩と山崎先輩の両名は、勝ち誇ったような顔を俺に見せつけ、肩で風を切って去っていった。
はぁー。窒息するかと思ったぜ。っつか、何で俺が悪いんだ?
俺は、どうにも納得できない気分だったのだが、心の中で、松本先輩と山崎先輩の二人を、「松本筋肉」「山崎ワキガ」と呼び捨てにすることで何とか鬱憤をはらしたのである。
あいつら、覚悟しやがれ……ってな、気分で。
そう。これは、俺が暮している若鮎寮の物語である。
そして、若鮎寮では、こんなことは日常茶飯事だった。
若鮎寮というのは、俺が入学した県立農業高校の寮である。学校は全寮制ではないから、入寮者は遠隔地からの生徒がほとんどなのだが、入寮希望者なら、よほどのことがない限り、家が近くだろうが遠くだろうが、ほとんどの生徒が入ることのできる寮だ。運営は学校側。つまり県の施設になるわけだな。しかし、これがまた県の施設と自慢できないくらいにボロくて汚い。
建てられたのは今から四十二年前で、俺の親父が高校生だった頃から、すでにボロかったという話を、俺は親父から度々聞かされた。
「昔は隣に女子寮があってなぁ。放課後に忍びこんじゃぁ、センコーに怒鳴られたもんだ」
つまり、俺の親父は、農業高校の卒業生。まあ、いわば大先輩にあたるわけだ。しかし、あんまり尊敬できるようなことはしていないらしい。
「よくさぁ、授業さぼって川に泳ぎに行ったり、ウナギを捕まえに行ったりしたんだよ」
でもって、センコーに捕まって、またもや怒られた……っていう話も、俺はすでに十回以上は聞かされている。まったく、バカな親父だ。
さて。そんな親父たちが泳いだり、ウナギを捕まえたりしたのは、寮の近くを流れている「五万十川」という川である。四国の「四万十川」に対抗しているみたいな名前なもんだから、こっちは「最古の清流」とかなんとか、地元民は呼んでいるのだけど、「四万十川」には、遠く及ばないくらいに川幅はせまく、本当に親父たちはこんな川で泳いだのか? と、疑いたくなるような水深で、どっからどう見ても、三歳児の行水くらいしかできないだろうというような小さい川だ。
それでも、水だけは確かにきれいで、一昔前は夏ともなると、鮎の友釣りに興じる大人たちが、川縁にずらっと竿を並べたらしい。
「だから、若鮎寮?」
「そうだ。そして、女子寮は川風寮っていう名前だった」
「女子寮なんて、とっくになくなってるよ」
「なんだ、今はないのか。そりゃ残念だったな」
そんな、単純で安易なネーミングの若鮎寮に、現在寮生は六十八名。
当然だが、男子寮である。
俺がこの、県立農業高校に進学したのには、理由が二つある。
一つ目は、残念なことに、俺のひっくぅーい偏差値で入学できる学校は、そうたくさんなかったっていう必然だ。自慢じゃないが、俺は成績が悪い。中学の頃なんて、英語と数学と社会のテストはいつも「あんたのテストだけ五十点満点なの?」と、女子から笑われるような点数で(つまり、毎回五十点以下)、学校へは給食と体育と部活があるから行ってるようなもんだった。だから、野球の名門校である馬場園工業や一立学園のような偏差値の高い学校なんかには、行きたくっても行かれない。
そして、この野球部ってのが、他でもない、もう一つの理由だ。
俺は、小学生の時からリトルリーグで野球をやっていて、野球をこよなく愛している。カバンに付けたミズノのステッカーは、ずっと「野球命!」。小学時代は六番でサード。中学時代は、四番でセカンド。打率はまあまあってとこだったかな。それでも一応、中学最後の県大会ではホームランも打ったくらいに腕には自信がある。高校に行ってやりたいことは、「野球をすること」それしかない。あっ、女の子とデートしてみたいって気もちょっとはするけど、まあ、今はいいや。
で、この県立農業高校なわけだ。ここには野球部があり、馬場園工業や一立学園ほどの名門ではないにしても、甲子園にも二度出場したことのある、県下ではまあまあ強い野球部がある。しかも、同じ中学の野球部出身である高橋先輩と、小林先輩も県立農業高校の野球部にいる。
これはもう、農業高校で決まりっしょ!
俺は、迷うことなく、県立農業高校を受験したのである。そして、めでたく合格した。
「おお、山田。合格したんだってな。おめでとう」
合格発表のあった次の日、電話をかけてきたのは小林先輩だった。ちなみに小林先輩は俺より二個上。当時はまだ二年生である。
「あっ、先輩、ありがとうございます」
「おお、良かったなー。ところでオマエ、当然、野球部に入るんだろ?」
「もちろんですよ。当たり前じゃないっすか」
「だったらさ、ついでに若鮎寮にも入んない?」
「えっ? 寮……っすか?」
そう。俺を寮に誘ったのは、この、小林先輩である。
俺の家から学校までは、電車で片道四十分。定期代はひと月に一万八千円だ。通おうと思えば、通えないことはない。しかし……。
「若鮎寮ってさ、県の施設だから寮費がめちゃめちゃ安いんだよ。土日も三食付いて二万五千円。なっ、安いだろ? こんな金額は、今時まかない付きの下宿じゃあり得ないし、なにより、部活やってると往復一時間以上かけて通うのは結構きついぜ。それにほら、寮なら親もいないから、休みの日にはAVなんかも見放題だし……」
「ええーっ、エーブイでッ、すか!」
聞いた瞬間、思わず俺の声は裏返った。
「そうそう、AVよ、エーブイ。うちの寮には代々の先輩方が差し入れしてくれた洋モノやら巨乳モノやら、いっぱいあるぜ」
AV、エーブイ、えーぶいぃぃぃっー!
断っておくが、健康な男子中高生で、この誘惑に打ち勝てるやつなんか、絶対いない!
「はっ、入りますッ! もちろん、入りますッ! 入らせていただきますッ!」
バカな俺は、ソッコーで、そう答えてしまったのである。頭の中では小林先輩の言葉がめくるめく妄想になって、あーんなことやら、こーんなことまで、とっても口には出せない映像が渦を巻く。魅力的な寮生活に、俺はうっとりしてしまった。
ところが、これが、小林先輩の罠だったとは、この時の俺は、まったく気が付かなかったのである。
それに気付いたのは、入寮してから。
俺が、期待に胸と股間を膨らませ、
「先輩、はやくAV見せてくださいよー」
と、頼むと、
「はっ? AV? アホかオマエ。んなもんあるわけねーだろ!」
小林先輩は、しれっとした顔でそう答えたのだ。
「……えっ……」
あるわけねー……って、どうゆうことだよ?
「あー、山田、わりいな。実はさ、あれは真っ赤なウソだ。だーいたい、考えてもみろよ。AVだなんていう貴重なもんをだ、うちの寮の浅ましくも薄情なる先輩方が、俺らのために差し入れしてくれるなんて思うか? 思えないだろ?」
言われてみれば、確かに、思えない……かも。
「それにさ、んなもん観てて、万が一舎監のオッサンにでも見つかってみろ。お宝は取り上げられるわ、担任に連絡されるわ、退寮処分になるわ、ふんだりけったりな目にあわされるぜ」
と、今度は、高橋先輩が横から口を出した。高橋先輩は俺より一個上で、小林先輩より一個下。ってか、まさか、この二人はグル?
っつか、俺、騙されてたのぉ?
「そんなぁ……。俺、期待してたんすよー」
二人の言葉に、俺の期待と股間は、瞬く間に萎んでいく。
「ウソつくなんて、ひどいじゃないですかぁ……」
ぼやくように俺が抗議をすると、
「だってさぁ、高橋のやつが、もう、洗濯係をやるのは嫌だって言うんだよ」
「当たり前っしょっ。だって、洗濯は一年生の係だって、俺が入寮したときに先輩だって言ったじゃないっすかぁ」
二人は笑って、俺を見た。
「あー、山田には説明してなかったんだけど、うちの寮じゃさ、同じ部活の一年生が洗濯係をやるっていう暗黙のルールがあるんだよ。でさ、その一年生がもし寮に入んなかったら、二、三年生は自分たちで洗濯するっていう決まりなんだ。だからさ、新しい一年が入ってこないと、洗濯係がいなくって俺たちが困るから、オマエを誘ったわけなんだ。黙ってて悪かったな」
「でもさ、洗濯係をやらせたいから寮に入れなんて言っても、オマエ、絶対入んなかっただろ?」
口では「わりーな」などと言ってはいるが、悪いと思ってる様子は、ちっともない。
「ってことは、つまり、俺を寮に誘ったのは、洗濯係をさせるためっすか?」
俺が訊くと、
「その通り!」
「正解!」
二人は声をそろえてにんまり笑った。
そうなのだ。運動部ってのは、縦社会。先輩の命令に逆らえるやつなんて、そうたくさんはいないだろう。当然、俺も、逆らう勇気はないよなぁ。あーあ。
「明日っから、よろしく頼むぜ」
「あっ、ちゃんと、柔軟剤も使ってくれよ。俺のは、ピンクのダウニーにしてね」
「……」
かくして、まんまと騙された俺は、若鮎寮で一年間、高橋先輩と小林先輩の洗濯係をさせられる羽目になったのである。
ちっくしょうー。