第九話 裁定
前話:第八話「審判」
リーゼは眼鏡をかけ直した。
手の震えは止まっていた。止めたのではない。裁定書の文字を読み始めた瞬間に、自然と止まった。
これは感情の仕事ではなく、論理の仕事だ。
だが論理の下に、感情がちゃんとある。それでいい。
「本件は、冒険者雇用契約における報酬分配及び解雇手続きの適法性が争われた事案です」
リーゼの声は静かだった。審判廷に響くには十分な声量で、だが誰かを威圧するような声ではなかった。
「第一の請求について。三年間の報酬分配における推奨基準との差額精算、金貨四百八十枚」
リーゼは手元の資料に目を落とした。
「ギルド冒険者雇用規約第十五条は、四人パーティにおける各メンバーの報酬分配について、最低一割五分を推奨基準としています。本件では申立人の分配比率が一割に据え置かれていました。相手方はリーダーとしての裁量及び経費負担を根拠に反論していますが、規約は職種による例外を認めていません」
レオンは腕を組んだまま動かなかった。
「さらに、申立人の業務日誌及びギルドのクエスト達成記録により、申立人の鑑定がパーティの安全及び収益に不可欠な貢献をしていたことが客観的に立証されています。申立人加入後のクエスト達成率は九十四パーセント、加入前は七十一パーセント。負傷報告件数は年を追うごとに減少し、三年目にはゼロとなっています」
数字が、リーゼの代わりに語った。
「これらを踏まえ、推奨基準との差額に加え、クエスト達成率への貢献度に応じた加算分を含め、金貨四百八十枚の請求を認容します」
一拍置いた。
「第二の請求について。即日解雇に伴う予告手当、金貨六十枚。ギルド冒険者雇用規約第二十条は、雇用契約の解除に際し三十日前の予告を義務づけています。本件では予告なく即日解雇が行われており、同条に基づき三十日分の報酬相当額の支払いが認められます。金貨六十枚、認容」
セレナが顔を上げた。涙の痕が頬に残っていたが、目はリーゼを見ていた。
「第三の請求について。継続的な侮辱的言動に対する慰謝料、金貨百八十枚」
リーゼはここで一度、裁定書から目を上げた。
アキラを見た。レオンを見た。
「業務日誌及び証人の証言により、申立人が三年間にわたり『役立たず』『戦えない奴』等の評価を受け続けていたことが認められます。これらの言動は、申立人の職務上の貢献を否定するものであり、雇用関係における人格的利益の侵害に該当します」
レオンの拳がテーブルの上で握られた。だが口は開かなかった。
「金貨百八十枚、認容」
リーゼは裁定書に目を戻した。
「以上により、請求総額七百二十枚の全額を認容します」
数字が出揃った。だがリーゼの裁定は、まだ終わっていなかった。
「加えて、本件について是正勧告を付します」
アキラの目がわずかに動いた。請求の範囲を超える言及だと分かったのだろう。
「本件の根本的な問題は、個人の悪意ではなく、構造にあります」
リーゼの声が、少しだけ変わった。裁定書の文面を読み上げるのではなく、自分の言葉を選んでいた。
「Aランクパーティの維持費をリーダーが個人負担する慣習。経費の分担が規約に明文化されていないこと。非戦闘職の貢献を評価する基準が存在しないこと。これらの構造的な欠陥が、報酬分配の歪みを生み、結果として一人の冒険者の三年間を不当に扱う土壌を作りました」
レオンを見た。
「相手方の事情は理解しています。経費負担の重さも、パーティ運営の困難さも、記録から明らかです。相手方が私腹を肥やすために報酬を偏らせたのではないことは、数字が示しています」
レオンの目が、初めてリーゼを正面から見た。
「ですが、構造的な問題であることは、個人の責任を免除する理由にはなりません。構造が苦しかったとしても、その苦しさを最も弱い立場の者に転嫁してよい根拠にはなりません」
リーゼは裁定書に視線を戻した。
「ギルドに対し、以下の三点を勧告します。第一に、パーティ運営経費の分担に関する規約の明文化。第二に、非戦闘職の貢献を定量的に評価する基準の策定。第三に、報酬分配の定期的な見直し制度の導入。以上です」
裁定書を閉じた。
「裁定書への署名をお願いします」
リーゼは裁定書をテーブルの中央に置き、ペンを添えた。
アキラが先に署名した。静かに名前を書いた。丁寧な文字だった。
レオンは椅子から立ち上がり、テーブルに歩み寄った。ペンを取った。
署名する前に、一瞬だけ日誌の三冊に目を向けた。
それからレオンは自分の名前を書いた。筆圧が強かった。紙が少し凹んだ。
ペンを置いて、レオンは出口に向かった。
扉の前で止まった。
「日誌は返してもらえるのか」
背中を向けたまま言った。
「証拠として提出されたものですので、原本はギルドで保管します」
「そうか」
レオンの声から、怒りが消えていた。聞き取りの日にリーゼが感じた変化は、今日ここで完成していた。もう鋭さも嘲りもない。残っているのは、自分がしたことの重さを持て余している声だった。
レオンは扉に手をかけた。
そこでもう一度、足を止めた。
「蒼雷を組み直すつもりはない」
振り返らずに言った。独り言のような声だった。
「誰かにそう聞かれたわけじゃない。だが、言っておく。あいつの代わりなんていないからな」
リーゼは何も答えなかった。答えるべき言葉ではなかった。
レオンは扉を開けた。
出ていく直前に、振り返らずに言った。
「あいつに伝えてくれ。盾の亀裂の件は、覚えている」
扉が閉まった。
セレナが残っていた。
椅子から立ち上がり、アキラの前に立った。目が赤かった。泣いた痕の上に、また涙が光っていた。
「ありがとう」
声が震えていた。
「ずっと、守ってくれてたんだね」
アキラは静かに首を横に振った。
「仕事ですから」
「嘘つき」
セレナは泣き笑いのような顔をした。笑っているのに涙が落ちる。怒っているのに声が優しい。その矛盾が、三年間何も言えなかった人間の、精一杯の本音だった。
セレナは審判廷を出ていった。
リーゼとアキラが残された。
秋の午後の光が傾き始めていた。さっきまで雲がちだった空が、いつの間にか晴れている。窓から差し込む光が、テーブルの上の裁定書を照らしていた。
アキラは椅子に座ったまま、動かなかった。
リーゼも動かなかった。
沈黙があった。だが気まずい沈黙ではなかった。何かが終わった後の、静かな沈黙だった。
アキラが口を開いた。
「労務官さん」
「はい」
「日誌を読み上げたとき、眼鏡を外していましたね」
リーゼは答えなかった。
「目が滲んでいましたか」
「……審判官の感情は、裁定には影響していません」
「それは分かっています」
アキラの声は穏やかだった。
「ただ、読んでくれた人がいたことが、少し——」
アキラは言いかけて、口を閉じた。自分の膝の上の手を見つめた。
「ありがとうございました」
リーゼは頷いた。
それから机の引き出しを開けて、封筒をひとつ取り出した。
「ガルドさんからです。審判には出席されませんでしたが、これをアキラさんに渡してほしいと」
アキラは封筒を受け取った。表に何も書かれていない白い封筒だった。
開けなかった。
胸の内ポケットにしまって、立ち上がった。
「失礼します」
「アキラさん」
リーゼは呼び止めた。
アキラが振り返った。
「このあと、少しお時間はありますか。お話ししたいことがあります」
アキラは少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「廊下でお待ちしています」
扉が閉まった。
リーゼは一人になった審判廷で、裁定書を揃え、証拠資料をまとめ、日誌の三冊を丁寧に重ねた。
それから、深く息を吐いた。
震えなかった。泣かなかった。正しい裁定を出せた。
次は、もうひとつの仕事だ。
裁定は終わった。だがリーゼの仕事は、ここで終わりではない。
次話、21:00。最終話「窓口」。
裁定の後、リーゼがアキラにもう一つだけ、話したいことがあります。




