第八話 審判
最終日、開幕。労働審判、開廷します。
前話:第七話「リーゼの名前」
審判廷は、ギルド本部の奥にある小さな部屋だった。
長机がひとつ。片側にアキラ。反対側にレオンとセレナ。ガルドの席は空いている。
リーゼは審判官席に着いた。机の上に裁定書の下書きと、証拠資料一式と、三冊の業務日誌を置いた。
窓から秋の午後の光が差し込んでいた。細い光だった。雲が多い日で、光は途切れ途切れに部屋を照らした。
アキラは姿勢よく座っていた。初めて窓口に来た日と同じだ。背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。表情は穏やかだった。緊張はしているだろうが、顔には出していない。
レオンは腕を組んでいた。聞き取りの日と同じ姿勢だが、あのときと違うものがひとつある。目だ。鋭さは残っているが、嘲りがない。
セレナはレオンの隣に座って、自分の指先を見ていた。時折アキラの方をちらりと見るが、目が合いそうになると視線を落とす。
リーゼは全員の顔を見渡した。
「アキラ対レオン・パーティ、労働審判を開廷します」
自分の声が、思ったより静かに響いた。部屋が小さいから反響が少ない。それでいい。大きな声は要らない。事実が届けばいい。
「まず申立人、請求の趣旨を述べてください」
アキラが立ち上がった。
「三点あります。第一に、三年間の報酬分配における推奨基準との差額精算、金貨四百八十枚。第二に、即日解雇に伴う予告手当、金貨六十枚。第三に、継続的な侮辱的言動に対する慰謝料、金貨百八十枚。合計、金貨七百二十枚」
窓口で聞いたのと同じ言葉だった。同じ順序で、同じ金額を、同じ落ち着いた声で述べた。
だがリーゼには、最初に聞いたときとは違うものが聞こえていた。この三つの請求の裏に、三年分の夜がある。毎晩日誌を書いた夜がある。誰にも読まれないと分かっていて書き続けた夜がある。
「根拠資料は?」
「雇用契約書の写し、報酬支払い記録、ギルドのクエスト達成記録。そして三年分の業務日誌です」
リーゼは日誌の三冊を手元に引き寄せた。
「相手方。反論があれば述べてください」
レオンが口を開いた。
「報酬分配についてはリーダーとしての裁量の範囲内だと考えている。Aランクの維持費、装備費、上納金を俺が個人で負担していた。それを差し引けば、実質的な分配はもっと均等に近い」
「経費の負担について具体的な数字を示せますか」
「年間の経費は約三百八十枚。俺の取り分の四割、九百六十枚からそれを引くと五百八十枚。セレナの三割は七百二十枚でそのまま手取り。差は百四十枚だ」
「アキラさんの手取りは年間二百四十枚です。レオンさんの手取りとの差は三百四十枚。セレナさんとの差は四百八十枚。経費負担を考慮しても、アキラさんの報酬が最も低いことに変わりはありません」
レオンは何も言わなかった。
「では、証拠の確認に移ります」
リーゼは一冊目を開いた。
「業務日誌、一年目。記録されている鑑定件数は三百二十七件。うちパーティの安全に直結する鑑定——罠の発見、敵の弱点解析、装備の状態診断——が百四十二件。クエスト達成率との相関を見ると、アキラさん加入後の達成率は九十四パーセント。加入前は七十一パーセント」
数字を読み上げた。感情を込めなかった。数字に感情は要らない。数字は、そのままで十分に語る。
「二年目。負傷報告が前年の四件から一件に減少。唯一の報告はガルドさんの盾の破損で、これについてはアキラさんが事前に亀裂を発見し交換を進言していたことが日誌に記録されています。進言はレオンさんによって却下されました」
レオンの顎が動いた。歯を噛んでいる。だが口は開かなかった。
「三年目。負傷報告ゼロ。クエスト達成率は九十七パーセント」
リーゼは一冊目を閉じ、二冊目を開いた。
ここからだった。
「二冊目の途中から、日誌の性質が変化しています」
リーゼの声は変わらなかった。変えなかった。
「記録されている内容を読み上げます。二年目、六月十五日。碧水の迷宮、第四層。鑑定対象——セレナの魔力残量。推定残量二割。通常より消耗が早い。昨夜の宿で眠れていなかった可能性がある。明日の出発前に、さりげなく休息日を提案する」
セレナが小さく息を呑んだ。
「九月十二日。セレナの詠唱に通常より〇・三秒の遅延。精神的な疲労の兆候。前回のボス戦で味方の負傷を間近で見たことが影響している可能性。今夜の食事で、セレナの好きな薬草茶を頼む」
セレナの両手が口元に上がった。
「十月一日。レオンの攻撃判断に変化。以前より慎重になっている。鑑定データの蓄積が、無意識に指揮に反映され始めている。良い傾向。ただし本人には言わない。言えばかえって意識して硬くなる」
レオンの目が、テーブルの上の日誌に固定された。動かなくなった。
「三年目、三月十五日。レオンの右肩の違和感が再発。ギルドの健診案内をテーブルに置く。三回目」
「三月十六日。レオン、案内を見ずに捨てた」
「三月十七日。四回目の案内を置いた。今度はセレナの荷物の隣に。セレナが気づいてレオンに渡す形にすれば、レオンも無下にはできない」
リーゼは読み上げを止めた。
審判廷が静まっていた。
秋の午後の光が、雲の切れ間から差し込んだ。レオンの顔を照らし、テーブルの上の日誌を照らし、アキラの膝の上に置かれた手を照らした。
セレナが泣いていた。声を出さずに、両手で顔を覆って泣いていた。
レオンは日誌を見つめたまま動かなかった。
「アキラさん」
リーゼはアキラに目を向けた。
「この日誌の最後の記述を、あなたの口から聞かせてください」
アキラは少し間を置いた。
「三年目、三月三十日。明日のクエストに向けて装備を鑑定済み。レオンの剣は研磨が必要だが使用に問題なし。セレナの杖の魔力伝導率は九十三パーセント、良好。ガルドの盾は新調したもので強度に問題なし。全員の装備を最終確認。異常なし」
アキラの声が、わずかに揺れた。
「明日も全員が無事でありますように」
その明日に、追放された。
誰も声を出さなかった。
リーゼは三冊目を閉じた。
「アキラさん。ひとつだけ聞かせてください」
「はい」
「この日誌は、最初は証拠として書き始めたものですか」
「はい。前世の——いえ、以前の仕事の習慣で。いつか必要になると思って、記録を残していました」
「途中から、性質が変わっていることに気づいていましたか」
アキラは黙った。
長い沈黙だった。審判廷の窓の外で、風が木の枝を揺らす音がした。
「……気づいていたかもしれません。気づいていないふりをしていました」
「なぜですか」
「気づいてしまったら、もう——ただの証拠としては使えなくなると思ったからです。証拠として持っていれば、いつでもパーティを訴えられる。それが自分を守る最後の盾だと思っていました。でも途中から、書いている内容が——」
アキラの声が止まった。再び始まった声は、少し低くなっていた。
「訴えるためではなく、ただ、明日のために書いていました。明日のダンジョンで、誰も怪我をしないように。それだけのために」
「職業病、ですか」
「……はい。ただの、職業病です」
声が震えた。
リーゼは一瞬だけ、息を止めた。
職業病。
この人はそう呼ぶしかないのだ。三年間、毎晩祈りを書き続けた行為を、他に何と呼べばいいか分からないから、職業病と呼ぶ。照れているのではない。本当に、言葉を持っていないのだ。自分がしていたことの名前を。
リーゼは日誌を閉じた。
「この日誌は、業務日誌ではありません」
自分の声が静かだった。静かだが、はっきりと聞こえた。
「確かに一冊目は証拠記録として書かれています。事務的で、正確で、感情が入る余地のない記録です。ですが二冊目の途中から、この日誌は証拠であることをやめています。鑑定対象が罠や敵ではなく仲間の体調に変わり、記述の目的が立証ではなく配慮に変わっている。三冊目に至っては、全頁が——」
リーゼは眼鏡を外した。
外さなければ、目が滲んで文字が読めなくなりそうだった。
「全頁が、翌日の仲間の安全を祈る記録です」
眼鏡を持つ指先が、かすかに震えた。
リーゼはそれを隠さなかった。隠す必要がないと、昨夜の自分が決めていた。
震えていい。震えていても、裁定は出せる。
「裁定を述べます」
次話、20:30。第九話「裁定」。
リーゼが下す判断と、その先にあるもの。




