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第七話 リーゼの名前

前話:第六話「ガルドの沈黙」

本話はリーゼの過去を描きます。Episode 0『その善意、人身売買につき』の後日譚にあたります。

▶ https://ncode.syosetu.com/n0248ma/



 審判は明後日に決まった。


 手続きは整った。申立書、証拠資料、聞き取り記録。すべて揃えて、裁定の準備に入るだけだ。


 だがリーゼは、その夜眠れなかった。


 ギルド本部に隣接する職員宿舎の自室。小さなベッドと机と本棚でいっぱいになる部屋だ。本棚にはギルド規約の冊子と法制局の公報が並んでいる。窓際に鉢植えがひとつ。薬草ではなく、小さな花だ。名前は知らない。引っ越した日に市場で買った。白い花が咲くと聞いたが、まだ咲いていない。


 ベッドに座って、天井を見ていた。


 明後日、自分はアキラの前に立つ。レオンの前に立つ。そして裁定を述べる。


 裁定の内容は、ほぼ決まっている。証拠は十分だ。数字も、証言も、日誌も。法的にはアキラの請求は認められるべきだし、蒼雷の報酬体系には是正勧告が必要だ。


 論理では迷っていない。


 迷っているのは、別のところだ。


 あの日誌を読んだ自分は、公正な審判官でいられるのか。


 リーゼは目を閉じた。


 瞼の裏に、いつもの記憶、あの日の光景が浮かんだ。


      ◇


 奴隷市場の朝は、家畜市の朝と同じ匂いがした。


 藁と汗と錆びた鉄の匂い。鎖の音。商人の声。値踏みする視線。


 リーゼは覚えている。覚えていないふりをしていた時期もあったが、労務官になってからは忘れないと決めた。忘れてしまったら、あの場所に立っていた自分がいなくなる。


 台帳を見たのは、ずっと後のことだった。レンジが告発の証拠として法制局に提出した取引台帳の写しを、リーゼは数年後に閲覧した。


 登録番号の列。金額の列。取引日の列。


 名前の列は、なかった。


 列そのものが存在しなかった。欄を作って空白にしたのではない。最初から、名前を書く場所が設計されていなかった。台帳を作った人間の頭の中に、名前という概念がなかったのだ。


 リーゼはそのとき初めて泣いた。奴隷だった頃には泣かなかった。鎖を外されたときも泣かなかった。パン屋の看板を出したときも泣かなかった。


 名前の欄がないことに泣いた。


 自分がいなかったのではなく、自分がいる場所がなかったのだと分かったから。


      ◇


 ユリウスのことを恨んではいない。


 勇者は善意で金貨を出した。鎖を外したかった。リーゼを救いたかった。その気持ちに嘘はなかっただろう。


 だがユリウスは、リーゼの名前を覚えていなかった。


 リーゼ。たった三音の名前を。裁定の場で聞かれて、答えられなかった。あのとき初めて、善意と尊重は違うものだとリーゼは知った。


 善意は相手を見なくてもできる。


 尊重は、名前を聞くことから始まる。


 名前を聞いてくれたのは、レンジだけだった。


 廊下の隅にしゃがんでいたリーゼの前で、目線を合わせるためにしゃがみ直してくれた人。


 ーーー君はどうしたい?


 その問いを聞いた瞬間、リーゼの中で何かが砕けた。壁ではなかった。壁ならとっくに壊れていた。砕けたのは、壁の代わりに自分を支えていた諦めだった。


 どうしたいかなんて、考えたことがなかった。


 奴隷は考えない。頷くのが仕事だから。


 でもあの人が聞いてくれたから、考えた。生まれて初めて、自分が何を望んでいるかを考えた。


 パンを焼きたい、と言った。


 お母さんと焼いていた丸い小さなパンのことを話した。くだらない答えだと思った。世界を変えたいとか、自由が欲しいとか、もっと大きなことを言うべきだったのかもしれない。


 でもレンジは笑わなかった。


 いいよ、と言った。パン屋をやるのに必要な手続きを俺が作る、と。


 パン屋は二年間続いた。


 毎朝、丸い小さなパンを焼いた。近所の子どもが買いに来た。レンジが週に一度、昼に寄ってくれた。少し焦げたパンを美味いと言ってくれた。


 幸せだった。


 だが幸せなまま、ずっとパンを焼いているわけにはいかなかった。


 理由は単純だった。パンを焼いている間にも、名前を聞かれない人間がこの国にはたくさんいた。奴隷制度はレンジの告発で見直しが始まったが、制度が変わっても現場はすぐには変わらない。冒険者ギルドでは、契約書なしの口約束が横行していた。報酬の搾取、不当な解雇、怪我の自己負担。声を上げる場所がなかった。


 パン屋を閉めた日の朝、最後に焼いた一つを紙に包んでレンジのところに持っていった。


「労務官になりたい」


 レンジは驚いた顔をして、それからいつもの淡々とした声で言った。


「なら試験の範囲を教える。法制局の資料を使っていい」


 一年かけて勉強した。法制局が整備した規約と判例を暗記し、レンジの草案した手続法を読み込んだ。試験に合格した日、レンジは何も言わなかった。ただ頷いた。あの人はいつもそうだ。大げさなことを言わない。


 窓口を開いたのは、その三ヶ月後だった。看板の字が少し右に傾いた。直そうと思いながら、まだ直していない。


      ◇


 ベッドの上で、リーゼは自分の両手を見た。


 パンを焼いていた手。看板の字を書いた手。聞き取りの記録を取った手。アキラの日誌をめくった手。


 明後日、この手で裁定書に署名する。


 公正でいられるのか。


 アキラの日誌を読んで泣きそうになった自分は、あの審判廷で冷静に裁定を述べられるのか。アキラの中に自分の過去を見てしまった自分は、客観的でいられるのか。


 リーゼは考えた。


 レンジならどう言うだろう。


 答えはすぐに浮かんだ。あの人なら、考え込んだりしない。淡々と、一言だけ言う。


 事実を見ろ。


 事実を見た。数字を確認した。証言を取った。日誌を読んだ。すべての証拠が同じ方向を指している。アキラの請求は正当であり、蒼雷の報酬体系には問題があった。


 これは感情で出した結論ではない。


 日誌に泣きそうになったから全額認容するのではない。三年分の鑑定記録と、クエスト達成率と、事故報告件数と、証人の証言が、すべて同じことを示しているから全額認容する。


 泣きそうになったのは、その上に乗っている感情だ。判断の根拠ではない。


 だが。


 泣きそうになったから失格なのか。


 証拠を読んで心が動いた人間は、審判官として不適格なのか。


 リーゼは首を横に振った。


 違う。


 心が動いても、正しい裁定を出せるかどうかだ。


 動かない心で裁くのが公正なのではない。動いた心を、それでも論理の上に乗せられるかどうか。感情を排除するのではなく、感情があってなお、事実に基づいて判断できるかどうか。


 それが審判官の仕事だ。


 リーゼは立ち上がった。机の上のペンを取り、紙を一枚引いた。


 裁定書の下書きを始める。


 書き出しの一行目。


 本件は、冒険者雇用契約における報酬分配及び解雇手続きの適法性が争われた事案である。


 リーゼのペンは震えなかった。


 窓の外で、夜が明け始めていた。

第七話までお付き合いいただき、ありがとうございます。

明日4/12(日)19:00より、完結編・第八話〜第十話を連続投下します。

・第八話「審判」 20:00

・第九話「裁定」 20:30

・第十話「窓口」 21:00

いよいよ労働審判、開廷です。


★ここまで読んでくださった方、明日の完結編までブックマークでお待ちいただけると嬉しいです。

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