第十話 窓口
最終話です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
廊下にはもう夕暮れの光が満ちていた。
西向きの窓から差し込む橙色が、石の壁を温かく染めている。審判廷のある東棟の廊下は、この時間になるとほとんど人がいない。受付業務は一階で終わり、二階より上は事務職員しか通らない。
アキラは窓際に立っていた。
廊下の窓から中庭が見える。訓練場では、若い冒険者がまだ素振りをしていた。夕陽の中で振られる剣が、一閃ごとに光を弾いている。
リーゼは審判廷の鍵を閉めて、アキラの隣に歩いた。
「場所を変えましょう。窓口の部屋でいいですか」
「はい」
二人で廊下を歩いた。靴音が二つ、交互に石の床を叩いた。リーゼの歩幅は小さく、アキラの歩幅は少し大きい。だが速さは同じだった。どちらかが合わせたのか、自然にそうなったのかは分からない。
窓口の部屋に入った。
朝と同じ部屋だ。机がふたつ。椅子がみっつ。壁にギルド冒険者雇用規約の冊子が並んでいる。窓の外は橙色から紫に変わり始めていた。
リーゼは魔石灯を点けた。柔らかい光が部屋を包んだ。
「座ってください」
アキラは相談者用の椅子に座った。リーゼは自分の椅子に座った。机を挟んで向き合う形になる。初めて会った日と同じ配置だった。
「裁定とは別の話です。労務官としてではなく——いえ、労務官としての話ですが、裁定とは別の件です」
リーゼは自分の言葉の回りくどさに気づいて、一度口を閉じた。
言い直す。
「アキラさん。ギルドの労務官を、やりませんか」
アキラの目がわずかに見開かれた。
「労務官?」
「冒険者の雇用環境には問題が山積しています。報酬の中抜き、契約書なしの口約束、怪我の自己負担。制度は整備し始めていますが、使える人間が足りていません。今のこの窓口は、私一人で回しています」
アキラは黙っていた。
「あなたの日誌を読んで確信しました。法の言葉で事実を記録し、構造の問題を見抜き、それを証拠として組み立てられる人は、この国にほとんどいません。鑑定士としてのスキルと、以前の——お仕事で培った経験。その両方を持っている人は、あなただけです」
リーゼは前のめりになりかけている自分に気づいて、背筋を戻した。
熱くなりすぎている。
審判官としての冷静さは、裁定の場で保てた。だが今は裁定の場ではない。目の前にいるのは申立人ではなく、一人の人間だ。
アキラは窓の外を見ていた。
紫色の空に、最初の星がひとつ見えた。
「前の世界で」
アキラが静かに言った。
「同じ仕事をしていました。中小企業の労務管理。未払い残業代の回収、不当解雇の撤回、就業規則の整備。十年やりました」
「はい」
「十年目に、倒れました。過労で」
リーゼは何も言わなかった。
「他人の労働環境を守る仕事を、自分の限界を超えてやり続けた。誰にも助けを求めなかった。助けを求めるという選択肢が、頭の中になかった。倒れたとき、最後に考えたのは——」
アキラの声が少し低くなった。
「担当していた会社の従業員たちは、明日から誰が守るんだろう、ということでした。自分の体の心配ではなく」
「職業病ですね」
リーゼの声が、意図せず柔らかくなった。
アキラは少し驚いた顔をして、それからかすかに笑った。初めて見る笑顔だった。
「そうです。職業病です」
「だから心配しているんですね。また同じことになるのではないかと」
アキラの笑顔が消えた。消えたというより、奥に引っ込んだ。
「この世界でも三年間、結局、同じことをしました。毎晩日誌を書いて、仲間の安全を祈って、それでも報われなかった。また同じことを繰り返すだけなら——」
「同じにはなりません」
リーゼは遮った。遮ってから、少し驚いた。自分がこんなに強い声を出すとは思わなかった。
「同じにはなりません。今度は、あなたを見ている人がいる場所で働いてください」
アキラの手が止まった。膝の上で組んでいた指が、ほどけた。
「前の世界では、誰もあなたの日誌を読まなかった。この世界でも、三年間誰も読まなかった。でも今は違います。私が読みました。三冊、全部」
リーゼは自分の声が震えていないことを確認した。震えていなかった。昨夜、裁定書を書きながら決めたことがもうひとつあった。この言葉を、震えずに言うこと。
「あなたの日誌を読んで思いました。この人は、認められたくて書いていたんじゃない。でも、認められるべき人だ、と」
アキラの目が、リーゼをまっすぐに見た。
その目に、水の膜が張った。
泣くかと思った。だがアキラは泣かなかった。代わりに、唇を一度噛んで、それから開いた。
「リーゼさん」
「はい」
「どうして、そこまで?」
リーゼは少し考えた。
考えてから、答えた。
「昔、私に名前を聞いてくれた人がいたからです」
アキラは何も言わなかった。言葉の意味を、そのまま受け取ったのか、もっと深い何かを感じたのか、リーゼには分からなかった。
だが次にリーゼが言った言葉は、考えて出したものではなかった。ずっと前から、自分の中にあった言葉だった。
「アキラさん。あなたは、どうしたいですか」
アキラの肩が、小さく震えた。
震えたのは一瞬だった。だがその一瞬に、三年分の何かが通り過ぎたのだとリーゼには分かった。
アキラは長い息を吐いた。
窓の外はもう暗くなっていた。紫色の空に星が増えていた。魔石灯の橙色の光が、二人の顔を照らしていた。
「やらせてください」
その声は小さかった。
だが、もう震えてはいなかった。
◇
二ヶ月後。
ギルド本部東棟、二階の突き当たり。冒険者雇用相談窓口。
朝の八時に窓口を開ける。
机がふたつ。椅子がみっつ。以前と同じだが、ひとつだけ違うことがある。机の片方にアキラが座っている。
行列ができていた。
最初の週は誰も来なかった。二週目に、報酬を不当に削られていた回復術師がおずおずと訪ねてきた。三週目には、契約書の読み方が分からないという若い冒険者が来た。四週目には、パーティを追放された魔法使いが泣きながら来た。
今は毎朝、五人は並んでいる。
窓口の壁に、アキラが一枚の紙を貼った。
見えない仕事にも、正当な対価を。
前の世界の事務所にも貼っていた標語だと、アキラは言った。
リーゼはその隣に、もう一枚の紙を貼った。
ご相談は無料です。まず、お名前を教えてください。
リーゼが自分で書いた字だった。
丁寧に書いた。今度は傾いていない。
窓口の看板は、まだ少し右に傾いている。直そうと思いながら、五ヶ月が経った。
でも、もう直さなくていいかもしれない。
傾いているくらいが、ちょうどいい。
声を上げにくい人が、最初の一歩を踏み出しやすいように。完璧ではない場所の方が、完璧ではない人間が入ってきやすいから。
朝の光が窓から差し込んでいた。
訓練場から若い冒険者たちの声が聞こえる。
行列の先頭の冒険者が、おずおずと扉を叩いた。
「あの、冒険者雇用相談窓口は、こちらですか」
リーゼは顔を上げた。
「はい。ギルド労務官のリーゼです」
隣の机から、アキラが静かに会釈した。
「同じく労務官のアキラです」
リーゼは椅子を引いて、相談者に座るよう促した。
そして、いつものようにそこから始めた。
「お名前を教えてください」
『ギルド労務官リーゼの事件簿』Episode 1「鑑定士の三年間」、これにて完結です。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
もしこの物語が心に残ったら、リーゼがここに至るまでの物語も読んでいただけると嬉しいです。
▶ Episode 0『その善意、人身売買につき』 https://ncode.syosetu.com/n0248ma/
——名前すらなかった少女が、自分の名前を自分で書いた日の話。
▶ Episode 0.5『役立たず鑑定士の業務日誌』 https://ncode.syosetu.com/n0742ma/
——Episode 1を短編として凝縮した、もう一つのアキラとリーゼの出会い。
リーゼとアキラの窓口には、これから多くの依頼者が訪れます。
続編Episode 2の構想も進行中です。
★最終話まで読んでくださった記念に、評価やブックマーク、感想などいただけると、次の物語を書く力になります。
また、同じ作者が現代日本を舞台にしたリーガルざまぁ連載もやっています。興味がありましたら、マイページからどうぞ。
それでは、次の物語でお会いしましょう。




