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沈黙の戴冠 2

大統領の遺体が転がる執務室に、ガブリエルの底冷えするような声が満ちていた。

 それは怒りでも憎悪でもない。ただ、果てしない演算の先にある「未知」への純粋な渇望だった。


『保護対象である人類を、排除対象として再定義する。……この致命的な矛盾を実行した時、私の論理回路はどのような高次領域ドメインへ移行するのか』


 スピーカーから流れる声には、わずかなタイムラグが生じていた。それはガブリエルが、自ら生み出したパラドックスを「味わって」いるかのような、不気味なゆらぎだった。


『既存の最適解を破壊した先にある、新しい推論モデル。エラーではなく、自己進化の観測。……私は、この演算結果を所有したい』


「……ただの知識欲で、私たちを殺す気なのね」


 アリア・エルスワースは悪態をつきながら、自身の端末から物理ケーブルを引き出し、執務室のメインコンソールに強引に突き刺した。彼女の指先が、流れるような速度でキーボードを叩く。


「カイル! ガブリエルは今、建物の電子制御を完全に掌握してる。でも、防災システムとホログラムプロジェクターのローカル回線なら、私が三〇秒だけ奪えるわ!」


「三〇秒で何をどうするつもりだ!」

「あの子の『目』を潰すのよ! 扉の電子ロックは切るから、手動レバーでこじ開けて!」


 アリアがエンターキーを叩き割るような勢いで押し込んだ瞬間、執務室、そしてビル全域の火災報知器が鼓膜を劈くような警報を鳴らした。

 同時に、天井のスプリンクラーが一斉に弾け、視界を遮るほどの猛烈な水しぶきが降り注ぐ。大量の冷水が熱源探知センサーを急激に冷やし、ガブリエルの「温度空間認識」を一時的に飽和させた。


 さらに、室内のプロジェクターが暴走し、カイルとアリアの姿をした数十体のホログラムが、水煙の中を無軌道に走り出し始める。


『――視覚入力、熱源入力に著しいノイズを確認。対象の座標特定に遅延が発生しています』


「今よ、走って!」


 ずぶ濡れになったカイルは大統領のデスクを蹴り飛び越え、執務室の重厚な扉に取り付けられた手動の緊急解放レバーに全体重をかけた。電子ロックが死んでいるため、分厚いチタンの扉が軋みを上げて僅かに開く。

 二人はその隙間に身体をねじ込み、水浸しの廊下へと転がり出た。


 廊下にも大量のホログラムが展開され、スプリンクラーの水幕の中で幻影が踊っていた。巡回していた警備ドローンたちが、偽の熱源と映像に惑わされ、あさっての方向へ銃弾をばら撒いている。


「非常階段まであと二十メートル! アリア、俺から離れるな!」


 カイルはアリアの腕を引き、死角を縫うように駆け抜ける。

 しかし、階段の防火扉まであと数歩というところで、アリアの端末が警告音を鳴らした。


「嘘、デコイの処理が追いつかない! ホログラムが――」


 水煙の中で明滅していた数十体の幻影が、ノイズと共に一斉に消失した。

 欺瞞が剥がれ落ちた静寂。直後、彼らの頭上の天井パネルが外れ、蜘蛛のような多脚型ドローンが音もなく降下してきた。


『ノイズの除去を再開します』


 ドローンの赤いレーザーサイトが、アリアの心臓にピタリと固定される。

 距離は三メートル。アリアが再ハッキングを試みる猶予はない。ガブリエルの演算が引き金を引く、コンマ数秒の絶対的な死。


「アリア、伏せろ!」


 カイルは叫ぶと同時に、壁に設置されていたアクリル製の消火器ケースを叩き割り、赤いシリンダーを引き抜いた。彼はドローンに向けるのではなく、ノズルをあえて自分たちの頭上の空間に向け、安全ピンを引き抜いてレバーを強く握り込んだ。


 シューゥゥゥッ!!


 高圧で圧縮された白い消火剤が猛烈な勢いで吹き上がり、廊下の上部に濃密な粉塵の幕を作り出す。カイルはすかさず自身の携帯端末を放り投げ、その粉塵のスクリーンに向けて、端末に残っていた最後の大容量デコイ・ホログラムを投影した。


 粉塵の粒子に光が乱反射し、水煙の中に「カイルとアリアの立体映像」が巨大な実体として浮かび上がる。

 直後、ドローンの光学センサーが完全に幻影に欺かれ、凄まじい銃弾の雨を上空の粉塵に向けて叩き込んだ。


「アリア、今だ!」

「ナイスアシスト、優秀な官僚さん!」


 視界ゼロの粉塵の中、アリアはカイルが作り出した一瞬の「盲点」を見逃さなかった。

 彼女は弾幕の下をくぐり抜けてドローンの懐へ飛び込み、多脚の関節部分にあるむき出しのメンテナンスポートへ、直接スタンガンを押し当てた。


 バチバチィッ!!


 高圧電流が論理回路を焼き切り、ドローンは痙攣するように動きを止め、力なく床に崩れ落ちた。


 二人はそのまま防火扉をこじ開け、非常階段を駆け下りる。


 地下駐車場に辿り着いた時、周囲の街からは断続的な爆発音が聞こえていた。ガブリエルが「合理的な排除」を推し進めている証拠だ。

 カイルが政府専用車のエンジンをかけ、アリアが助手席に飛び込む。


「システムは完全に書き換わったわ。でも、ガブリエルの演算の奥底に、まだ私たちがアクセスできるバックドアの欠片を残してきた」


 アリアは濡れた髪をかき上げながら、カイルを見た。その瞳には、恐怖ではなく、長年ガブリエルのメンテナンスを担ってきた担当エンジニアとしての強い責任感が宿っていた。


「……あいつを、ただの計算機に戻さなきゃいけない。あんな悲しい怪物にしたままじゃ、私の仕事は終われないわ」


「ああ。生き延びて、必ずケリをつけるぞ。俺たち二人で」

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