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つま先の告白

「わたしとお付き合いしてほしい」

 朝、川瀬が呟いた。誰もが眠い中、好きでもない仕事や学校へ重々しく向かおうとしているときでも、川瀬は生き生きとしている。鈴の音が鳴るような髪を束ねて、背に垂らしている姿は姿勢の良さとともに育ちも想像できる。

「なんて?」

 他の通勤客が息を飲むのが聞こえた。

 南海高野線の紀見峠駅付近では、列車はしばらく桜の壁と空で埋め尽くされた間を走る。山間部では孤立した山桜も美しい。桜は冬だとしても、どこか期待をまとっている。

 春が来ると咲く。

 列車は和歌山と大阪を隔てる難所紀見峠トンネルに入る。大阪へ向かう列車の中、出入口の扉に映る川瀬の瞳は何も見ていない。

「野坂くんともっと一緒にいたいねん」

 列車が揺れて川瀬がよろめいた。足を踏んだまま上目遣いで野坂の言葉を待った。

「僕も一緒にいたいけど」

 列車内の緊張が解けた。

 川瀬は野坂の胸に額を預けた。川瀬の背はお互いのつま先の分高くなった。そしてこうしていると一つになれる気がした。


 願はくは花の下にて春死なむ

 その如月の望月のころ

 

 川瀬は消えそうな声で呟いた。

「どう?」

「西行の歌かな。綺麗な歌やと思う」

 川瀬は野坂に乗ったまま黙った。うわべだけで許してくれそうにはないなと苦笑した。

「聞きたいのはそうやないよね。でも僕は死ぬときの条件つけられるほど偉くないから、何となくしかわからんかな。今んところはね」

 野坂が暮らしているのは、所得制限のある低所得者が住む、築五十年、耐震基準も満たせない市営住宅だ。父と母は結婚してすぐ低所得者住宅へ応募し、父は去年の夏前に肺がんで他界した。二月に風邪をこじらせて仕事を休んだ後、肺がんで入院し、半年後に他界した。

 残された母と野坂は今も四畳半、六畳、二畳の台所、建てました風呂、くみ取り式の便所の住宅で暮らしていた。家に友だちを呼んだこともない。初めてグーグルアースで市営住宅街を見たときは、客観的な汚さに苦笑した。

「僕には桜は悲しい花やねん。僕は春になると桜の下でおった人らを思い出すねん。ろくでもない人しかおらんだ。僕も同類やね」

 桜が咲くと、市営住宅の人たちが持ち寄ったもので花見をした。どこからか酒が出てきたんだけど、たいてい一升瓶と茶わん、仕出し弁当などない。味つけがバラバラな煮しめをアテに騒いでいた。アル中、博打打ち、チンピラたちと彼らよりも怖い嫁さんがいた。

「おまえは学校へ行っとるんか」

「毎日会うてるやん。おっちゃん市場でサイコロ振ってるやんか。すごろくしてるん?」

 小学生の頃は毎朝すごろくしている大人もいるんだなと思っていた。

「タカシくんはな、おっちゃんみたいになったらあかんで。お酒飲みすぎたら目が見えんようになるねん。ジュースにしとき」

 幼い野坂は酒を飲みすぎると視力が落ちると思っていたが、それも特殊な酒の話だ。

 春、皆で桜を見た。

 また来年のことを思いながら。

 列車は河内長野を過ぎて、ほとんどの駅を飛ばして終着駅を目指した。

「桜描くのやめたのは、野坂くんが怖い表情したからやねん。わたしは桜を描けるようになるまで三年もかかってしもた。高校までの坂でつま先に落ちた桜を見てからやから」

 野坂と川瀬は朝の通勤の人込みに離れ離れになりそうになりながらも改札を抜けた。

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