Fの誘惑
ウエイトレスがホットカフェラテを持ってきたとき、野坂は中腰で動きを止めた。川瀬は何の意にも介さず紅茶をかき混ぜていた。後ろで束ねた黒髪は高校の頃は風になびくと、涼やかな音が聞こえたような気がする。油絵が趣味と聞いていて、住む世界が違うなという印象は今も変わらない。セーラー服がシャツに変化しても変わらない。こんな人が公立高校にいるんだと驚いたが、また衝撃的な話を聞かされた。
「高校の同級生やと思うてない?」
「違うの?」
「小中高とずっと同じや」
川瀬は上目遣いで睨む仕草をした。
「絶対にそうやと思うてたわ」
川瀬はチューリップのようにカップを包んで紅茶を口に含んだ。
間が空いた。
「二次会行きたかったんやない。野坂くんが行くんならわたしも付き合うてたけど。どうしても話したいことあるからドキドキしててん」
オレンジのオレンジの革鞄から手帳とキャビネサイズの一枚のモノクロの写真を出した。
「覚えてる?」
写真部の野坂は考えた。いろいろ思い出すことはあるが、これは覚えていない。
「文化祭のとき。わたしがイーゼルを前にして後ろから撮ってもろてん。これは顔写ってるからボツ。ほら。実際の作品はわたしの部屋にあるねんよ」
スマホで見せてきた。彼女の部屋の一等地ともいえるところに、こんな立派な額だったかなと思いつつも、イーゼルに向かい、夏のセーラー服に肩に広がる髪をした彼女がいた。
「今も飾ってくれてるんや。これは渾身の作品やからうれしいな」
「覚えてるん?」
「モデルも構図も光も完ぺきや。いつも見てたんや。一瞬の世界を何度か見た。これは川瀬さんを僕の中に封じ込めた写真やねん」
「あ、え……」
川瀬はうつむいた。靴のつま先が互いに触れて引っ込めた。川瀬はあいまいに笑った。
格闘技や球技でも女の子たちからは拒否されたし、男子も友人以外はNG。文化部はチェックすることを条件に協力してくれた。
「ネオパンFで三脚立てて、自然光だけで撮ろうとして我慢してもろたんや」
「モデルなんて恥ずかしかったわ」
「覚えてるもんやな」
野坂はフィルムの種類で粒子が細かいものを選んでいた。どうしてもそれで川瀬の活動している後ろ姿を撮りたいと考えていた。
「何でわたしやったん?」
「髪がきれい。くくってあるのをほどいたらきれいに見えると思うた。いつもイーゼルの前で何か考えてた川瀬が天使に見えた」
「わたしね、美容室でも男の人に髪触られたことなくて。こう」
川瀬は髪を広げる真似した。
「寒気した」
「ごめん」
「怒ってないねんで。ぜんぜん。何かおかしいかもしれん。ちゃんと伝わってないかも」
「一瞬を何度も見てたから封じたい思うた」
中古のオリンパスOМというカメラを備品の三脚に立てて、レリーズを押した。窓から夏の風が入ってきて、カーテンを揺らして、彼女の髪もわずかに浮いたときをとらえた。
「お父さん、PTAの会長してたからもらってきてん。で、知り合いに額装してもろて」
「額装までしたん?展示終えた後、欲しい人にはあげたのに」
「わたしはもろてないというか、欲しかったけどよう言わんかってん。欲しくて欲しくて」
「文化祭のとき、それぞれ教室借りて展示したやん。だから迷惑かけんようにすぐ撤収したからなあ。重ねて倉庫へ運んだ」
でもキャビネサイズの小さい写真はどうしたのかと尋ねたところ、川瀬は束で封筒に入れてフィルムごと無言でくれたと話した。
「試しに撮った方やんな」
「本番前に何本も撮るから驚いた。でもほとんどボツやんな」
「フィルムカメラは構図とか光と影とか調べるのが大変なんよ。あれらもあげたよ」
「本人以外にも?」
「いたな。焼き増してくれとか言われたこともあるから。欲しい人いたはずやで。川瀬さっきもやけど人気もんやん」
「そうでもないよ。いつも一人やん」
「一人好きなん?」
「そんなことないねんけど、いつの間にか一人でおるんよね。何でカメラやめたん?」