揺らぎ
「あれえ? 早かったね」
瑠璃が校門に着いておよそ十分。
何食わぬ顔で梓は瑠璃の前に現れた。
「ん。ほとんどみんな帰ってた」
「なるほどね」
「……なにこれ? 瑠璃が書いたの?」
梓が眉をひそめる。
校門の柱に描かれた不気味な模様に、梓は分かりやすく不快感を示した。
「……あー。これはね、オマジナイだよ」
「おまじない?」梓は再び落書きを眺める。
「学校自体が嫌いなわけではないからね。物騒な世の中ですが、ここには被害が出ませんようにってお願いしたの」
「遅刻してきて、怒られて、最後は落書きか」
呆れたように梓はかぶりを振った。
「落書きじゃなくてオマジナイだって」
「なんかそれ、見てると気分が悪くなるんだけど」
「褒めないでよ。さて、と。じゃあ行こっか」
「どこに」
「どこって、そりゃあウチだけど」
「さも当たり前みたいに答えてるけど一応聞いておこうかな。……なんで?」
「しばらく学校休みだから」
「学校休みだと瑠璃の家に行くの? 外出禁止だけど」
「仕方ない。今まで黙っていた秘密を打ち明ける時が来たみたいだね」
瑠璃は梓の肩を掴むとゆっくりと口を開いた。
「梓って……動物好きでしょ?」
「ッ! なんでそれを?」
「だってこの前体育の時チラッと、むぐぅっ!」
目にも止まらぬ速度で瑠璃の口は塞がれた。
梓の耳は真っ赤になっており、唇は小刻みに震えている。
「それ以上喋ったら……分かるよね?」
「あぐっ! うぅうううぅっ!」
「あれ? 瑠璃、もしかして息が出来ないの?」
「ううううっ! うぇいわあいっ!」
「やだ、すごく可愛い」
「……ふぉまえ、あはまおはひいよ」
◇
瑠璃の家は森の中にある。
鬱蒼と木々が生い茂る森のど真ん中だ。
魔女っぽい雰囲気を出す為に、それっぽいところに住んでいるわけではない。実際、ミアが知る魔女の中にはタワマンの最上階に住んでいる者もいるという。
ではなぜそんな不便な場所に住んでいるのか。
それは、暖炉付きのログハウスで、暖かいココアにマシュマロを浮かべ、ロッキングチェアに揺られ読書をする――これらを実現する為だけに、祖母が家を建てたからであった。
とはいえ冷暖房は完備だしお風呂は湯沸かし器付き。
ご所望とあれば、星空の下で五右衛門風呂にも入れる。
特に不便なこともなく、その上家賃もかからないので、祖母が他界した後も瑠璃とミアが住み着いているのだ。
そして本題はここからである。
森の中に住んでいると、ご近所さんはシカにイノシシ、ウサギ時々ツキノワグマと森の愉快な仲間達となるのは必然である。
つまり――。
「絶対行く! なんなら一生泊まる!」
動物好きな梓のハートをガッチリと掴んだのであった。
「もう〜、そういうことは早く言ってよねぇ」
「ちょっとぉ〜、ゆらさないでよぉ」
「カモシカは? ニホンカモシカはいるの!?」
「昨日食べたよ」
「ッ!!」
「うっそでーす。流石にそこまでバカではありませーん」
「落ち着け梓。いつもならこんな冗談は一笑に付すはずよ。相手は瑠璃、相手は馬鹿、瑠璃と書いてバカと読む」
「おい」
「なによ! 揶揄うのが悪いんじゃない!」
梓はかなりの動物好きだった。
ここまでくるとマニアと評してもいいだろう。
猫を見つけてハァハァしていたり、翼を休める雀をウットリと眺めてたりと、梓が動物好きである可能性はかなり高かった。
しかしここまで効果覿面だとは夢にも思わなかった。
なんにせよ、瑠璃は梓を自宅に招待することに無事成功したのだった。
先立ってお泊まりの準備をする為、道すがらのお店で準備をしようとなったのだが、梓のテンションはおかしくなったままだった。
「キツツキは?」
「たまにいるよ」
「じゃあタヌキは?」
「たまにいる」
「フクロウは?」
「着いたよ」
「ツイタヨ? 初めて聞く動物ね。有袋類?」
「いい加減目を覚ませ」
「……ああ、お店に着いたのね」
学校と瑠璃の自宅の丁度中間地点、今にも消えかかりそうな横断歩道の斜向かいに、古ぼけた商店が見えてきた。
そこは生活雑貨や飲食品、果てはお酒や週刊誌まで取り揃えている雑貨屋で、瑠璃と梓が初めて会話をした場所でもあった。
煙草を販売する為の小窓からは、店構えに似つかない店員がキセルを咥えている姿が目に入る。ここら辺で彼女は変わり者として有名だ。
その商店の軒先にはいつも一匹の猫が寛いでいる。
猫は美しい毛並みのハチワレで、スラリと長い尻尾は通りかかる人の目を惹く見事なものだった。
猫はいつも眠そうで、時折欠伸をしモゾモゾと体勢を変える。それ以外は特段目立った動きはしない。
瑠璃は昔からこの店が大好きだった。
のどかな日常を絵に描いたような光景に思わず笑みが溢れてしまうのだ。
「別に我慢しなくてもいいんだよ?」
猫を凝視しながら必死で表情を殺す梓。
「イメージって大事だと思うんだ」
「なにを今更……」
「前から気になってたんだけど、瑠璃ってこのお店の人と知り合いなの?」
「うん、まあそうだね」
「やっぱりそうなんだ。ねえ、ところで……」
「撫でても平気だよ」
「……ッ!?」
梓は見たことのない速さで瑠璃の方へと振り向くと、大きいビー玉のような瞳を輝かせた。
「怖いって」
「財布預ける。あとは任せてもいいかな」
「わ、分かったよ」
梓は瑠璃に財布を手渡すと、体勢を低くしてジリジリと猫に近づいていった。
逆に怖がられそうな動きだなとも思ったが、寝ている猫への梓なりの配慮なのだろうと、瑠璃は見なかったことにした。
そんな梓の姿を見て、瑠璃の小さな疑念は少しだけ形を変えた。
学校で会ってからここまでの梓の言動は、まるで別人格に入れ替わり続けているかのようだ。
元々そういうところもあるにはあったが、今日は特にそれを強く感じた。
癖のある担任にも認められている優等生の梓。
冷たい口調でクラスメイトを蔑む梓。
動物好きでふにゃふにゃしてる目の前の梓。
人間である以上、多面性は誰もが持ち合わせる。
それは瑠璃もミアも同じだ。
なんならそこで寛ぐ猫でさえ、そんな一面を持ち合わせているかもしれない。
だが梓はその振り幅がより顕著である。
いったいどれが本物の梓なんだろうと瑠璃は考えた。
全てが本物の梓であり偽物なんていないとも思える。
どれもが瑠璃の大切な友人であることには違いないが、魂が不安定であるが故に人格が揺らいでいるとも考えられる。
馬鹿な真似をする梓はいないよね――そんな風に思いながら瑠璃は商店の扉を開けた。
「にゃんにゃーん。にゃん、にゃん」
背後から梓の猫撫で声が聞こえた。
「考えすぎかな……考えすぎだな、多分」