4感謝のない日々
その後も奇妙な日々は続いた。
「あれ、俺なにか嫌われるようなことしたかな……」
最初のうちは偶然かと思っていた他人の冷たい態度も、数日も経つ頃には無視できなくなっていた。誰に対しても感謝されない。それどころか、まるで俺の存在が透明になったかのように扱われることさえある。
ゼミのグループワークでは、俺が徹夜でまとめ上げた資料をゼミ長の奴が勝手に自分が創ったように説明し、他の連中もそれを疑いもせず褒めそやしていた。唖然として抗議しようとしたが、「まあまあ、細かいことはいいからさ」と軽くあしらわれた。
バイト先でも同じだ。シフトを代わってやっても「ありがとう」の一つ言われず、逆に「明日も代われる?」と図々しく頼まれる始末。店長も店長で、残業して売り場整理を終わらせても「ご苦労様」どころか「あ、そこまだ埃残ってるね」とダメ出しをされる。心の中で舌打ちしながら掃除道具を片付けた。
極めつけは週末のサークル活動だった。部室の大掃除の日、みんな嫌がる窓拭きを俺が率先して引き受けた。脚立に乗って高い窓を磨き終え、床に降りると、下で腕組みしていた後輩がぼそりと言った。
「…何か?」
「いえ…自分でやろうと思ってたのに、先輩がやっちゃうから。」
冗談だろ。人が汗だくで作業してやったのに、その言い草はなんだ。思わずカチンときた。
「お前な、だったら最初から自分でやれよ! 俺はお前のためにやったんじゃない、みんなのためにやったんだ。それに一言くらい――」
「…別に頼んでないですし。」
淡々とした後輩の言葉に、頭に血が上った。「頼んでない」ですと? じゃあ俺が勝手にしゃしゃり出て余計なことをしたっていうのか?
「おい、それはないだろ。人がせっかくやったことに対して――」
口調が荒くなるのを自覚しつつ食い下がる。だが周囲の視線が痛い。いつの間にか掃除の手を止めていた他の部員たちが、俺たちのやり取りを成り行きのように見守っていた。
「先輩、落ち着いてくださいよ。」別の部員が間に入って宥めるように言った。「悪気があったわけじゃないんだし。」
「そうっすよ、先輩っていつもクールな感じなのに、なんか意外っす。」
ひそひそと交わされる声。気づけば俺は浮いていた。他人の無礼を糾弾していたはずが、いつの間にか俺の方が空気を乱す厄介者みたいじゃないか。
「……もういい。」
それ以上言葉が出なかった。馬鹿らしくなって、その場から立ち去ろうと踵を返す。
「え、ちょ、先輩?」
誰かが引き止める声も無視して、俺は部室を飛び出した。胸の奥がかっと熱くなって、悔しさとも怒りともつかない感情が込み上げてくる。
廊下を大股で歩きながら、壁に拳を叩きつけた。鈍い痛みが指先に広がる。
(ふざけるな……俺が何をしたっていうんだ……!)
やり場のない憤りが頭の中で渦巻いていた。なのに同時に、自分でも理解できない違和感が心を締め付けていた。
あの後輩の淡々とした「頼んでないですし」という一言――どこかで聞いたような気がする。そうだ、あれはまるで……。
記憶の底から、似たような場面が蘇ってきた。誰かに手伝おうとして「別にいい」「自分でできる」と突っぱねたのは、他でもない俺自身ではなかったか?
――「拓也、ノート貸そうか?」試験前、徹夜明けで死んだような顔をしていた俺に、蓮がノートを差し出してくれたときのこと。
――「別にいらねぇよ。覚えてるし。」俺は素っ気なく返し、蓮は少し残念そうに笑っていた。
そうだ。あのときの蓮の表情……俺は忘れていた。いや、見ないふりをしていただけだ。
俺は立ち止まり、額を壁にもたせかけた。冷たいコンクリートの感触に、熱くなった頭がじんと冷やされていく。
もしかして、今俺が味わっているこの苛立ちは、蓮や周りの人たちが感じていたものなのか?
俺の心を満たしていた怒りが、すうっと引いていくのがわかった。代わりに、強烈な自己嫌悪と後悔が押し寄せてくる。
「……俺、最低だな。」
思わず苦笑が漏れた。自分がされて嫌なことを、俺は平気で他人にしてきたのか。感謝の言葉を伝えず、好意を素直に受け取ろうともせず。
蓮に対してだって――。
頭の中で、蓮との思い出が次々によみがえる。楽しかった日々も、気まずくなった瞬間も、まるで走馬灯のように。
俺は壁に打ち付けた拳をそっと開いた。指の骨が軋むように痛むが、それが罰のように思えて、しばらくそのまま痛みを噛み締めていた。