3もう一つの世界
気がつくと、俺は自分のアパートのベッドに横たわっていた。薄明りの差し込む天井をぼんやりと見つめる。いつの間にか眠ってしまったのか? それにしても身体がやけに冷える。昨夜は……そうだ、蓮の家の庭で雨に濡れて――。
起き上がり、辺りを見回した。ここは東京の俺の部屋だ。壁に貼ったライブポスターや脱ぎ散らかした服まで、見慣れた光景が広がっている。夢でも見ているのかと自分の頰をつねったが、痛みが返ってきただけだった。
枕元のスマホを手に取り、日付を確認する。○月×日――蓮の葬式があったはずの日付だった。しかしカレンダーには何の予定も入っていない。着信履歴にも、母さんからの着信はは見当たらない。
頭が混乱する。まさか、蓮の死も葬儀も全て夢だったのか? あまりのリアルさに、とても夢とは思えない。それに、あれほど激しく悲しんだ感情が夢ごときで生まれるだろうか。
確認せずにはいられなかった。俺は震える指で連絡帳から蓮の名前を探し出す。高校卒業以来、一度もかけたことのない電話番号。でも今は迷っていられない。通話ボタンを押すと、呼び出し音が鼓動のように響いた。
「……はい、もしもし?」
聞き慣れた低い声が耳に飛び込んできた瞬間、心臓が止まりそうになった。
「蓮……! お前、蓮だよな?」思わず声が裏返る。
「は? 当たり前だろ。どうしたんだよ、朝っぱらから。」
電話の向こうで怪訝そうな蓮の声。生きている――確かに蓮が生きて喋っている! 嬉しさと安堵が一気に込み上げ、思わずスマホを握る手に力が入った。
「いや……あの、その……元気か?」まともに言葉が出てこない。
「なんだよそれ。お前から電話なんて珍しいな。」蓮は少し笑っているようだった。「まあ元気だけど? 拓也こそどうしたんだ? 珍しく声震えてねぇか?」
「べ、別に震えてない。」慌てて取り繕う。嬉しさのあまり声が震えていたなんて、死んでも言えない。
「そっか。ならいいけど。今日はどうした? 何か用があったんじゃないのか?」
用……そうだ、電話をかけた理由。咄嗟に出てこなくて当然だ。ただ、声が聞きたかったなんて言えるはずもない。
「いや、特に用ってわけじゃ……。お前、今どこにいる? 大学か?」
「そうだけど。講義の前にコンビニ寄って朝飯買おうとしてたとこ。」
「ああ、そっか……悪いな、変な時間に。」蓮の日常が続いている事実に、胸がいっぱいになる。
「なんかお前、変だぞ? マジでどうしたんだよ。」
「別に……ただちょっと、お前の声聞きたくなっただけだ。」本音が思わず口から滑り出た。
電話の向こうで一瞬沈黙が降りた。蓮も驚いたのかもしれない。俺自身、こんな素直な物言いは柄じゃないと自覚している。
「…へぇ? 珍しいな、拓也がそんなこと言うなんて。雪でも降るかもな。」蓮が茶化すように笑う。
「ば、馬鹿いうな。……まあとにかく、お前が元気ならいいや。じゃあな。」これ以上話しているとボロが出そうで、俺は早々に電話を切った。
通話が終わってもしばらく、胸の高鳴りが収まらなかった。蓮が生きている。こんな奇跡みたいなことがあるのか。昨夜あれほど絶望したのが嘘のようだ。
だが、これは一体どういうことだろう。現実が巻き戻ったのか? それとも俺が別の世界にでも来てしまったのか? 蓮に会いに行くべきか――頭の中に疑問が渦巻く。
とりあえず大学に行こう。考え事は後回しだ。俺はバタバタと身支度を整えると、アパートを飛び出した。
いつもの駅、いつもの電車、いつものキャンパス。見慣れた光景に少し安心する。違うのは、俺の心境だけだった。生きている蓮にまた会えるかもしれないという期待と、不思議な出来事への戸惑い。
講義棟へ向かう途中、顔見知りとすれ違った。いつもは軽く頷けば挨拶が返ってくるだけの間柄だ。しかし今日は彼の方から目をそらされ、そのまま通り過ぎられてしまった。
(……あれ?)
拍子抜けしたが、考える間もなく講義へ急いだ。
午前の講義が終わり、学食で昼飯を済ませることにした。混み合う食堂で注文を終え、受け取った日替わり定食を持って席を探す。ようやく空いたテーブルを見つけ、腰を下ろそうとしたその時だ。
「すみません、それ取ってもらえますか?」
隣の席の女子学生が箸を落としたらしい。床に転がったそれを俺の足元で見つけ、拾って手渡してやった。
しかし女子学生は「どうも」とぼそりと言っただけで、すぐにそっぽを向いてしまった。
(……ありがとう、くらい言ってもよくないか?)
内心もやもやしつつ、俺は自分の定食に箸をつける。味のしない料理を口に運びながら、先ほどの彼女の無愛想な態度が気になっていた。別に感謝してほしくて拾ったわけじゃない。だが、あまりにもあっさり流されたことに釈然としない。
思えば、朝のやつの態度もどこかよそよそしかった。俺が何かしたのだろうか? いや、特に心当たりはない。
蓮が生きていた喜びの陰で、得体の知れない不安がじわじわと広がり始めていた。
その不安は、この世界で過ごす時間が増えるにつれ、徐々に現実味を帯びていくのだった。