4本当の幸せとは
それから数日が過ぎた。直人は毎日が夢のように充実していると感じていた。
ある夜、翔太を寝かしつけ、優奈も自室に戻った後、直人は一人リビングで静かに今日を振り返っていた。夕食に家族みんなで笑い合い、翔太とボードゲームで遊んだことなど些細な出来事ばかりだが、どれも胸が温かくなる思い出だ。ふと廊下から物音がして、彼は顔を上げた。優奈が自分の部屋から出てきたところだった。「優奈、どうした?」直人が声をかけると、優奈は少し驚いたように立ち止まった。「ちょっと喉が渇いて…お水、取りに来ただけ」そう言ってキッチンの方へ歩いていく。どこか元気がない様子に、直人は首を傾げた。
キッチンでコップに水を注ぐ優奈の背中を見ながら、直人はそっと声をかけた。「最近、学校はどうだ?何か困っていることとかないか?」優奈は一瞬こちらを振り返り、それからゆっくりとかぶりを振った。「ううん、大丈夫。ただ…」と言いかけて口ごもる。「ただ…?」促すように尋ねると、優奈はコップを両手で包み込みながらぽつりと言った。「私…時々考えるの。お父さん、本当はお仕事辞めたくなかったんじゃないかなって。無理して家族のために辞めちゃったのかなって…」
直人ははっとした。優奈の声は震えているようにも聞こえた。彼は娘の隣に歩み寄り、優奈と同じ目線になるように少し腰を落とした。「どうしてそんな風に思うんだ?」優奈は困ったように笑った。「だって、お父さんすごく偉い人だったんでしょ?お仕事で毎日忙しくて…。私、小さい頃は寂しかったけど、でもお父さんが頑張ってるの誇らしかった。なのに私たちのために辞めさせちゃったのかなって思うと…申し訳なくて…」最後の言葉はほとんど消え入りそうだった。
「優奈…」直人は静かに娘の名前を呼んだ。優奈は潤んだ瞳でお父さんを見つめている。直人はゆっくりと頷いた。「確かに、仕事は大事なものだった。誇りもあったし、やりがいも感じていた。でもな…」そこで一度言葉を切り、娘の目を真っ直ぐに見据えた。「仕事を辞めたことを、後悔したことは一度もないよ。」優奈の瞳が大きく揺れた。「本当に…?」震える声で尋ねる娘に、直人は穏やかに微笑んでみせた。
「お父さんは、やっと大切なものに気付けたんだ。今まで仕事ばかりで、お前にも翔太にも寂しい思いをさせていた。本当に悪かったと思ってる。」そう言うと、優奈は首を横に振った。「ううん、私こそ、ごめんなさい…。お父さんに酷いこと言ったり、避けたりして…」声が詰まり、それ以上言葉にならない。直人はそっと娘の頭に手を乗せた。「謝るのはお父さんの方だよ。ずっと辛い思いをさせて、本当にすまなかった。」自分の目尻が熱くなるのを感じたが、直人は続けた。「だけど、こうして一緒にいられる今が本当に幸せなんだ。お前と、翔太と、そしてお母さんと過ごす時間が、何よりも大事なんだよ。」
ぽろぽろと優奈の頬に涙が伝い落ちた。「…私も、今が一番幸せ。お父さんがそばにいてくれるから…」か細い声で絞り出すようにそう言うと、優奈は直人の胸に飛び込んできた。直人は驚いたが、しっかりと娘を抱きしめた。震える肩を優しく撫でながら、「ありがとう、優奈。お前たちのおかげで、お父さんも幸せだよ」と囁く。二人はしばらくそのまま泣きながら抱き合っていた。
やがて優奈が涙を拭い、恥ずかしそうに笑った。「なんか、変だね。ごめん、お父さん…」直人も目頭を押さえつつ笑った。「変なことないさ。大事な気持ちを教えてくれてありがとう。」隣で見守っていた美咲が、そっとティッシュを差し出す。「もう、二人とも泣き虫なんだから」と優しく微笑んだ。いつからそこにいたのか、美咲も目を赤くしている。優奈は「お母さんまで…聞いてたの?」と照れたように笑い、三人で顔を見合わせて笑った。
家族が分かち合う温かな涙。その夜、直人は眠りにつく前に静かに思った。仕事で得られる達成感も確かに幸せだったかもしれない。だが、今自分が感じているこの満たされた思い――愛する家族と心を通わせ、支え合える幸せこそ、本当に求めていたものではないのかと。胸に手を当てると、ゆっくりと鼓動が響いている。傍らには、美咲と子供たちの穏やかな寝息。直人は瞼を閉じ、心からの感謝を込めて呟いた。「ありがとう…俺に、本当の幸せを教えてくれて」。その言葉は誰に届くでもなく闇に溶けたが、直人の表情は安らかで、どこか晴れやかだった。