1後悔
高橋直人は、夜の静まり返ったオフィスに一人残っていた。壁際の時計は午後11時を回っている。デスクには書類の山と、冷めきったコーヒーの紙コップが置かれていた。窓の外にはビルの灯りが点々と瞬き、まるで星空のように都会の夜景が広がっている。その美しさに気づく余裕もなく、直人は最後の書類に目を通し終えると、疲れ果てた様子で深いため息をついた。
「今日も遅くなってしまった…。」彼は誰に言うでもなくつぶやく。携帯を取り出し画面を見ると、妻・美咲からの未読メッセージが数件たまっていた。「夕飯はテーブルに置いてあります。温めて食べてね」「優奈が待っていたけど先に寝ました」「翔太の明日の授業参観、無理しないでください」――そんな気遣うような文章が並んでいる。どのメッセージにも、美咲の寂しさと諦めがにじんでいるように感じられ、直人の胸は締め付けられた。
画面の家族写真にふと目が留まる。数年前に撮った家族4人の写真だ。そこにはまだ幼さが残る優奈と翔太、そして穏やかな笑顔の美咲が写っている。直人自身も珍しく柔和な表情で子供たちの肩に手を置いていた。「いつの写真だったか…」思い出そうとするが、忙しさに追われて記憶が霞んでいた。あの頃は、仕事も今ほど忙しくはなく、家族と過ごす時間がもっとあったはずだ。写真の中の自分が、まるで別人のようにさえ思える。
「俺は何をしているんだ…?」直人は額に手を当て、静かに自問した。昇進を重ね、営業部長という肩書きを手に入れた。しかし、それと引き換えに彼が失ったものは何だったのか。娘の優奈が中学校に入学した日の朝、出勤前に「おめでとう」と言ったきり、式には結局行けなかった。翔太の少年野球の試合も、「次は必ず行く」と約束しながら、その次もまた仕事を優先してしまった。約束を守れなかった悔しさと、子供たちの落胆した顔が脳裏に蘇るたび、胸が痛んだ。
美咲にも、どれほど寂しい思いをさせてきただろう。結婚当初は共に過ごす時間を大切にすると誓ったはずなのに、いつしか記念日を忘れ、休日ですら仕事のことばかり考えていた。文句も言わず家庭を支えてくれる妻の存在に甘え、自分は大切なものから目を逸らしていたのではないか——。
机の引き出しから一通の手紙を取り出した。それは数日前、翔太が学校の授業で書いたという「家族へ感謝の手紙」だった。美咲が「読む暇がないだろうから」と預けてくれたものだ。そこには拙い字で「お父さんへ。いつもお仕事お疲れさま。ぼくは本当はもっと一緒に遊びたいけど、忙しいのはすごいことだと思います。体に気をつけてね」と書かれていた。その健気な言葉に、直人の目頭が熱くなった。幼い息子なりに父を気遣ってくれている。しかし、本当は寂しいに違いないのだ。気づかないふりをして、直人は仕事に逃げていたのではないか。
ゆっくりと席を立ち、オフィスの照明を落とす。暗がりの中、街の光だけが射し込む会議室のガラス越しに、自分の姿がぼんやりと映った。背広は皺くちゃで、髪には白いものが混じり始めている。「45歳にもなって、俺は大事なものを遠ざけてしまっている…。」呟いた声は虚しく静寂に消えていった。今からでも遅くないだろうか。そう思いつつも、積み重なった仕事と責任の重さが、まるで足枷のように直人の心に重く圧し掛かるのだった。
直人はかばんを肩にかけ、重たい足取りでオフィスを後にした。廊下を歩きながら、ふと目眩に襲われ立ち止まる。激しい疲労と寝不足が祟ったのか、視界がかすみ、足元がふらついた。壁にもたれかかろうと手を伸ばした瞬間、意識が遠のいていく。「まだ帰って謝ってないのに…」最後に頭に浮かんだのは、美咲と子供たちの顔だった。暗闇が視界を覆い、直人の身体は静かに床に崩れ落ちた。直人の心には、もう一度家族と人生をやり直したいという強い願いだけが残っていた。