1言えない言葉
後悔の先に……
「先輩、この前はありがとうございました!」
昼休み、ゼミ室の前でノートPCを閉じた俺に、後輩の元気な声が飛んできた。彼は先週のゼミ発表で俺が手伝った一年生だ。黒縁眼鏡の奥の目を輝かせ、丁寧に頭を下げてくる。
「別に、大したことしてないよ。」俺は肩をすくめて答える。実際、彼が作った発表スライドに少しアドバイスをした程度だった。だが、こうしてわざわざ礼を言いに来る真面目さに、内心くすぐったいものを感じる。
「いえ、本当に助かりました!拓也先輩のおかげで教授にも褒められて……」
後輩――たしか田中とか言ったか――はなおも感謝の言葉を続けようとする。その様子に、俺はかすかな居心地の悪さを覚えた。感謝されるのは嫌いじゃない。むしろ嬉しいはずなのに、面と向かって礼を言われると途端に照れくさくなってしまうのだ。
「もういいって。それより午後の講義、遅れるぞ。」俺は会話を打ち切るように軽く手を振った。
「あ、はい!ありがとうございました!」
結局、田中は最後まで頭を下げ続け、廊下を小走りで去って行った。その背中を見送りながら、俺はため息をつく。
小さい頃から、人に礼を言われたり褒められたりするとどうにも落ち着かない。素直に「どういたしまして」や「俺も助かったよ」と返せればいいのだが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。心の中では感謝や喜びを感じているのに、言葉にするとどこか嘲られるような気がして、照れ隠しにぶっきらぼうな態度を取ってしまうのだ。
そんな俺でも、唯一、何も言わなくても通じ合える相手がいた。幼馴染の蓮だ。小学校から高校までずっと一緒だった親友で、口数の少ない俺の性格も全部理解してくれている……と勝手に思っていた。
大学進学を機に、俺たちは別々の道を歩むことになった。お互い実家を離れ、俺は東京、蓮は地元の大学へ。それでも「離れても心は繋がってる」と笑った蓮の顔を、今でも覚えている。実際、最初の頃は月に一度くらい連絡を取っていたし、夏休みには二人で地元の祭りに顔を出した。しかし年が経つにつれ、互いに忙しさにかまけて次第に疎遠になってしまった。
もっとも、連絡が途絶えても不思議と不安はなかった。蓮とは無言でも分かり合える――そう信じていたからだ。わざわざ電話やメールをしなくても、会えば昔のように馬鹿話で盛り上がれるはずだ、と。
だが、最後に蓮と会ってからもう一年以上経つ。ふと思い立ってSNSを覗いてみても、蓮の近況はわからない。それでも「元気にやってるだろう」と勝手に決めつけ、俺は今日まで過ごしてきた。
その日の夕方、アパートに戻る途中でスマホが震えた。画面を見ると、珍しく実家の母からだ。時間は午後五時過ぎ。こんな時間に電話をかけてくるなんて、何かあったのだろうか。
嫌な予感が胸をかすめ、一瞬出るのをためらう。けれど次の振動で我に返り、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、母さん?どうした」
「拓也……?」受話口から聞こえる母の声が震えている。胸騒ぎが一気に強くなった。
「どうした?何かあったの?」
数秒の沈黙の後、母は静かに言った。
「……蓮くんが。蓮くんがね、事故に遭って……亡くなったのよ。」
最初、何を言われたのかわからなかった。蓮が、亡くなった?嘘だ。だって蓮は俺と同い年で、まだ22歳で――。
「……え?……うそ……だろ?」
ようやく絞り出した自分の声は、ひどくかすれていた。スマホを握る指が震える。冗談だと言ってくれ。母さんの早とちりか、蓮がケガをしただけで命に別状はないとか……。
「本当なの……急に、ごめんね……。お通夜が明日で、明後日がお葬式だそう。あんたも帰って来られる?」
受話器の向こうで鼻をすする音が聞こえる。母も泣いているのか。それを聞いて、これは現実なのだと。
「……わかった。帰るよ。」自分が何を口走っているのか、よくわからなかった。ただ、とにかく帰らなきゃと義務感のようなものに突き動かされていた。
電話を切ったあとも、しばらくその場から動けなかった。夕焼けに染まる街の景色が滲んで見える。蓮が、死んだ? 本当に? 何度問いかけても答えは出ない。
気づけば、握り締めたスマホの画面にひびが入っていた。力の加減も分からないほど、俺は動揺していた。
「蓮……なんでだよ……。」
誰にともなく呟いた途端、堪えていたものが一気に込み上げてきた。涙なのか嗚咽なのか、自分でも分からない声が喉から漏れる。蓮に会いに行かなきゃ。最後のお別れを言いに行かなきゃ。
歯を食いしばって顔を上げ、俺は夕闇迫る帰り道を走り出した。