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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小さな小さな恋から始めよう

作者: 多田 灯里

「ゆうじーん」

毎週土曜日の午後に行われる、小・中・高のバドミントンの合同練習後、中学3年生の折田勇仁に、小学生がワラワラと集まる。

首にしがみついて、ぶらさがる奴もいれば、足をわざと踏みつけて、おもしろがる奴もいる。

勇仁にかまってもらうのに、いつも五・六人は集まってくる小学生に、勇仁はイヤな顔ひとつせずに付き合う。親が迎えに来て、小学生が全員帰るまでじゃれ合いは続く。小学生が帰ったかと思うと、今度は高校生が勇仁をかまい始める。

勇仁は、歳の離れた兄が二人いて、まるで一人っ子のように、大事に育てられたらしい。親からの愛情が注がれているせいか、小学生や同級生、高校生とも分け隔てなく付き合って仲良くしている勇仁を、俺はいつも離れたところから見ているだけだった。


俺は、小さな頃からバドミントン選手だった父親に厳しく育てられていて、二人兄弟の長男ということもあってか、勇仁のような優しい人にすら、うまく甘えられなかった。でも勇仁は、愛想のない俺をみんなが帰ったあとに、必ずかまってきてくれた。

「また監督と居残り練習?」

「うん」

俺の父親は、俺の通うバドミントンクラブの監督で、いつも練習が終わってから、俺だけが居残り練習をさせられていたのだ。

「俺も残ろっかな」

「え?」

勇仁がニコッと笑う。

勇仁は、今年の中学生の全国大会で優勝し、小学生の頃から日本代表としてナショナルチームの練習にも参加していて、四年後のオリンピック選手候補に選ばれていた。

「俺の練習に付き合っても、勇仁の練習にはならないよ」

「なるよ。お前、瞬発力とかスゲェじゃん。全国大会で毎年優勝してるし、ずっと日本代表だろ。マジで才能あると思うよ。この前の練習の時、試合しただろ?俺、あんなに粘られた試合されたの初めてだったし、あそこまで競った試合も今までしたことなかったから。あの日、そのあとの練習できなくて。ほんと、マジでこいつスゲェって思ってた」

そう言うと、監督である俺の父親のところに行って、何やら話をし始めた。父親が嬉しそうに勇仁の肩を叩く。そして、勇仁が戻ってくる。

「これから俺と涼の二人で居残り練習していいってさ。監督は帰るから、って。お前も親父さんとずっと二人じゃ、息詰まるだろ?」

クシャッ、と頭を撫でられる。

何で…?もしかして分かってた?俺が、父親の厳しさに悩んでいたこと…。

「小学六年のくせに、苦悩した顔しすぎ」

勇仁は、俺の両方の頰を両手でつまんで引っ張る。それから、毎週土曜日には、勇仁と二人だけでの居残り練習が始まったのだった。


ある日の居残り練習の日、体育館の出入口が騒がしくて、俺と勇仁は様子を見に行くのに練習を中断した。見に行くと、何人かの女子が集まって、キャーキャーはしゃいでいた。

「あの、勇仁君。これ、差し入れ」

一人の女子が、勇仁に紙袋を渡す。

「あ、サンキュ」

と言って、受け取る。

「もしかして、あんた?」

と、後ろの方から、目つきのキツい女の人が声を掛けてきた。

「あんた、勇仁のお気に入りかもしんないけど、勇仁はみんなの憧れなんだからね。私なんか、他の子より勇仁といっぱいシテるんだから、調子に乗らないでよ」と。

「おい!小学生相手に何言ってんだよ!」

勇仁が慌てて女子を追いやる。

「涼、あっち行ってろ」

勇仁が焦った様子で俺の肩を押した。

「別にいいよ。だいたい俺、男だし。そういうこと言われても…」

俺が言うと「うそーっ!」とか「信じらんない」と言う声が一斉に沸き上がった。

「マジで?めっちゃカワイイから女の子かと思った。ごめんね、変なこと言って」

と、さっきの女の人が言うと、

「練習の邪魔になるから、悪いけど、もう帰って」

勇仁が女子達の背中を押す。

「やだぁ」とか「安心したね」とか、キャッキャした声が遠のく。

勇仁が、ガシャンと体育館の出入口の扉を閉じた。

「ごめんな、涼…。その…」

「何で謝るの?勇仁、別に悪くないじゃん」

「あー…」

勇仁が、その場にしゃがみ込んで、髪に手をやり、うなだれる。

「どうしたの?」

勇仁がしゃがみ込んだまま、ジッと俺の顔を見た。

「いや。今日さ、練習が終わったら、家に遊びに来ないか?一緒にゲームしようぜ。監督には俺から言っておくから」

「え?勇仁の家に遊びに行ってもいいの?」

俺は、とても嬉しくなった。

「おう」

勇仁は立ち上がると、俺の頭をポンと叩いた。


「シャワー使ってきていいよ。汗、気持ち悪いだろ?着替え、まだある?」

「うん」

俺は、カバンから着替えを出して、勇仁に案内された浴室へと移動した。

「勇仁は?」

「お前のあとでいいよ」

そう言って、バスタオルを俺に渡すと、すぐに脱衣所から出て行った。

俺と入れ替わりに勇仁がシャワーを浴びて、部屋に戻ってきた。

「何のゲームしたい?」

勇仁が、タオルで髪を拭きながら、ゲームソフトの入ったケースを見せてくれる。

「うわぁ、すごい」

こんなにたくさんのゲーム、見ているだけでワクワクする。ケースの中のゲームを選んでいると、突然、床に置いていた俺の手に勇仁の手が重なった。

「涼、俺っ…、好きなんだ。お前のこと!」

そう言って、勇仁が俺を見る。

「うん。俺も勇仁のこと好きだよ。だって、勇仁、優しいし、ゲームもいっぱい持ってるし」

「いや、そういうことじゃなくて…。何て言うか、涼に恋してるって意味なんだけど。だからさっきの話も本当は聞かれたくなかったって言うか」

「恋…?」

俺には、勇仁の言っている意味が、いまいち良く分からなかった。

「毎日、涼に会いたいって思うし、毎日、涼のこと考えてるし、会えると本当に嬉しくて…」

「よく分かんないけど、俺も勇仁に会えると嬉しいよ。お兄ちゃんができたみたいで」

「だから、そうじゃなくて。俺がお前を好きって言うのは、お前が好きな女の子を好きっていうのと同じ感覚なんだ。分かる?」

「え?それって、勇仁の好きな女の子が、俺ってこと?俺、男だよ」

「男かもしれないけど、好きになった。でも、俺のこの気持ちのせいでお前に嫌われるくらいなら、俺は自分の気持ちを抑えてでも、お前の側にいる方を選ぶよ」

まだ好きとか嫌いとか判断のつかないような小学六年の俺に、そんなことを言ってきた勇仁。

「中学に入って、気持ちが変わるかな、と思って、いろんな女子と付き合ったりしてたんだけど、涼のことを忘れるとか、全然ムリで」

俺を見る、真剣な眼差し。

「俺がこんな気持ちになるの、本当に涼だけなんだ」

何で俺?と思ったけど、人から好きと言われるのは別にイヤじゃなかったし、むしろ、そんな風に俺のことを言ってくれる人なんて今までいなかった。親からですら言われたことのなかった言葉に、俺はとても心地よさを感じた。

誰からも人気のある勇仁。そんな勇仁が俺を好きだと言って、真っ赤になっている。

「分かった。じゃあ、俺も勇仁のこと好きになる」

なぜだか分からないけど、自然にそう言いたくなった。

勇仁が、一瞬驚いたような表情を見せて、それからフワリと優しい笑顔を見せた。

「…手、つないでいい?」

勇仁が俺に尋ねた。手なんて、練習の時にいつもフォームを教えるのに触ってるくせに。勇仁の指が俺の指に絡んだ。勇仁の手は、とても温かくて、大きかった。


勇仁は、未来のオリンピック有望選手として地元のテレビでも雑誌でも取り上げられていて、以前にも増して人気者になった。いつも周りに人が集まり過ぎていて、居残り練習にまで見学者が来るような状態で、最近は二人きりで練習する時間も取れず、モヤモヤした感情に襲われたりもしたけど、それが何なのかよく分からなくて戸惑っていた。そして、いつも居残り練習のあとに、勇仁の家に行った時だけが、ホッと出来る時間になった。


「何?俺が他の子と仲良くしてるの見ると、モヤモヤすんの?」

「モヤモヤって言うか、イライラするって言うか…。よく分かんないけど」

そう。よく分からない。でも、こうやって二人きりになると、そんな不快な気分もどこかへ行ってしまう。

「それって、ヤキモチ?」

「ヤキモチ…?」

「そっ。他の子と仲良くしてほしくないんだろ?それだけ俺のことが好きってこと」

「…好き?」

いまいちピンとこないけど、そうなのかな…。

「めっちゃ嬉しい」

勇仁が本当に嬉しそうに笑うから、何だか俺まで嬉しくなってしまう。勇仁は、俺の悩みをいつも真剣に聞いてくれるけど、それを明るく笑って跳ね飛ばす。そのおかげで、俺はいつもすごく安心することができた。バドミントンに嫌気がさして、辞めたいと弱音を吐いた時もそうだった。


「バドミントン、辞めたい?」

「もう、何のためにやってんのか分かんなくて。親にやれって言われてやってるだけで、俺がやりたかったワケじゃないし、練習も辛いから」

勇仁との居残り練習が始まってすぐ、父親の厳しさに、どうにもならない辛さを感じていた時だった。

「それは、俺とダブルス組んで、オリンピックに出るためだろー」

「え?」

オリンピック?そんな先の長い話をするなんて思ってもいなかった。勇仁が、ニコッと笑う。

「俺のダブルスパートナー、涼しかいないと思ってるから」

キレイに整った顔を寄せてきたかと思うと、コツンと俺の額に自分の額をぶつけて、グリグリっとする。

「冗談?」

「いや、マジで。だから俺も頑張ってるし。練習、ハンパないけど」

そうなのだ。勇仁は部活のあと、毎晩大人たちの練習にも行っていて、水曜の夜には隣の市まで行って強化練習会にも参加し、月に一度はナショナルチームの練習にも参加している。小・中と日本代表選手として脚光も浴びていて、そのプレッシャーもあるだろうに、そんな勇仁に弱音を吐いてしまった俺は、少し恥ずかしくなった。

「一緒に行こうぜ、オリンピック。な?」

ギュッと抱き締められ、背中をポンポンと叩かれる。

「涼だって、日本代表としてずっとやってきてるんだから。才能あるんだし、自信持てよ」

「…うん」

勇仁の言葉で、俺の心はとても軽くなった。


勇仁から好きだと言われてから、三ヶ月が過ぎた頃、季節ももう秋の空に変わっていた。その日は雨で、外も薄暗くて、とても肌寒かった。

「寒くない?」

シャワーの後の勇仁が、いつものように俺の横に座って、俺の肩を抱く。

「大丈夫」

俺は勇仁の肩にもたれかかって、テレビを見ていた。不意に勇仁が言った。

「…キスしていい?」

俺はビックリして、思わず勇仁から離れ、勇仁の顔を凝視してしまった。

キスって、あのキス?ドラマとかでなら見たことあるけど、まさか自分がそんなことをする時が来るなんて、思ってもいなかった。

「イヤならいいんだ。変なこと言ってごめん」

抱き締められ、頭を撫でられる。勇仁の心臓の音が、早く、強く、鼓動を打っていた。かなりの勇気を出して言ってくれたのかな、と思ったら、胸のあたりが、ギュッと締め付けられるような感覚に襲われた。

「…いいよ」

「え?」

「キスしても、いいよ」

俺は勇仁を見上げた。

「無理しなくていいよ?」

勇仁が目を細めて、優しく微笑む。

「してないよ」

「涼…」

勇仁の顔が、今までにないくらいに近付いた。緊張して、心臓が爆発するんじゃないかと思うくらいだった。俺はギュッと固く目を閉じた。唇に、柔らかく、温かい感触。すぐに離れて「大丈夫?」と、聞かれる。俺は目を静かに開けると、小さくコクンと頷いて、勇仁の胸にしがみついた。勇仁がそんな俺の顔をそっと覗き込む。

「ヤバい。マジでカワイイ。俺、涼のこと、すげぇ好き」

そう言って、もう一度唇が重なった。今度は熱くて深い深いキスだった。

「俺、もっと涼とHなことしたい」

「Hなことって、女の子とするんじゃないの?」

尋ねる俺に

「男同士でも、できるよ」

と、耳元で囁く。

「だって、俺、やり方とか分かんないし」

「優しく教えるから」

背中に勇仁の手が滑り込む。

テレビの音が聞こえないくらいに激しい雨の音が部屋中に響き渡っていた。

ベッドへと引き込まれ、勇仁が俺へと覆いかぶさってきた。勇仁の息が耳にかかる。

何だろう。こんなのって、変なんじゃないかな。勇仁とこんなことして、親にバレたら怒られるんじゃないかな…。

そんな感情が沸き上がってきたけど、次の瞬間には、そんな考えも飛んでしまっていた。俺は勇仁の背中に両手を回し、必死でしがみついた。


「テスト期間中で明日練習ないし、今日、泊まって行けよ」

ベッドの中、勇仁が俺を優しく抱き締めながら言った。俺はまだ体の熱が抜けずにポヤッとしていた。

「痛かったか?」

「お腹が、少しだけ」

「お尻は?」

「…少しヒリヒリしてる」

「ごめんな。もっと優しくすれば良かったな。我慢できなくて…。涼は俺以外の奴と、こういうこと絶対にするなよ」

頭を撫でられる。

「うん」

そしてその夜、勇仁の家にお泊まりすることになった俺は、もう一度、勇仁とこういうことをしてしまったのだった。


勇仁が中学を卒業し、地元のバドミントン強豪高校に入学した。部活や強化練習がどんなに大変でも、遠征や試合でいない時以外は、必ず俺のために土曜日の夜だけは二人の時間を作ってくれた。俺も中学生になり、部活や強化練習などで忙しくなったせいで、勇仁と会っても、ただ疲れて一緒に寝落ちするだけの日もあった。日曜日、試合で朝が早い日がほとんどだったけど、それでも、ほんの少しだけだったとしても、勇仁との時間はとても心地の良い、幸せな時間だった。


そんな時を経て、勇仁は高校を卒業し、県外の実業団に入り、見事、オリンピックの代表選手に選ばれた。俺は、勇仁が卒業した、地元の強豪高校に入学した。勇仁が忙しくなり、会えない日々が続いていた。

まだ携帯を持たせてもらえない俺の自宅に、毎週土曜日の朝に必ず勇仁は電話をくれていた。勇仁のことはテレビや雑誌で知ることができたけど、それだけでは、やっぱり寂しかった。


勇仁が海外へと向かう前日に電話をくれた。

「会いたい」

言われて、受話器を持つ手にギュッと力がこもった。

俺だって、会いたい…。でも、素直に言えない。言ってしまったら、我慢ができなくなりそうで。

お互いに学生だった頃は、何も考えずに、ただ一緒にいられる事が当たり前で、こんなにも会えなくなるなんてこと、想像もしていなかったのに。

「好きな奴と一緒にいられなくて、こんな寂しい思いまでして、頑張る必要あんのかな…って思う時があるよ」

めずらしい、勇仁の弱音。

「もう三年もしたら、一緒にいられるようになるよ。俺、何のために高校総体優勝したと思ってるんだよ」

俺が言うと、電話の奥から、勇仁を呼ぶ声が聞こえた。

「お前、やっぱスゴイよ。一年生で優勝するなんて、マジでスゴすぎて、惚れ直す。涼、しばらく連絡できないけど、浮気するなよ」

「し、しないよ!」

「呼んでるから、行くよ」

「日本で応援してるから」

「お前のために、頑張ってくる」

「勇仁…」

「ん…?」

「す…好きだからな!」

初めて言ってしまった、自分の気持ちを。カアッと顔が赤くなるのが分かった。

「マジで元気出た。サンキュな、涼」

勇仁がクスクス笑って、そして電話が切れた。


テレビに映る勇仁は、俺といる時とはまるで別人で、いつになく真剣な表情に、俺はのめり込むように、見入ってしまった。世界中が注目するオリンピック。そんなオリンピックのバドミントン競技に、勇仁が出ているなんて、まるで夢のようだった。勇仁は決勝まで這い上がり、決勝では白熱した試合を見せてくれた。ファイナルまで持ち越したものの、あと一歩のところで失点し、結果は銀メダルだった。

それでも日本中は歓喜の渦に包まれて、俺にとっても喜ばしいことなのに、勇仁は容姿端麗で愛想がとても良いこともあって、人気がますます沸騰し、より忙しい日々を送ることになった。そのうちに、勇仁からの連絡が途絶え、勇仁は俺の手の届かない、遠い存在の人となってしまったのだった。


「おい、涼。勇仁って、この女優と付き合ってんのかな?」

学校で友人に見せられたネットニュースには、勇仁と有名女優がキスしている写真が載っていた。見出しには「熱愛デート」と書かれていた。カッ、と全身が熱くなる。

何で、俺…。もう勇仁のことなんて、吹っ切れたと思っていたのに…。どうしてこんな気持ちになるんだ。もう半年も連絡がない。高校に入ってしばらくして、やっとスマホを買ってもらって勇仁の携帯に電話したけど、番号が変わっていた。それがショックで、しばらく落ち込んでいたりもしたけど、ようやく気持ちの整理もついて、忘れることができたと思っていたのに…。

勇仁の熱愛報道を見るのがイヤで、それからしばらくテレビを見ないで過ごしている自分に、すごく嫌気がさしてきてしまい、どんどん心が疲れてきてしまっていた。

バドミントンも辞めてしまおうか。どんなに頑張っていたって、勇仁が必要としてくれないなら、意味がない。俺は部屋で一人、ベッドにぶっ潰して、溢れそうになる涙を必死で堪えた。


その週の日曜日、テスト期間中で部活が休みだった俺は、友達と一緒にテスト勉強をしようと言いながらも、勉強も手につかず、ボーッと過ごしていた。

「おい、涼。ちょっと息抜きに、してもいいか?」

友人の畑中が急に立ち上がった。

「え?また?本当によく飽きないな。今日、何回目だよ」

「いいじゃん。減るもんじゃないし。な?」

「…分かったよ」

俺と畑中は勉強を中断し、隣の部屋へと向かった。

「エアコンは?」

「あ、暑くなったら付けるから、そのままでいい」

「分かった」

畑中は、そこにある器具の一つに座ると、トレーニングを始めた。

「お前んち、本当に羨ましいよ。こんなふうにトレーニングルームが完備してある家なんて、なかなかないぞ」

畑中が楽しそうにトレーニングを始める。

「俺には牢獄みたいな部屋だけどな。親父に無理にやらされてる感がハンパない」

「お前、細いし、筋肉付けとかないとスタミナが持たないからだろ?」

俺は小さなため息を吐くと「終わったら、呼んで」と言って、トレーニング部屋の扉を閉じた。

部屋に戻ると、勉強する気も起きず、ベッドに横たわり大きくため息を吐いた。

「俺、何のためにバド頑張ってんだろ。これじゃ、単なる親父の人形だよな…」

筋肉と体力を付けるためにと、設備の整ったトレーニングルームまで自宅に作られて、親父の決めたメニューをこなす日々。

そこに入ってくる、部活以外の尋常じゃないほどの練習量。それなのに、学校の成績を落とすことも許されない。期待がプレッシャーになり、息が詰まりそうだった。

こんな時、勇仁がいてくれたら…。そう考えて、胸が苦しくなった。

それでも、疲れていたのか、少しうとうとしかけた時、突然家のインターホンが鳴った。

両親は弟のバドミントンの試合に出かけていて、家に誰もいなくて、俺はしぶしぶ玄関に出た。

玄関の扉を開けた途端、強引に玄関に入ってきて扉を閉じ、俺を勢いよく抱き締めたのは、勇仁だった。

「連絡できなくてごめん。スマホ壊れて。忙しくて他の奴に新しいの買ってきてもらったら、番号変えてきて。データ移行する時間もなかったみたいで、お前の家の番号も分かんなくなって。会いたかった、涼」

そう言って、俺を抱き締める腕に力がこもる。懐かしい勇仁の胸の中。すがりついてしまいそうだった。

「ゆ…勇仁。女優の彼女いるくせに、そんなこと言っていいの?」

もしかして、まだ俺のこと好きなのかも、って期待する。

「あれは違うんだ。あの女優、かなり酔ってて、もたれかかってきた所を支えようとしたら急にキスしてきやがって。そしたら、写真撮られて…」

言い訳をする勇仁の言葉と動きが、一瞬止まった。

「涼、何か飲み物ない?汗かいたら、喉乾いちゃって」

上半身裸で、ハーフパンツ姿の畑中が階段を降りてきた。俺は慌てて腕を突っぱねて、勇仁を胸から引き剥がした。

「バカ、お前。服ぐらい来てこいよ」

畑中に注意する。

「だって、暑くて。お前は暑くないのか?」

「俺は別に。ベッドで横になってただけだから」

畑中が勇仁に気付く。

「え?うそ!?折田勇仁じゃね?」

その声に答えることなく、勇仁が低い声で「ふぅん。そういうことか。俺を信じて待ってくれてるって、そう思ってた俺がバカだったんだな。よく分かったよ。涼だけは…涼のことだけは、信じてたのに」

勇仁が黙ってドアを開け、外へと出て行った。

「え…?」

まさか。何か誤解した…?

俺は慌てて勇仁のあとを追いかけた。

「待って、勇仁!」

勇仁の、足早に歩く足は止まらなかった。俺は必死に走って、勇仁の腕を掴んだ。

「離せよ」

「何か誤解してるだろ?アイツはただの友達で…」

「今の今までHしてたのに?ウソ言うなよ」

「ウソじゃないよ」

「いくら鈍感なヤツでも、あんな場面に出くわしたら、そうとしか考えねぇだろ」

「畑中は、家にあるトレーニングルームを使ってただけだけで…本当にそんなんじゃない」

「じゃあ、お前のその乱れた髪とボタンの外れたシャツはどう説明するんだよ」

俺は慌てて髪に手をやった。

「俺、本当に自分の部屋のベッドでウトウトしてて。ちょっと暑くて、シャツのボタンも自分で外した」

「どーだか」

「勇仁!」

「寝てる間に、何かされたんじゃねぇの?」

「畑中はそんなヤツじゃない。だいだい何だよ!俺だって勇仁に電話したのに番号変わってて、半年間もほっとかれた挙げ句、女優とのキスしてる写真と熱愛報道見せられて。俺がどんな気持ちでいたと思って…」

「で、当て付けにアイツと関係持ったって?それが言い訳になるとでも思ってんのか?」

「だから!畑中とは何もないって言ってるだろ!」

「もういい!」

勇仁が俺の腕を振り払った。そして「もう分かったから。お前が望むなら、いつだって別れてやるよ。あさってまでは、こっちにいるから。それまでに答えを出せ」

そう言うと、勇仁は俺に背を向け、また足早に歩き出したのだった。


「あの、分からず屋!」

俺は家に帰ると、思いっ切り枕を壁に投げつけた。畑中は、俺の機嫌が悪いことを悟ったのか、早々と自宅へと帰ってしまった。

「自分のした事を棚に上げといて、俺ばっかり責めやがって!一人で勝手に誤解して、一人で勝手に怒って、ふざけんなっつーの!!」

思えば、勇仁とケンカするのは、これが初めてのことだった。勇仁は、どんな時でも俺を優しく包み込んでくれていた。俺がどんなにワガママを言っても、怒っても、辛くても、機嫌を損ねていても、文句ひとつ言わずに、ずっとそばで見守ってくれていた。

今だって、わざわざここまで会いに来て、ちゃんと謝りに来てくれたのに…。

「分かってないのは、俺の方だよ…。勇仁は、いつだって俺のために一生懸命になってくれてるのに…」

俺は片手に上着を引っ提げると、急いで勇仁の家へと走り出した。


勇仁の家に着くと、家には勇仁しかいなかった。無言のまま、部屋には上げてくれたが、まだ機嫌が悪そうだった。

久しぶりの勇仁の部屋。ベッドとテレビ、そして勇仁が持って帰ってきたと思われる荷物が置いてあるだけだった。

「いつ、戻るの?」

静かに聞くと

「あさっての朝」

と、目を見ずに答える。

「そっか。本当に三日間しかいられないんだね。またすぐに世界大会始まるしね」

勇仁は何も答えなかった。

勇仁は、海外の大会に出ずっぱりで、ほとんど日本にはいない。世界ランキング一位という座をずっと守り続けている。今までにない選手と崇められ、テレビやネットニュースで見ない日が、ないくらいだった。

「あのさ…。俺、他の人とキスしてる勇仁なんて、見たくなかった。あの写真が本当にショックで、しばらく立ち直れなくて…」

「だから、あれは違うって言ってるだろ。あのあと、俺、本気でブチ切れて、あの女優「酔った勢いの浅はかな行動だった」って、事務所を通じて謝罪してきたし。訂正の記事もちゃんと載せてもらったの、見てないのか?しかも、二人きりで会ってたワケじゃないし」

勇仁がムスッとする。

「俺、そんなこと知らなかったし。それに、勇仁と連絡が取れなくなった半年間、本当に苦しんでた」

「で?だからお前の浮気を許せっていうのか?」

「そうじゃない。確かに、勇仁を諦めるためには、他の人と恋愛するしかないのかな、って思った時もあったけど、だけど、俺は未だに勇仁しか知らない。キスだって、勇仁としか、したことなくて…。俺、勇仁とじゃないと…」

言って、涙が出そうになって声が震える。もう、どう信じてもらったらいいのか、分からなかった。

「勇仁は、俺が別れたいって言ったら、本気で別れるつもりなの?俺と別れても平気なの?」

「お前が別れたいって言うなら、別れるしかないと思ってる」

「もう俺のこと、好きじゃなくなったってこと…?」

勇仁が、俺に背を向けたまま、頭を掻く。

「あーっ!もう!!」

そう言うと、俺のことを思いっ切り引き寄せて抱き締めた。痛いくらいに、力がこもる。

「勇仁…苦し…」

「お前は小六の時から俺の恋人なんだぞ。俺がどれだけお前を好きか、まだ分からないのか?」

言って、息が出来ないくらい、俺を強く強く抱き締める。

「お前だけが俺の支えなのに、その軸がブレてどうすんだよ!お前の声が聞けないだけで、俺は練習にも身が入らないんだぞ?」

「うん。もう、ブレないよ。何があっても勇仁のこと信じる。誤解させるようなことして、ごめん」

「もういいよ。俺のほうこそ言い過ぎた。頭に血が上って…。傷付けてごめんな」

勇仁が俺を見つめる。

「涼。口直し、してくれる?」

「え?」

「あの女にされたキス、涼からのキスで忘れさせて欲しい」

「え!俺から?」

今まで、自分からキスをしたことなんてなかった俺は、動揺を隠しきれずに、勇仁から目を背けてしまった。

「口直し、しなくていいのか?」

勇仁が、いたずらっぽく俺に言ってくる。

確かに、あの女優とキスしたままの唇で過ごしている勇仁のことは、すごくイヤだ。

俺は意を決して、勇仁の両腕を掴むと、背伸びをして、俺よりも頭ひとつ分ほど背の高い勇仁に、軽い触れるだけのキスをした。

「もう一回」

「え?む、無理だよ。今のも、かなり勇気出してしたんだからな」

照れて、ついうつむいてしまう。

そんな俺の顔を勇仁が覗きこんだかと思うと、一気に唇を奪われる。

だめだ。俺、いつからこんなに勇仁のこと好きになってたんだろう…。

もう、気持ちが溢れて止まらないぐらいに、勇仁を求めてしまう。数え切れないくらいHもしてるのに、一瞬のキスだけで、全身が甘く疼く。

「勇仁…」

激しいキスの合間に名前を呼ぶ。

「何…?」

優しく尋ねてくれる勇仁にギュッと抱き付く。

「好きだよ」

「…俺も。大好き」

キスが深くなり、そのままベッドへと二人で倒れ込む。

「涼があまりにもキレイになっててビックリした。どうしようもないくらいに好きでたまらない」

愛撫の合間に降り注ぐ、優しく甘い言葉。

「こっちもずいぶん成長したな…」

スルリと、ズボンの中に手が忍び込む。

「ちょっ…」

「もう我慢できないんだ、涼」

会えなかった時間を埋めるかのように、激しいキスを交わしながら、俺たちはベッドの上でお互いの肌を重ね合わせた。


なかなか会えない時間が続き、一年のほとんどを海外で過ごす勇仁と、お互いを信じ合いながら恋人の関係を続けてきた俺は、高校を卒業と同時に、勇仁と同じ実業団に入ってバドミントンを続ける決意をした。でも、そこでの現実はそんなに甘くなかった。

勇仁は日本が誇るシングルプレーヤーで、俺とダブルスを組みたいと懇願したところで、叶うはずがなかった。

俺もシングルプレーヤーとして入団はしたものの、背も低く、体の線も細く小柄なこともあり、ダブルスの練習に力が入ることが多くなった。

「よろしくお願いします。田村一心です」

ダブルスを組む相手として選ばれたのは、世界ランキング五位の選手だった。

「折田さんとの先ほどのシングルスの試合、見せてもらいました。対等に試合が出来るなんて、すごいですね。折田さんがファイナルまでいく試合、大会以外で初めて見ましたよ。金沢さん、瞬発力がある上にレシーブ力も高いし、折田さんのスマッシュをクロスで前に落とすなんて、本当になかなか出来ませんよ。息を呑むような試合でした」

溢れ出す汗をタオルで拭っているところにやってきた、新しいパートナー。さすが、良く見てる…。

「俺とだったら、オリンピックで金も狙えます。一緒に頑張りましょう」

手を差し出される。

「はい。よろしくお願いします」

俺がその手を握り返した途端、いつ来たのか、俺たちの手を引き離す勇仁。

「ちょっと!勇仁…」

「涼。少し練習に付き合え。他の奴じゃ、俺のスマッシュを返せないんだ」

勇仁が俺の手を引いて歩いて行く。

「田村さん、すみません。またあとで」

俺が言うと、田村さんが軽く頭を下げた。

「勇仁、どこ行くの?」

練習に付き合えと言っていたのに、体育館を出て行く。そこでグッと頭を引き寄せられ、突然のキス。

「んうっ…」

俺は思いっ切り勇仁を突き飛ばした。

「誰かに見られたらどうするんだよ!」

「涼が誰かに触られてるのを見るだけで、どうしようもない気持ちになる」

「単なる握手だろ?」

「さっき、他の奴が肩に手を回してた」

「勇仁との試合を褒めてくれてただけだよ」

「ダブルスを組むってことは、大会の間中、アイツと同じ部屋に泊まるってことなんだぞ?」

「そんなこと分かってるよ」

「だったら、何でシングルで推さないんだよ」

「シングルスでやったところで、勇仁に勝てる日が来るとは思えないし、監督やコーチもそれを分かってて俺をダブルスの選手として起用したことぐらい、勇仁にだって理解できることなんじゃないの?ダブルスでもオリンピックで金を獲得するには、これが一番の得策だから、って、ちゃんと説明も受けたし」

「でも、これから世界中の大会に行く度に、お前のカワイイ寝顔や、シャワー後の艶っぽい姿をアイツに見られるとか、俺は耐えられない」

「それは勇仁だけが思っていることで、普通の人が俺の寝顔を見ようがシャワー後の姿を見ようが、何とも思わないよ。心配しすぎだよ」

「お前は自分が思っている以上にカワイイし綺麗なんだぞ?気付いてないだけで、狙ってるヤツなんていっぱいいる。ましてや、最近、テレビで特集されたりして、ファンも増えてるし」

「それでも、勇仁の人気には全く及ばないよ。俺のこと狙ってるヤツなんていないから、変な心配してないで、ちゃんと自分の練習に集中しなよ」

俺は勇仁の胸を軽く拳で小突いて、先に体育館へと戻った。しばらくして、重い足取りで勇仁が体育館へと戻って来た。

そんな勇仁に、同じチームの女子選手が声を掛ける。その瞬間、楽しそうに笑う勇仁。俺の胸が、ざわつく。俺だって、心配だよ。勇仁の周りに寄り付く女性の選手やたくさんのファン。中には俺よりも華奢で色白の、とても綺麗な顔立ちをした男の選手だっている。

「めちゃくちゃ勇仁のタイプっぽいな、あの、矢嶋って選手…」

つい、誰にも聞こえないように、声に出して言ってしまった。

勇仁の嫉妬は嬉しい。そして、それを正直に口に出せる勇仁も羨ましい。俺だって、かなり嫉妬してる。あんなに楽しそうに俺以外の人と話さないで欲しい。あの優しい笑顔を俺だけに見せていて欲しい。いつもそう思っているのに、俺はそれを口に出すことが出来なかった。

「はぁ…」

勇仁を偉そうになだめておきながら、勇仁のことを目で追って、勇仁のことばかり気にして考えている自分がイヤになる。

「俺だって、勇仁とダブルス組みたいよ」

ポツリと呟いた。

でも、日本人で唯一シングルスで世界選手権で金メダルを獲得できた勇仁を監督が絶対に手放すワケがないことも分かっていた。

「あ~、モヤモヤする」

コートの横に座り込みながら、思わず口に出していた。そこに、

「金沢さん」

不意に声を掛けられ、ハッとする。

「あ、すみません」

田村さんだった。

「監督が、試合に入れって」

「分かりました」

「初試合なんで、様子見ですね。どちらが前衛、後衛に向いているとか、少しずつ模索して行きましょう」

「はい。よろしくお願いします」

俺は立ち上がり、ラケットをしっかりと手に握りしめると、コートへと入った。


「キツすぎる…」

練習が終わって、寮の部屋に戻ると俺はすぐさまベッドへと倒れ込んだ。そりゃ、世界レベルの人たちが集まるチームの練習なんだから、キツいに決まってるよな。世界大会が一段落ついて、日本に帰省してきた代表選手たちと練習するのは、俺が実業団に入団してから、今日が初めてだった。


それにしても、あの田村って選手、めちゃくちゃスゴい。世界ランキング五位って…。そんな人と組ませてもらって、本当にいいのかな。シングルスで世界ランキング五位まで登り詰めた功績を失くすことになるのに、田村さんは俺とダブルスを組むことにOKを出した。よっぽどの覚悟だったに違いない。それに、俺よりも何年も前にこの実業団に入って、毎日のようにこんなハードな練習をこなしてる人たちもいるのに、なかなか試合に出させてもらえなかったり。俺も、本当に大丈夫なのかな…と不安になる。

「実力社会だからな」

いつか、勇仁が言ってたっけ。年数じゃなくて、強く試合に勝てる人が選ばれるって…。内部戦で勝ち上がらなきゃ。シングルスからダブルスに転身してくれた田村さんに迷惑をかけるワケにはいかないから。

そこに、扉にノックの音。

「はい」

「涼、入っていいか?」

勇仁の声だった。あんなハードな練習のあとなのに、まだ俺の部屋に来る元気があるんだ、と感心してしまう。

「どうぞ。鍵開いてるから」

扉が開き、勇仁が入って来る。

「鍵ぐらい掛けとけよ。不用心だな。誰か襲いに来たらどうするんだ?」

扉を閉めて、鍵を掛ける。

「勇仁以外、誰も襲いに来ないよ」

枕に顔を埋めたまま、答える。

「大丈夫か?今日の練習、結構ハードだっただろ?」

「キツい。やっぱりオリンピック代表選手たちとの練習はレベルが違うね」

「夕飯までゆっくり休めよ。風呂は?」

「まだ」

「何時頃に行く?」

「分かんない。練習後にシャワーしてきたから、夕飯のあとに入るかも」

「そっか」

「何で?」

「いや、なるべく誰もいない時間に入ってほしくて。お前の裸、誰にも見られたくないし。今日、田村とダブルス組むこと決まって、風呂に入ってる時にいろいろ聞いて来る奴らがいるかもしれないから」

勇仁が俺のベッドに腰かけて、頭を撫でてくれる。

「大丈夫だよ。湯船に入ってる時はそんなに見えないし、体を洗う時はタオルで隠してるから」

「でも…」

心配そうな勇仁の顔。本当に愛おしい。

「じゃあ、一緒の時間に行く?」

「いいのか?襲うかもしれないぞ」

嬉そうに目が輝く。一応、勇仁なりに俺に遠慮してくれていたんだと思うと、なおさら愛おしくなる。

「襲われるのは困るけど、一緒に入るのは全然イヤじゃないよ」

「ヤバい。そんな事言われたら、嬉しすぎてニヤける」

勇仁が片手で口元を覆う。嬉しくて仕方ないといった表情で俺を見る。頬がほころんでいた。

「疲れてるだろうから、キスだけ、していい?」

「うん…」

優しい口付け。

「涼、愛してる。今日、久しぶりに会えて、すげぇ嬉しかった」

「うん。俺も」

昨夜、日本に久しぶりに帰国してきた勇仁。またすぐに海外で行われる試合に出発してしまう。だからこそ、少しでも一緒にいる時間を大事にしたい。

深く唇が重なる。懐かしい、勇仁の甘い香り。オリンピック日本代表で全国民に知られているであろう勇仁を独り占めできるのは、恋人である俺だけの特権。俺は勇仁の手を握ったまま、夕飯の時間まで眠ってしまったのだった。


午前中は仕事をして、午後からは夜遅くまでみっちり練習に明け暮れる毎日だった。田村さんとのダブルスも、少しずつではあるけれど、息が合うようになってきていた。

「とりあえず、全国で優勝からですね」

田村さんの言葉に、俺は大きく頷いた。

田村さんの実力のおかげもあり、俺たちは順調に世界大会へ出場の切符を手に入れた。


韓国での国際大会でのことだった。勇仁はもちろんシングルスで決勝に残り、翌々日に決勝戦を控えていた。その前日から、ダブルスの試合が始まった。初めての、一般部門でのダブルスでの世界大会。マスコミにも特集されるくらい、俺たちの試合も、勇仁と同等なほど、期待を集めていた。それなのに…。


「一回戦、敗退か。想定外だったな。中学でも高校でも、世界大会で金沢は毎年シングルスで優勝してたから、期待も大きかった分、残念だったな」

「金沢のミスがあまりにも多かった。らしくない試合をしてた。さすがの田村でも、サポートしきれなかったな。試合の流れが崩れ出すと持ち直せないところは改善しないとな。まあ、初めてダブルスでの世界大会で、プレッシャーもあって緊張もしただろ。シングルスからダブルスに転身しての初めての大会だと、なかなかシングルスのコートの感覚のクセも抜けないのかもしれないな。これからだな」

監督とコーチがため息交じりに、今後の指導について話合っていた。そこに

「監督、話があるんですけど」

と、勇仁が現れた。


「もう泣かなくていい」

「ごめんなさい」

「もう謝らなくていいから」

「だって、世界ランキング五位の座を捨ててまで俺とダブルス組んでくれたのに…」

「俺が決めたことだし、金沢が責任を感じることじゃない、ってさっきから何度も言ってるだろ」

「でも…」

ツインルームで、田村さんと話してる時だった。部屋にノックの音がした。

「はい」

田村さんが返事をして、ドアの所まで歩いて行く。

「あ、俺。折田だけど…」

「折田さん?」

「涼、いるか?」

「いますけど…」

田村さんが俺を見る。俺は首を横に振った。今は勇仁に合わせる顔がない。

「すみません。今、ちょっと取り込み中で」

田村さんが言うと、

「涼に会いたいんだ。頼む」

勇仁が言う。

「どうする?」

田村さんが、俺に静かに問う。

「ごめんなさい。今は会いたくない」

俺が言うと、

「今は、会いたくないそうです」

田村さんが代弁してくれる。

「涼。一回話そう」

それでも引き下がらない勇仁。田村さんが扉を開けて、部屋の外へ出た。

「折田さん。今は金沢のことそっとしておいて下さい。俺がちゃんとフォローしておきますから」

「涼は、大丈夫か?」

「とにかく、自分を責めてます。俺にダブルスへ転身させたことも何回も謝るし。試合後から、ずっと泣いて謝ってばかりいます」

「泣いてるのか?」

「はい。だから、今はそっとしておいてもらえますか?金沢の気持ちが落ち着くまで」

「でも、涼には俺がいないと」

「折田さんに会いたくないと、本人が言ってるんです。とりあえず、今日は部屋に戻って下さい。これは、俺と金沢の問題なんで」

「田村」

「はい」

「涼とは長い付き合いだけど、俺の前で泣いたことなんて一度もないんだ」

「今まで初戦敗退なんてしたことなかったでしょうし、よっぽど悔しかったんだと思います。折田さんは今まで試合に負けることなんてほとんどなくて、悔しさとか、そういうの、あまり分からないと思いますけど」

「嫌味か?」

「いえ。ただ本当に実力がある上に、センスも才能もあるんだな、と純粋に思ってるだけです。言い訳になるかもしれませんが、今回は俺も金沢も大きな大会のダブルスの試合に慣れてなかったのも負けた原因かな、と思ってます」

「田村。涼のことは、今日は任せる。ただ、涼に変なことしたら、許さないからな」

「変なこと?」

「抱きしめて慰めるとか、頭を撫でるとか、とにかく涼には指一本触れるな」

「子供相手じゃあるまいし、しませんよ、そんなこと。折田さんにとって、金沢は、いつまでもカワイイ我が子のような存在なんですね」

田村が呆れたように言うと、勇仁は安堵したように息を吐いた。

「涼のこと、頼むな」

勇仁は、そう言い残すと自分の部屋へと向かって歩き出した。

田村は、勇仁の姿が見えなくなったところで部屋に入ろうとしたが、扉が開かなかった。

「しまった。オートロック!」

ガチャガチャとドアノブを激しく動かしながら「金沢!聞こえてるか?鍵が掛かってる!開けてくれ!」と、廊下に叫び声が響いた。

田村さんの声が聞こえて、俺はすぐに扉を開けに行った。

「あ、サンキュ。ありがとな。いや、マジで焦った」

田村さんが、部屋へと戻る。

俺は思わず吹き出してしまった。

「え?何?」

田村さんが、不思議そうにこちらを見た。

「いえ。いつもポーカーフェイスで、試合中でも冷静な田村さんが焦ってるところ、初めて見たんで」

俺が笑いながら言うと、

「そりゃ、部屋を閉め出されたら、誰だって焦るだろ。しかも海外のホテルで、室内用のスリッパだぞ」

言う田村さんが、足を上げてスリッパを見せる。

俺は、また吹き出してしまった。

そんな俺を見て、田村さんが少し微笑んだ。

「良かった」

「え?」

「金沢が笑ってくれて」

そう言って、肩にポンと手を置かれる。

「田村さん」

「次、頑張ろうな」

田村さんが、優しく微笑む。初めて見せる、田村さんらしくない態度に少し戸惑いながらも、

「はい。次こそは、絶対に優勝します」

と、俺は力強く答えた。

「そういえば、金沢って、折田さんとは小学校の時からの付き合いなんだろ?」

「あ、はい。クラブチームが一緒だったんで」

「折田さん、金沢が泣いたところを一度も見たことない、って、さっき言ってたけど…」

「…そうですね。勇仁には、俺のことで心配させたくないって思ってたのもありますけど、いつも泣く前に、必ず元気の出る言葉をくれて、すぐに笑顔になれたので…」

「へぇ、そっか。じゃあ、折田さんは、金沢のこと何でも知ってるんだな」

「何でも、ってワケじゃ…。長く離れてた期間もありますし。それに、実は俺、試合で負けたことがほとんどなくて…。こんな悔しい思いしたのも初めてで…。すみません」

「なるほどね。そういうことか。折田さんと二人して、幸せなバド生活だったんだな。まあ、それだけの実力を付けるために、想像を絶するような練習と努力はしてきたんだろうけど」

「はい…。何回も辞めたい、って思いました」

田村さんが、俺に近付く。そして、俺の手首をそっと握った。

「こんな華奢な体で、折田さんと互角の試合するんだもんな。金沢は、本当にすごいよ。実業団に入ってすぐに試合に出るなんて、普通は無理だからな」

握る手を離そうとしない。

「あの…」

田村さんの目を見ると、真剣な眼差しで俺を見ていた。

「俺とのダブルス、プレッシャーになってたんだろ?俺がシングルスから転身したことに責任を感じすぎて、勝つ事にこだわりすぎてたんだよな?だから、いつものように動けなかったんじゃないのか?」

図星をつかれ、一瞬、体が強張った。

「すみません。考えないようにはしてたんですけど、申し訳なくて。田村さんのために、絶対に勝たなきゃ、って…。そしたら、思うように体が動かなくて…」

「そんなこと、もう二度と考えなくていい」

「でも…」

「もし、相手が折田さんだったら、どうだった?」

「え?」

「ダブルスを組む相手が、折田さんだったとしたら、勝ててたと思うか?」

「それは、分かりません。勇仁とダブルスを組んで試合に出たことがないので…」

「そういうことじゃなくて。折田さんとは、信頼関係が深い分、勝つことだけを考えていたとしても、緊張せずに試合に挑めてたと思うか?」

田村さんの質問の意図が分からずに、俺は黙り込んだ。

そのまま腕を引かれ、突然、田村さんが俺を自分の胸へと引き寄せ、抱き締めた。あまりにも驚きすぎて、身動きが取れずにいた。

「こんな細い体で、よく頑張ってるよ、本当に」

田村さんは、背が高くて肩幅も広く、俺は、その胸にすっぽりと包み込まれていた。

「これからは、俺がサポートするから。だから、ここで諦めずに、一緒に頑張って行こうな」

俺を抱き締める腕に、力がこもる。

え?これって、ちょっとヤバくない?

いや、でも田村さんは紳士だし、無理にそういうことする人じゃ…

「金沢。一つ提案があるんだ」

「はい…」

「俺たち、今晩、寝ないか?」

耳元で囁かれ、耳を疑った。

「寝るって、同じベッドで、ですか?さすがにそれは狭くないですか?子供じゃないんですから」

俺は、気付かないフリをして、必死で誤魔化した。

「そういうことじゃない。信頼関係を築くのには、一番手っ取り早い方法だと思うんだ。お互いをより知るのに、俺は金沢と体の関係を持ちたい」

そのまま、ベッドへと押し倒される。

「田村さん!それは違うと思います。そんなことしたら、余計に気まずくなるだけで、少なくても俺は…もう田村さんとは一緒にはいられなくなると思うんです」

力では敵わないと分かっていた俺は、必死に田村さんを言葉でなだめた。

「金沢…」

田村さんが少し体を起こし、目を細め、俺を見つめる。

「キスしても、いいか?」

「ダメです!お願いします、やめて下さい!関係を持ったからといって、試合に勝てるとは限りません!」

俺は即答し、そして、強い口調で田村さんに抵抗した。

「…そうだよな。ごめん。それに、そんなことしたら、折田さんにも、怒られるよな」

体をゆっくり起こし、俺から離れる田村さんの突然のセリフに、

「勇仁が…?何で…?」

動揺が隠せずに、思わず尋ねた。

まさか、俺たちの仲を知ってる…?

「さっき、涼に指一本触れるなって、釘をさしてったから。嫁に出す前の娘みたいにカワイイんだろうな、と思って」

勇仁が、そんなことを…?

田村さんが、ベッドに腰掛ける。

「金沢。折田さんのところに行ってこいよ」

「え?」

「きっと試合で負けてもあんな顔しない」

「勇仁、そんなにひどい顔してました?」

「泣き腫らした金沢より、ひどい顔してた。あの様子じゃ、明日の決勝戦、負けるかもな」

俺はすぐにベッドから起き上がり、部屋を出ようとした。

「部屋の鍵、持って行けよ」

田村さんが、冷静に声を掛けてくれた。


LINEで届いていた部屋番号の扉をノックする。しばらくして「はい」と勇仁の声がした。

「勇仁?俺。涼だけど…」

言うか言わないかのうちに扉が勢いよく開き、腕を引かれる。そのまますぐに抱き締められ、そして唇を塞がれた。激しい息遣いと、舌が絡み合ういやらしい音だけが部屋の中に響き渡っていた。

「勇仁、ダメだよ。明日、大事な試合でしょ?」

キスの合間に、勇仁の欲望を抑えようと、必死でなだめる。

「ふざけんな。俺がどんな気持ちで、一人でこの部屋にいたと思ってるんだよ」

ベッドへと、もつれ合いながら、倒れ込む。

「ごめん。一回戦敗退なんて、情けなくて合わせる顔がなかった」

「何のために俺がいるんだ?落ち込んでる涼を俺が励ましたかった」

Tシャツをまくり上げられ、あらわになった俺の素肌に勇仁の舌が這う。

「やだっ…勇仁」

執拗に唇と舌で愛撫され、下半身が疼き出す。

「俺を傷付けた罰、ちゃんと受けてもらうからな。田村なんかに、俺も見たことない泣き顔を見せやがって。覚悟しとけよ」

そう言いながら、ハーフパンツと下着を一気に脱がされ、俺たちは重なり合いながら布団の中へと潜り込んだのだった。


「朝帰りか?」

部屋に戻ると田村さんはもう起きていた。

「すみません。話してるうちに、つい眠ってしまったみたいで」

「いいよ、別に」

「あの…。どうして勇仁の部屋に行くように言ってくれたんですか?」

その言葉がなかったら、きっと俺はあのままこの部屋にいただろう。俺が尋ねると、田村さんは荷物を整理しながら静かに話し始めた。

「何年か前に、折田さんの携帯が壊れて。俺が代わりに購入してきたんだけど、新しいのでいいって言うから、機種変だと思わなくて、番号を変えてきてしまったんだ。折田さん、すぐに海外での大会控えてたから、データの移行もできなくて。その時に、めずらしく、めちゃくちゃ調子崩して、練習にも身が入ってないし、練習試合もことごとく負けるしで…」

もしかして、あの連絡の取れていなかった、半年間のことだろうか?勇仁が、そこまでの状態だったなんて。初めて知らされた真実。あの時、落ち込んで悩んでたのは、俺だけじゃなかったんだ。

「折田さん、監督にもめちゃくちゃ怒られてて。そしたら、今度の大会、絶対に優勝するから、その時は三日間休みをくれ、って言ったんだ。そんなふうに調子の悪い時期だったし、その当時の世界ランキング一位の選手とも対戦することになるし、誰も期待してなかったけど、折田さん、本当にその試合、優勝して」

知らなかった。そんなことがあったんだ。

「どうして、そこまで必死になるんですか?って聞いたら、好きな奴に会いたいから、って」

田村さんが、俺を見る。

「折田さんにそこまでさせてるの、金沢だよな?」

俺は否定も肯定もせず、黙って俯いた。

「キスマーク、見えてるぞ」

田村さんに言われて、思わず首もとをバッと両手で隠してしまった。

「嘘だよ」

田村さんが、笑う。

俺は真っ赤になった。

「あの、このこと誰にも内緒でお願いします」

「そうだな。俺にキスしてくれたら、黙っててもいいかな」

「え…?」

田村さんが、俺の目を見つめる。

「好きなんだ、俺も。金沢のこのことが」

「嘘…ですよね?」

「嘘じゃない」

「だって、そんなこと…。俺、男だし」

「関係ないよ。折田さんとの試合を目の当たりにして、一気に惹き付けられたんだ。昨日も歯止めが利かなくなりそうだった。だから、折田さんの部屋に行くように促した」

ポーカーフェイスで、淡々とすごいことを言う田村さんに、俺の思考回路が付いていかなかった。

「昨日の俺たちの試合のあと、折田さん、監督とケンカしたって聞いたか?」

「いえ。知りません」

「金沢とダブルスを組ませてくれないなら、今日の試合で引退するって話したらしい」

「え?本当ですか?」

「本当だよ。もともと実業団に入る条件として、シングルスとしてやるのは、金沢が入団してくるまでって約束だったみたいだしな」

「そうだったんですね」

勇仁はいつも肝心なところは教えてくれない。

「でも、俺もそれで良かったと思ってる」

「どうしてですか?」

「これ以上同じ部屋にいると、いつか金沢のことを襲ってしまいそうだから…」

「田村さん…」

「金沢」

近付いて、両腕を掴まれる。そして、額に優しく唇を押し当てられた。

「短い間だったけど、ダブルスが組めて嬉しかった。ありがとう」

「こちらこそ…。ありがとうございました」

「折田さんから、昨日の夜中に部屋に電話があったんだ。シングルプレイヤーとして、世界一になってくれ。お前ならできる、って」

「勇仁が…?」

俺が眠ってる時に連絡をしたのだろうか。全然、気付かなかった。

「嘘でも嬉しかった」

「勇仁は嘘なんかつきません。本当に田村さんに期待できないなら、俺と組みたいという理由だけで、ダブルスに転身なんてしないと思います」

俺が言うと、

「やっぱり、金沢って最高だな。ライバルが折田さんじゃなかったら、本当に無理にでも関係を持って手に入れてたよ」

と、田村さんが、過激な発言をして微笑んだ。


翌日の試合で、勇仁は優勝した。

昨日の夜、あんなに激しく愛し合ったのに、勇仁はその疲れを微塵も感じさせずに、軽々と身をこなし、ストレート勝ちを決めた。俺の心は、ますます勇仁に惹かれた。俺も世界大会には何度も出場して、優勝を勝ち取ってはいたけれど、実業団に入ってからの世界での初舞台では、プレッシャーで思うようにプレーが出来なかった。なのに勇仁は、シングルスという、たった一人で戦う辛い状況の中、プレッシャーに負けることなく、試合に勝ち続けている。

そんな勇仁の芯の強さが俺に勇気をくれる。勇仁の存在こそが、いつも俺の活力になっていた。


その試合を最後に、勇仁はシングルスプレイヤーとしてではなく、俺とダブルスを組んで試合に出ることを発表した。

その経緯に至るまでには、相当な数の問題もあり、監督からも勇仁を説得するように頼まれる始末で、一度だけ、勇仁と話し合った。


シングルスからダブルスへの変更は、アウトとインのコートの線も違ってくるし、俺はまだ最近まで高校時代にダブルスの試合にも出ていたこともあり、そこまで苦労はしなかったが、4年以上シングルスでしか試合に出ていない勇仁にとっては、慣れるまでにかなりの労力が必要だと感じたのと、何よりも、今現在、世界大会や国際大会で毎回優勝できる実力がある勇仁なら、次回のオリンピックで金メダルを獲得できる可能性が高いのだ。そして、世界ランキング一位という座を2年以上守り続けている。国民の期待もかなり大きなものとなっていた。


「涼と二人でダブルスを組んでオリンピックに出るのがずっと俺の夢だった。世間や監督のために、その夢を諦めろって言うのか?じゃあ、俺は何のためにバドミントンをやってるんだ?」

「勇仁…」

「俺は自分のためにバドミントンをしてるんだ。周りの意見なんて関係ない。ずっと夢だったことを叶えられないなら、バドミントンをやってる意味なんてない。金メダルだって、涼と一緒に勝ち獲れないなら、そんなもの、いらない」

「勇仁!」

「俺はそのくらいの気持ちでいるんだ。こんなに長く一緒にいて、涼には俺の気持ちがまだ分からないのか?」

勇仁の意志は固かった。

マスコミには散々あることないことを書かれ、結局、勇仁は記者会見を開いた。


勇仁は、シングルスではなく、俺が実業団に入ってきたらダブルスを組むという契約だったことをちゃんと説明し、それまでに組む相手がおらず、シングルスで試合に出るしかなく、たまたま世界ランキング一位まで登りつめたと話した。もったいないと言う声がたくさん聞かれたが、勇仁には全く響いていなかった。


「本当にいいの?」

「何が?」

「俺とダブルス組むことにして」

「まだ言ってんのか?いい加減にしないと、さすがの俺も怒るぞ」

「だって…」

寮のベッドの上に腰かけていた俺の瞳から、一つ二つと涙がこぼれ、膝の上に置いていた手の甲を濡らしていった。

「何だよ?」

勇仁が驚く。

「勇仁が初めてオリンピックに出て銀メダルを獲った試合が、衝撃的で忘れられないんだ。俺、今まであんなに感動したことなかった。目が離せなくて、食い入るように見いって、時間を忘れた。きっと日本中が感動したと思う。次は絶対に金メダルだ、って、間違いなく全国民が期待してるのに。そんな選手を俺が奪っていいのかな、と思って」

「二人で金メダルを獲ればいい」

「でも…」

「俺のことなんかで、泣くな」

勇仁が俺を抱き締める。

「二人でオリンピックに出ることが、俺たちの夢だろ?忘れてんじゃねぇよ」

「うん」

俺は勇仁の背中に、そっと手を回した。

オリンピックまで、あと一年半。それまでに、勇仁とのダブルスの技術をどこまで仕上げることができるのか、不安と気合いがいり混ざったような複雑な心境な中での練習の日々が始まったのだった。


「今日も、田村さんと練習してたの?」

「ああ」

勇仁は、俺とのダブルスの練習が終わってから、田村さんとマンツーマンで練習する日が増えた。口には出さないけれど、やはり勇仁なりに、監督やコーチ、選手たちに責任を感じているのだろう、と思った。その練習の甲斐があってか、田村さんも実力をぐんぐんと延ばして行った。

「大丈夫?シングルスとダブルス、どちらの練習にも出るなんて、さすがの勇仁もキツいんじゃない?」

寮にいられる時は、二人でお風呂から戻ってから、俺の部屋に来るのが日課になっていたが、最近の勇仁は、ベッドにずっとうつ伏せになっていた。

「ダブルスの試合は、涼にかなり助けられてるから、大丈夫だよ。お前、やっぱ本当にすごいな。どんな球も拾って返す粘りが、マジでハンパない。相手の体力を奪うやり方は、誰にも真似できない世界一の技だよ」

「そんなことないよ。バドミントンの運動量は、どんなスポーツよりも最高ランクだから、勇仁の体が心配だよ。無理して、ケガとかしないでよ」

「じゃあ、涼が俺の上に乗って、腰を動かす練習しろよ。そしたら、俺があまり動かなくて済むだろ?」

「こんな時に、そんな冗談、やめろよ」

俺は少し膨れっ面になりながら、真っ赤になる。

「涼…」

横になる勇仁の近くで、ベッドに腰かける俺の手に勇仁の手が重なり、そのまま強く握られる。

「もう寝なよ」

「ごめんな。最近、できなくて」

「何に謝ってるんだよ。いいから、ゆっくり休んで」

俺は勇仁の頭をゆっくり優しく撫でた。

勇仁はそのまま瞳を閉じると、寝息をたて始め、キレイな寝顔を見せたまま、朝までぐっすりと眠ったのだった。


勇仁とのダブルスは、思っていた以上に息も合い、試合中もお互いの動きが手にとるように分かるような感覚だった。幼い頃から共に練習を重ねてきていたからか、それともお互いの試合をずっと見続けていて、動きがよめるせいなのか…。俺たちが特別な関係だから、というのも、もしかしたらあるのかもしれないけれど…。声を掛け合わずとも、意志疎通がかなりうまくできていた。そのおかげで、俺たちは順調にオリンピックへ向けての階段を登ることが出来た。


初のオリンピックの舞台。一セット目をせっかく取ったのに、俺があまりにも緊張してしまい、思うように動けずに二セット目を落としてしまった。

ファイナルに入る前、緊張が最高長に達し、息がうまくできず、少し苦しくなってきた。

「涼。お前一人で試合をやってるんじゃない。俺がついてる。だから、いつも通り、思い切りやれ。俺がどんな球でも全部決めてやるから。お前のレシーブ力は世界一だ。自信を持て」

力強い、勇仁の言葉に背中を押される。

ファイナルの試合に入る前に、勇仁が俺の耳元で囁いた。

「Tシャツで汗を拭う時に見える涼の素肌が、めっちゃエロい。試合より興奮する」

分からないように、両手で俺の耳を隠し、

「でも、世界中で放送されてるんだから、あんまり見せるな。妬けるから、俺のTシャツでお前の汗拭いてやるよ」

そう言って、俺の耳を唇で挟んだかと思ったら、舌でペロリと舐めた。

「何すんだよ!!」

俺は小声で怒った。

仮にも世界の大舞台だぞ!テレビで放映されてるのに。勇仁は本当に見境なく、どこででも発情する時があって、本気で呆れてしまう。

ムキになって怒る俺を見て、

「めっちゃカワイイ。冗談だよ。エロいのは本当だけどな。早くその素肌に吸い付きたい。だから、さっさと試合終わらせようぜ」

勇仁が、嬉しそうに笑う。俺も呆れながらも、つい笑ってしまった。肩の力が一気に抜けたような気がした。


「金メダル、おめでとうございます!まずは、折田勇仁選!」

報道陣に囲まれてのインタビューが始まった。

「ありがとうございます。本当にいいパートナーに恵まれて、俺は幸せです。応援して下さった皆さんにも本当に感謝しています」

「前回のオリンピックで銀メダルを獲った時に言っていましたよね?ダブルスを組みたい選手がいる、と。次回は二人で金メダルを獲りたいと。それが今回ダブルスを組んだ金沢涼選手ですね」

「はい。涼が小学生の頃から、こいつしかいないって思ってました。涼と二人でオリンピックに出ることだけを夢見て、今まで頑張ってきたので。俺はこいつのプレーにベタ惚れで、もう誰にも渡したくありません」

そう言って、勇仁が俺の肩を抱く。

うわあっ。そんな事言って、こんなことして!

勇仁が変な事言ったり、したりするんじゃないかと、内心ハラハラしながらインタビューを受ける。

「金沢選手は?」

「そ、そうですね。小学校の頃から勇仁に、オリンピックに一緒に出ようってずっと言われてたので、今まで辛いこともあったけど、頑張ってこれたんだと思います」

「ファイナルに入る前に、何か話してましたが、何を話されていたんですか?」

質問にドキリとする。

「昔からやってる、二人だけの声掛けです。内容は内緒です」

勇仁が、ひょうひょうと言ってのける。

「あのあと、一気に調子が上がりましたよね。昔から一緒に練習をしていたからこその、掛け合いがあるんですね」

勇仁がグッと俺の肩を自分へと引き寄せると「はい。俺たちの絆は固いです」と言って、俺の頬にキスをした。世界中に放映されている、公衆の面前で!


「唇にキスしなかっただけ、ありがたいと思えよ。みんな歓喜の表現だと思ってるから大丈夫だって」

勇仁が、楽しそうに笑う。

「俺は勇仁と違って、楽観的じゃないんだからな!」

オリンピック代表に決まった時も、ただでさえ、絶好の美男美女コンビって、おもしろおかしく、バラエティーなどで「二人はできてるんじゃないか」って聞いて来る人もいて、俺は誤魔化すのに必死だったのに。

勇仁とテレビに出る時は、さっきのインタビューみたいに、思いっきり俺に対しての本音を言う時が多く、気が気じゃなかった。

「お前は俺のものなんだって、主張したい」

「しなくていいよ」

「小六の時の、涼の初体験の相手は俺だって、全国民に言ってやりたい」

俺は慌てて勇仁の口を両手でふさいだ。

「バッ…バカ!そういう恥ずかしい事言うなよ!最近、勇仁、試合中でも意地悪ばっかり言うし、するし!」

その両手を外しながら、勇仁が続ける。

「意地悪じゃなくて、本心を言ってるだけだろ?真っ赤になって、照れながら必死になる涼がかわいすぎるから、仕方ない」

「あんまり俺とのこと、テレビで言うなよ」

「だって、お前、最近めちゃくちゃ人気あるから。つい、俺のものだって言いたくなる」

「だから、言わなくていいって。俺が勇仁のものだってこと、俺だけが分かってればいいことだろ」

それに、そういう勇仁こそ、俺とは比べものにならないくらい人気があるくせに…。いろんな女性から連絡先を渡されたりしているのを何度も目にしたことがある。そんな勇仁が、俺の彼氏なんて、鼻も高いけどやっぱり妬ける。

勇仁が背後から抱き付く。

「涼、田村とダブルスを解消するのが分かった日、何かあっただろ?」

突然の問い。

「え?何で?」

「しばらく、二人の様子がおかしかったから。涼とケンカになったりギクシャクするのがイヤで、オリンピックが終わるまで、聞くの我慢してた」

「一年半以上前の話だよね?別に何も…」

「本当に?」

「うん。本当に何もないよ」

本当に何もなかったと、俺は思っていたのだが…。

「好きだ、って言われたんだろ?」

「あ、うん」

「抱き締められて、ベッドにも押し倒されて…。関係持ちたいって言われて、キスしていいか聞かれた」

「あ、そうだね」

「最後に、額にキスされたのか?」

「うん」

「お前、アホか?」

「え?」

「それを何もないって、普通は言わないぞ?」

「でもちゃんと断ったし、田村さん、俺と勇仁との関係にも気付いてたから。本当に何もなかったよ」

言うか言わないかの俺の唇を勇仁が勢いよくふさいだ。キスが首筋に下りてきた。

「ガードが緩い上に、鈍感すぎるんだよ」

Tシャツの中に、勇仁の手が滑り込む。

「ちょっと、勇仁。ここじゃマズイよ。もうすぐ移動の時間だし、誰か呼びに来るかも…」

言葉が、キスで奪われる。

「田村とのこと聞いた時の俺の気持ち、お前に分かるか?練習キツくて、ただでさえHするの我慢してたのに。今すぐお仕置きする」

ズボンの中に、勇仁の手が入って来る。

「だから、ここじゃダメだって…。ホテル帰ってからしよ…」

言って、俺は自分の口を両手で押さえた。これじゃあ、俺もしたかったみたいに聞こえる。

「まさか涼から誘ってくれるなんて思わなかったよ。分かった。ホテル帰ってからにしよう。マジで嬉しい」

「ち、違うから!」

俺は真っ赤になって、つい大声を出してしまったのだった。


「いつ聞いたの?田村さんとのこと」

久しぶりに愛し合ったあと、二人でベッドに横たわり、まどろみながら勇仁に尋ねた。

「決勝終わってすぐ」

「え?じゃあ、ついさっきってこと?」

「ずっと気になってたから。試合終わってから、速攻、田村に聞きに行った」

「田村さんも、忘れてたでしょ。そんな昔のこと」

「忘れてなかったよ。すぐに、ああ、あの時のことですか、って話始めたしな」

「そうなんだ。意外…」

「お前のこと好きだったんだから、そりゃ覚えてるだろ」

勇仁の口調が少しきつく感じた。しばらくの沈黙のあと、勇仁が体を起こして、俺を見た。

「涼、結婚しよう。俺、涼と結婚できるなら、国籍変えてもいいって、本気で思ってる」

突然のプロポーズに、俺はあまりにもビックリして、言葉を失った。

「…勇仁?どうしたの?急に」

「イヤか?」

「イヤとかじゃなくて、実際には無理だろ?そんなこと」

「無理を可能にしたいんだ」

勇仁が、すごく悲し気な表情を浮かべた。らしくない勇仁の様子に「何かあったの?」と思わず尋ねた。

勇仁が黙り込んだ。しばらくして「…悪い。少し神経昂ってるのかも。ちょっと頭冷やしてくる」と言って、素早く服を着ると、部屋を出て行った。あの勇仁が、めずらしく感情的になっているような気がした。俺を抱いている時も、何だかいつもと違って、余裕がないような感じだった。そして、翌朝目覚めると、勇仁の姿はなく、勇仁の荷物もホテルの部屋から全てなくなっていた。


「どうしたんですか?こんな朝早くに」

公園のベンチに腰かける勇仁に声を掛けてきたのは、田村だった。

「お前こそ、こんな朝早くにどうした?緊張して眠れなかったのか?」

「いえ。さっき金沢から連絡があって」

「涼から…?何て?」

「折田さんが、いなくなったって。一緒に練習してるんじゃないか、って思ったみたいです。ケンカでもしたんですか?」

「いや、別に」

「じゃあ、何でこっちの宿泊先に?あっちで一緒に泊まれば良かったのに」

田村の指摘に、勇仁はしばらく黙っていたが、少し息を吸い込むと、静かに話始めた。

「涼の気持ちが分からないんだ。いつも俺ばっかりが好きで、涼の気持ちがいつまでも俺に追い付いてきていないような気がして。お前とのことも、何もなかった、って」

「実際、何もなかったんで」

「あっただろ」

勇仁が振り返り、後ろに立つ田村を見た。

「金沢にしてみたら、ただ自分に告白してきた奴を振った、ってだけで、本当に何とも思ってないんですよ。俺にとっても悲しい話ですけど」

田村が呆れたように腕を組み、勇仁と目を合わせた。

「プロポーズも断られた」

「プロポーズしたんですか?」

「した。涼を俺だけの物にしたくて」

「何か、折田さんて発想が子供なんですね。結婚して好きな人をつなぎ止めようなんて、ガキが考えることですよ」

「そんなこと、俺だって分かってる。でも、昔からの夢が叶った今、もしかしたら、涼にとって、俺なんか必要なくなるんじゃないか、って思ったら、急に不安になってきて」

「燃え尽き症候群ですか?まだまだ先があるのに…」

「俺たち、涼が小学六年の時に俺から告白して付き合うことにはなったけど、その時の涼は、まだ人を好きになるってことが、どういうことか分かってなかった。そのせいか、涼の言う好きの意味が恋愛なのか情なのか、分からなくなる時がある。だから、他の奴らに惑わされないうちに、結婚しておきたいって思った」

勇仁がそこまで言うと、田村はため息を吐いた。

「折田さん、もう少し金沢のこと信じてやったらどうですか?はっきり言わせてもらいますけど、折田さんはモテるし、人気もあるし、女性からの誘いも多い。実際に飲みにも行ってますよね。それを見てる金沢の方が、よっぽど辛いと思いますけど?でも、それを口に出さないのは、折田さんを信じてるからですよ」

そこに「一心!」と呼ぶ声がした。男子シングルス日本代表の矢嶋佑利だった。今回のオリンピック選考には漏れたが、勇仁と田村との練習の場に途中から参加していた。

「良かった。折田さん見つかったんだ」

「ああ」

「矢嶋?何で?」

「俺たち、付き合ってるんで。今朝、一緒にいる所に金沢から連絡があって。金沢、監督にも電話したみたいですよ。監督からも、さっき俺の方に折田さん知らないか、って電話あったんで。早く携帯の電源入れて下さい」

「早くしないと、選手たち全員のグループLINEに監督から連絡いくかもしれませんよ。折田さんがいなくなったって」

田村に続いて、矢嶋が言った。

「恋愛って、うまくいってる時は強みになりますけど、うまくいかない時は、弱みにもなるんで、気を付けて下さいね」

田村が勇仁を諭すかのように、優しく声をかけた。

「って言うか、いつから?」

勇仁が立ち上がる。

「何がですか?」

田村が相変わらずのポーカーフェイスで答える。

「二人が付き合ってんの」

「一年前くらいから?」

矢嶋が背の高い田村を下から覗き込んだ。しっかり腕組みをして。

「そうだな」

「そんな前から?」

「僕から告白したんです。一心に昔から憧れてて。ダブルスに転身した時に、一緒に練習する時間がほとんどなくなって。その時に自分の気持ちに気付いたって言うか…」

矢嶋の頬が少し赤い。

「とりあえず、携帯の電源入れて下さいね。俺たち、戻るんで。今日からシングルスの試合って時に、本当に人騒がせですね。しかも、オリンピックですよ?」

「…悪かった。それと、ありがとな」

田村が少し笑顔を見せて、矢嶋と二人で宿泊先へと戻って行く。

勇仁はポケットからスマホを取り出すと、すぐに電源を入れた。その途端に鳴り響く、着信履歴を知らせる音の数々。

「あいつ、どんだけ電話してんだよ」

LINEの着信と電話の着信を合わせただけでも、24件になっていた。LINEでのメッセージも何件か入っていた。そこに、LINE通話の着信音。

「…はい」

「もしもし?勇仁!?どこにいるの?どうしたの?何かあった?昨日、様子が変だったから」

涼の声が、心地良く勇仁の耳に響く。

「いや。大丈夫。何もない」

「黙っていなくなるから、めちゃくちゃ心配した。今までそんなことなかったから」

「悪かった。ちょっと一人でいろいろ考えたくて」

「荷物もなくなってたし、昔からの夢が叶ったから、俺のこと、もういらなくなったのかも、って思ったらすごく不安になって…」

電話先の、涼の声が震えていた。

「バーカ。そんな訳ないだろ」

まさか、涼も自分と同じ事を考えていたなんて…。勇仁の口元が綻んで、頬が緩む。

「昨日の夜はごめんな。結婚しようなんて、先走ったこと言って」

「ううん。俺の方こそごめん。勇仁の気持ちにうまく応えられなくて。結婚しようって言ってくれたこと、すごく嬉しかった。ただ、俺は次のオリンピックも、その次のオリンピックも、日本代表として勇仁と一緒に出たいって思ってる。だから、国籍変えるのは無理だけど、いつか同性婚が認められる日が来たら、俺も勇仁と結婚したい」

「涼…」

“もう少し、金沢のこと信じてやったらどうですか?”

田村の言葉が自然と脳裏によみがえる。

「そうだな。これからも前を向いて、二人で頑張って行こうな。ありがとう、涼」

「ううん、こっちこそ。勇仁、いつ戻ってくる?今日からのシングルスの試合の応援、行くんでしょ?」

「ああ。俺、やらなきゃいけないことあるから、シングルスの試合が終わるまで、こっちの宿泊先にいることにする」

「こっちって、シングルスの選手たちのところ?誰かの部屋に泊めてもらってるってこと?」

「まあ、そんなとこ。とりあえず、アップにも付き合いたいし、田村のことも試合始まるギリギリまで近くで見ててやりたくて」

「分かった。じゃあ、あとで会場の応援席でね」

「ああ」

そして、電話が切れた。

「よっしゃ!気合い十分!」

勇仁が思いっきり声を出して両手を上げ、大きく伸びをした。


そして、いよいよシングルスの試合が始まった。ただ、どこにも勇仁の姿がなく、俺は戸惑った。田村さんは一回戦を勝ち上がり、四試合目が始まろうとした瞬間、会場内が騒然とし、ざわめきが起こった。

「嘘だろ…。何で…?」

俺は思わず声に出してしまっていた。

「何と!折田勇仁選手です!まさか、こんなことってあるんですか?」

実況していた元オリンピック代表選手が興奮する。

「いや、前代未聞ですよ。バドミントン競技は、スポーツの中で一番運動量が激しいですし、昨日までダブルスの試合に出て金メダル獲ってますから、相当疲れも残っているとは思うんですが」

「選手の名簿にはなかったですよね?」

「今入った情報によると、本人の希望で、当日まで発表は控えて欲しいとのことだったみたいですね」

「二人枠があるのに、出場選手が田村一心、一人だと思って不思議ではありましたが、まさか折田選手が決まってたとは、驚きましたね」

「いや、本当にまさかですよ。ダブルスとシングルス両方に出場なんて、まずあり得ませんから」

試合が始まる前から、実況する二人はかなりの興奮状態だった。


勇仁は、何とか勝ち上がり、決勝進出を決めた。決勝は田村さんとだった。だいぶ身体にも負担がかかり、疲れも出てきているのか、試合中の動きが少し鈍いように感じた。勇仁はダブルス選手のために用意されている俺との部屋には一度も戻らず、シングルス選手用の宿泊先に一人で泊まっていた。その間、連絡が来ることもなく、ただただ俺は勇仁の身体のことが心配だった。


決勝当日、一セット目は田村さんが21対11と、大差で先取した。

「折田選手、やっぱり無理がありましたかね。だいぶ身体への負担も大きいみたいですが…」

「そうですね。でも、本当にここまで来れただけでも、奇跡だと思いますよ。ダブルスもシングルスも代表選手として出場するなんて、あとにも先にも折田選手だけだと思いますね」

2セット目は、21対18で、勇仁が勝ち、試合はファイナルへと持ち越された。

「折田選手、何とか勝ちましたが、ファイナルとなるとだいぶ不利と言うか、体力的にも相当きついんじゃないでしょうか?」

「そうですね。めずらしく、かなり息も上がってますし、足もあんまり動いてないように感じますね。あ、いよいよ始まりますね。これでどちらかが金メダル獲得になります」

両者がコートに入る。俺はもう息がうまくできなかった。膝の上に置いた、握りしめた手の中にも、汗が滲んでいた。

試合はかなり競っていた。一点取られると取り返すラリーが繰り返され、今までにない熱戦が繰り広げられ、会場も異常なまで湧き上がっていた。

「勇仁…。お願いだから、もうやめてよ。どうしてそこまでするんだよ」

苦痛で顔が歪む勇仁を見ている俺の胸が痛い。

「どっちも辛いと思います。一心もだいぶ足にきてる」

矢嶋さんが、俺の隣の席に座った。

「息が苦しくて。心臓が口から出そうです」

俺が言うと、矢嶋さんも「僕もです」と、試合から目を離さずに言った。試合は29対29になり、30点打ち切りなので、先に一点先取した方が勝ちになるところまできた。ラリーが続く。会場が静まりかえる。息が出来ない。勇仁がこんなにも遠い。ワアッ、と会場が一気に沸いた。

「折田選手のスマッシュが決まりましたが、インかアウト、微妙なところでしたね」

「田村選手が、チャレンジを申請しました」

映像が流れる。シャトルの軌道が映し出され、会場内に歓声が広がった。

「インです!イン!ぎりぎり、ラインの上ー!!田村選手、チャレンジ失敗。折田選手、金メダル獲得です!!」

そして、歓声と拍手がずっとずっとなりやまなかった。

「やっぱり折田さんはすごいですね。昨日まで、ダブルスの試合にも出てたのに…。一心が追い付くのは、まだまだ無理そうですね。完敗です」

矢嶋さんが話かけてくる。

「矢嶋さんは知ってたんですか?勇仁がシングルスの試合に出ること」

「はい。折田さんが出なかったら、僕が代表だったんで。選考から漏れた時、監督に呼び出されて、説明をうけました。そこに折田さんもいたので」

「あ…」

俺は何て無神経な質問をしてしまったんだろう。

「すみません」

俯きながら、謝る。

「いえ。折田さん、金沢君のためにシングルスの試合にどうしても出たい、って言ってました」

「俺のために…ですか?」

「ダブルスに転身させたことに、すごく責任を感じて苦しんでる、って。だから涼のためにも、シングルスで金メダルを獲ってから、終わりにしたいって話してました」

「そうだったんですね」

俺が勇仁を追いつめていたなんて、全然気が付かなかった。

「そんな真面目な話をしてる時に、泣いた涼を初めて見たんだ。しかも俺のために、って言って嬉しそうにニヤけてましたけど…」

「す、すみません」

勇仁のヤツ…。矢嶋さんの気持ちも考えろよな。

「折田さんて、本当に金沢君のことが大事なんですね」

「え?」

俺は思わず顔を上げて、矢嶋さんと目を合わせた。

「ここまでするなんて、普通、出来ませんよ」

「俺、勇仁の負担になってたんでしょうか?」

「逆ですよ。糧になってたんだと思います。とりあえず、金メダルおめでとうございます。僕は一心のところに行って慰めてきます。きっと落ち込んでるだろうから」

「え?」

「僕たち、付き合ってるんです。まだ、お二人ほどラブラブではないですけど」

そう言って、矢嶋さんは笑顔を見せて、席を立った。ラブラブって…。急に恥ずかしくなって、俺は一人で真っ赤になって、つい俯いてしまったのだった。


「折田選手、金メダル獲得おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「本当にすごい試合でしたね」

「これで心おきなく、ダブルス一本で頑張れます。本当にダブルスとシングルス、両方の練習をするのはかなりハードだったので」

「4年後は、ダブルスだけということで?」

「はい。4年後は田村が金メダル獲ってくれると思うので」

「また、どちらも出場する可能性は?」

「絶対にないです。シングルスの練習も、ってなると本当に時間がなくなってしまうので。大切な人と過ごす時間も大事にしたいですし、もうダブルスだけに集中します。応援ありがとうございました」

そして勇仁は頭を下げると、インタビューの質問を避けるように早々と会場をあとにした。


俺は部屋のベッドに座ったまま、スマホを手に持ち、ため息を吐いた。試合が終わってからも勇仁からの連絡はなく、自分から連絡する勇気もなかった。

「はあ…」

思わずため息が漏れる。

そこに、ガチャンと鍵の開く音がして、扉が開いた。スーツケースを引いて、勇仁が部屋へと入ってきた。

「ただいま」

勇仁が優しく目を細め、微笑む。

俺は思わず勇仁に抱き付いた。

「何であんな無茶したんだよ。どんなに心配したと思って」

久しぶりの勇仁の温もり。安心感からか、涙が零れる。

「だって、涼の期待に応えたかったし、喜ぶ顔が見たくて」

「だからって、無理しすぎだよ。それに何で教えてくれなかったの?シングルスの試合にも出ること」

「言ったら、涼のことだから、どうせ俺をあまり疲れさせないように気遣って、まともな試合出来なかっただろ?」

確かに…。俺は言葉に詰まった。

「とりあえず、ユニットだけど、お湯張るから、湯船に浸かって筋肉の緊張緩めて」

「だな。マジで足がパンパン」

俺は涙を拭いながら急いでシャワールームへと向かった。その背後から勇仁の嬉しそうな声がした。

「俺のために泣いてくれてんの?」

「…俺が泣く度に、いちいち喜ぶなよ。俺がどんな思いで試合見てたと思って…」

声が震える。

「涼…」

結局、そのまま一緒に湯船に浸からせられ、ゆっくり身体をほぐしたあと、二人してベッドへともぐり込んだ。


「なあ、涼」

「ん…?何?」

勇仁の胸の中で眠りそうになっていた俺は、掠れた声で返事をした。

「しばらくテレビの出演とか増えると思うけど、お前はどうしたい?出たいか?」

「え?何で?」

「涼さえ良かったらだけど、一度地元に帰らないか?テレビのオファー断ることになるけど」

勇仁の提案に、俺もつい嬉しくなった。

「うん。全然いいよ。俺も久しぶりに地元に帰りたい」

俺は思いっきり勇仁に抱き付いた。


「では、地元、福井のスタジオにいるお二人を呼んでみましょう。折田選手と金沢選手です」

バラエティー番組のスタジオに、オリンピックの様々な競技のメダリスト全員が集まってた。

「こんばんはー」

MCの女性アナウンサーが俺たちに呼びかけた。

「こんばんは。今日はそちらに行けなくてすみません」

勇仁が言う。

「金メダル、本当におめでとうございます。お二人のダブルスの試合も、折田選手のシングルスの試合もすごい盛り上がりでしたね。本当に全国民が感動に包まれました。折田選手は史上初ダブルスとシングルス、どちらも金ということで、世界中からも注目されてますね」

「ありがとうございます。応援して下さったみなさんに、本当に感謝しています」

「久しぶりの地元はどうですか?」

「そうですね。やっぱり落ち着きますね」

「地元に戻ってから、どうお過ごしでしたか?」

「とりあえず、家族と過ごしたり、今までお世話になった人たちに挨拶に行ったり、友達と遊んだりしてました」

「金沢選手は、どうお過ごしでしたか?」

「あ、俺も、ほぼ勇仁と同じ過ごし方をしてました」

「そちらでも、お二人で練習されてるんですか?」

「いえ。体がなまらない程度に練習には行ってますけど、俺は二番目の兄が出身高のバド部の顧問してるんで、そっちの練習に参加してます」

「金沢選手は?」

「俺は、父が小中高合同のクラブチームの監督なので、そっちの方の練習に参加してます」

「そうなんですね。お二人、すごく仲が良いとお聞きしてるので、そちらでもずっと一緒に練習されてるのかと思ってました」

「いや。実は涼に会うの久しぶりなんです。一週間ぐらい会ってなくて。な?」

「うん」

俺が答えると、

「あの、折田選手、インタビューの時に、大事な人と過ごす時間を大切にしたいっておっしゃってましたが、どなたか特別な人がいらっしゃるんですか?」

もう一人の、お笑い芸人のMCが、勇仁にストレートな質問を投げかけた。

「そうですね。まさに今、話した人たちのことですね。なるべく地元に戻ってきたいな、と思って」

「ちなみに、友達とはどんな遊びを?みんな、プライベートのことも知りたいと思うので」

「俺はいつも居酒屋で集まってます。中・高の友達やバドの仲間と、毎晩飲みに行ってました」

勇仁が答えると、

「金沢選手は?」

すかさず質問される。

「そうですね。俺も、中学や高校の友達と焼き肉の食べ放題に行ったり、カラオケ行ったり、あとバッティングセンターにも行きました」

「マジで?」

先に声を出したのは、勇仁だった。

「うん」

「え?お前、野球の球とか打てんの?」

勇仁が驚いたように俺に聞く。

「一応できるよ。それくらい」

俺はちょっとふてくされて、唇を尖らせて俯いた。

「金沢選手の、焼き肉食べ放題やカラオケは意外でしたね。イメージなかったです」

アナウンサーがすかさずフォローに入る。

勇仁が黙ったまま、ずっとこっちを見ていた。

「な、何…?」

顔を上げて、勇仁を見ると、

「いや。別に」

と、カメラの方に向き直った。

「そろそろお時間なので、お二人からメッセージいただいてもよろしいですか?まずは、折田選手からお願いします」

「はい。まだまだ涼の知らない部分があるんだな…と、今、気付いたので、これからもっともっと絆を深めて、息を合わせる努力をして、4年後のオリンピック目指して頑張りたいと思います。本当にありがとうございました」

「ありがとうございます。では、金沢選手、お願いします」

「はい。本当に、一つ一つの試合を大事にして、また4年後のオリンピック代表に選ばれるように頑張りたいと思います。本当にありがとうございました」

「折田選手、金沢選手、本当にありがとうございました。またこちらのスタジオにも遊びに来て下さいね」

「はい。ありがとうございます」

二人で声を揃えて言うと、俺はお礼をし、勇仁は右手だけを前に伸ばして手を振って「バイバーイ」と言って、テレビ出演が終了した。その姿が、妙にサマになっていて、つい、カッコいいな~と思ってしまったのだった。


勇仁は、素早くピンマイクを外すと、側にいたスタッフさんにそれを渡し「お世話になりました。ありがとうございました」と頭を下げて、足早にスタジオを出て行った。俺もお礼を言って、慌てて勇仁のあとを付いて行く。

「待ってよ、勇仁。どうしたの?何か怒ってる?」

勇仁の早く歩く足は止まらなかった。

エレベーターのボタンを押す。待ってる間も一言も話さなかった。エレベーターが到着し、二人で乗り込む。閉じるボタンを押した瞬間、勢いよく抱き締められる。

「ちょっと、勇仁…?」

「あんなカワイイ顔、全国放送で見せんじゃねぇよ。また涼のファンが増えるだろーが」

「カワイイって、何が…?」

「ふてくされた顔がかわいすぎて、つい見惚れた」

「え…?」

どうしよう。すごく嬉しい。

「そ、そう言う勇仁だって、あのバイバイは反則だよ、テレビの前の女の子たちは、絶対に歓声上げてたよ」

「何だよ、バイバイって」

「最後に手を振ってた姿がカッコよすぎて、ときめいた」

勇仁が俺を胸からはがすと、勢い良く唇を奪う。お互いに吸い付くような激しいキスを交わし、見つめ合う。

「って言うか、一週間はお互いに自由にしようって俺から言ったものの、涼のプライベートのこと全然知らなすぎて、すげぇショックなんだけど」

「確かに、お互いにプライベートのことは、あまり話したことないもんね」

「早く一緒に住みたい。涼とデートしたり旅行したり、いろんなことして、もっともっと涼を知りたい」

「うん。俺も」

「とりあえず今は、4年後のオリンピック目指して、二人で一緒に前を向いて、頑張って行こうな」

勇仁が、俺に向かって手を差し伸べる。

「うん」

そして俺は、その手を強く強く握り締めたのだった。(完)

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