推し宅訪問
「――田代さんの家、今から連れてってもらえるって」
弟さんに電話をかけた先輩の口からその言葉が出た瞬間、頭が真っ白になった。
不自然な体勢で固まった私を、ケーキ屋の店員さんが怪訝そうに見つめている。
ええっと、状況確認。なにがどうなってこうなったんだっけ?
うんと、時間が迫ってきたから最後にケーキでも食べようって言ったのはだれだっけ。そうだ、橋本先輩だ。
「私の好きなケーキ屋さんが入ってるみたいでさ。イートインスペースもあるっぽいから」
もちろん一も二もなく頷いて、私たちはケーキ屋へと向かったんだ。
橋本先輩が好きなだけあってちょっと値段はお高めだったけど、どれも見た目が凝っててかわいかった。
「ちょっと待って! なんか美味しそうなのあるんだけど!」
興奮した橋本先輩の声に顔を上げたら、ショーケースに先輩の顔が反射してた。
その前にあったのが、黄色いムース仕立てのホールケーキ。トッピングのメレンゲ菓子が花のように散りばめられてる、かわいいやつ。
「こちら、今月の新商品のレモンムーンです。七夕期間のあいだだけ、星もデザインになってるんです」
「本当、星と月になってる」
「すごーい!」
粉糖のかかっていないところが三日月と星になってるおしゃれなケーキ。橋本先輩はケーキと見つめ合って微動だにしなかった。
「これって、ピースカットはありますか?」
「残念ながら、こちらはホールサイズ限定となっております。お持ち帰り限定でして」
「だって」
結城先輩の言葉に、橋本先輩が歯を食いしばった。お気に入りのお菓子が売り切れだった子供みたいな顔をしてたのを覚えてる。
「えっと、外で食べます? どこか、公園とか探して……」
って、こんな都会の一等地にそんな場所あるわけなかったのに。自分でもないなと思っていたけど、結城先輩が一捻り考えてくれた。
「駐車場戻って車で食べるのは? コーヒーもテイクアウトしてさ」
「ああ! それがありましたね!」
なにもこの暑いなか、外で食べる必要はなかった。車内なら人の目も気にならないし、さすが結城先輩だ。私は全然思いつかなかった。
「……明美ちゃん、それでもいい? あの車あんまり快適じゃないけど」
「はい! 私、チーズケーキ大好きです!」
ランチのときもセットについてたミニケーキを食べたし、車で食べるのもお出掛け感があっていやじゃない。
それに、クールな先輩があんなに食いついていたのに、無下にはできない。
「明美ちゃんは優しいねえ。よしよし、ここはお姉さんたちが奢ってあげるからね」
「え、いいんですか!?」
「今日たくさん付き合ってくれたお礼。カードでお願いします」
「ちょっと待って桜、私ポイントカード持ってる」
こうして私たちは車でケーキを食べることになった。
うん、それは覚えてる。
先輩たちから名前で呼んでもらえるようになっていたことも覚えてる。
で、なんで推しの家に行く流れになったんだっけ?
そうだ、車の鍵を弟さんが持ってることに、ケーキを買ってから気付いたんだっけ。
「ちょっと今どこにいるか聞いてみる」
そう言って先輩が電話して、皿とかフォークの話してるなって思ってたら――
「――田代さんの家、今から連れてってもらえるって」
――ってなったんだ。
以上、反芻終わり。
「田代さんって、さっきのかっこいい人だよね。モデルの」
「そ。マンションここから近いってさ」
「この大きさ四人じゃ厳しいし助かったかも。……明美ちゃん、大丈夫?」
「は!? はい、大丈夫です!」
「今日よく固まるね。暑い?」
「あ、ちょっと熱くなってるかもです。アハ、アハハ」
パタパタと手で顔を扇ぐけれど、もちろん効果なんてない。
――推しとの出会いが朝でよかった。推しとの対面と推し宅訪問が同時に叶っていたら、とんでもない奇声をあげていたかもしれない。
そんなわけで、私は推しの家に来ていた。
道中、案内してくださっている推しの車のナンバーを覚えてしまったが、どこにも書き記さないし、悪用はしないと誓う。
「お待たせしました、ケーキです」
「明美ちゃん、ありがとう。わあ、おいしそ」
「あざっす」
「これこれ、これが食べたかった」
「どうぞ」
「ありがとう」
推しに、推しにお礼言われた……!
下っ端らしく率先してケーキの切り分けをしたけれど、まさか推しに感謝される日が来るとは思わなかった。
動いて煩悩を消したい気持ちもあったからちょっと複雑だけど、変な声を出さなかった自分を褒めたい。
わー、これから田代穣が私のケーキ食べるんだ。一生の思い出にしよう。
席配置は橋本姉弟と、結城先輩に私とわかれている。
田代さんは作業部屋で食べるとのことで、一礼して部屋を出て行った。私たちを気遣ってくれたみたいだ。
ああ、でも作業部屋とか超見たい。なんなら家のなか全部見たいけど、それで彼女さんの物とかあったら沈むかも。
雑念を振り払うようにコーヒーを飲むと、非情なほどに苦かった。いけない、用意するのに夢中になって砂糖入れるの忘れてた。
せっせと砂糖を入れているあいだにも、先輩たちはケーキに舌鼓を打っていた。私も口に運ぶけれど、現実のように酸っぱく――なんでさっきから悲しい妄想してんの私。
推しの家だよ!? この奇跡の幸運を噛みしめなよ! このコーヒーだって推しが――推しが私にコーヒー淹れてくれた……! 私にじゃないけど!
「おいしいね、ケーキ」
「とてつもなく……とてつもなくおいしいです……!」
「でしょ! ここのケーキ、小さいのもおいしいから買ってみてね。おすすめはタルト」
「俺はチョコ」
「翔哉君も好きなんだ」
「誕生日、毎回ここなんで」
正面に座る弟さんもケーキを頬張っている。
店内ではすれ違わなかったけれど、弟さんたちもいろいろ買い物を楽しんでいたらしい。
推しの様子が知りたいこともあって、私は熱心に弟さんの話を聞いた。
ケーキを囲んで他愛ないお話。だけどやっぱり、部屋の物が気になってしょうがない。
だって推しの家だし。同じ物買いたいし。ティッシュボックスくらいなら私でも手が届くお値段じゃないかなとか、このお皿のメーカーどこかなとか、邪念ばっかり渦巻いていく。
一人きりにされたら、そこら辺の物をひっくり返して情報を得ようとしていただろう。冷蔵庫の中身とか見ちゃってるかもしれない。
うん、絶対に一人にならないようにしなきゃ。トイレ行けないな。あっ、でもトイレットペーパーならすぐに銘柄わかるんじゃ……? って、また!
危険思想をコーヒーと一緒におなかに押し戻していると、弟さんがふと時計を見た。
「うわ、もう始まってる! ちょっとテレビ見てくる!」
「なに、なんかあんの?」
「再放送!」
弟さんの好きなドラマの再放送があるらしく、弟さんはテレビの前へと移動する。
テレビの前には三人掛けのソファがあって、まんなかに座った弟さんは、慣れた様子でテレビを付けた。
ちょくちょく遊びに来ていると言っていたけれど、本当によく来ているらしい。手探りでクッションを抱き寄せている。
「飲み物のお代わりいかがですか」
「ひん……!」
タイミング悪く田代さんが戻ってきて、私は魂が抜けかねない勢いで飛び跳ねた。それを誤魔化すべく立ち上がり、振り返って笑顔を作る。
「わ、私も手伝いますね」
「いいですよ、気にしないで。みなさんお客様ですから」
「いえいえ、座ってると落ち着かないので!」
推しを前にじっとしていられないだけなんだけど。
動く口実を得るべく椅子を押し戻し、空いた皿を重ねていく。カチャカチャと鳴る陶器の音で、心臓の音を誤魔化した。
「次もコーヒーでいいですか? 紅茶もパックでよければありますけど」
「コーヒーでお願いします。とてもおいしかったから」
「私もコーヒーで」
私も小さく同意を示す。推しが手ずから淹れてくれたコーヒーが世界一に決まってる。
「三人ともコーヒーね。アイス希望の方は?」
「アイスくださーい」
「あ、じゃあ氷出します――って、ごめんなさい、勝手に開けちゃダメですよね!」
「飛び退き方すご」
「静電気に弾かれた動き」
流れで冷凍庫を開けようとしてしまい、慌てて手を引っ込めた。
いけないいけない、押し込んだはずの邪念が出てくるところだった。
「フフ、それくらい気にしないで。なんなら好きなの食べちゃっていいよ」
「いえいえそんな。そんなっ、いえいえ」
ヤバい、焦りすぎて平常心がどっか行っちゃいそう。お言葉に甘えて氷かじって頭冷やしたほうがいいかもしれない。
これ以上話すとぼろが出かねないので、無理矢理視線を遠くにいる弟さんに向けた。
「あの、弟さんの分はどうしましょう」
「ああ。翔哉ー! 飲み物いるー?」
「らなーい」
「だって」
弟さんはドラマにかじりついていた。見たことないドラマだけど、物々しい雰囲気で男の人がにらみ合っている。
「翔哉君、よくあそこでああしてテレビ見たりゲームしたりしてるんですよ。なんか、甥っ子が来たみたいな気分になります」
「うちでもそうですよ。小学生くらいのころからずっと」
「はは、変わってないんですね」
穏やかに話しながら、推しが橋本先輩のとなりに座った。
――田代穣が私の正面に座った! 私は一切の思考を放棄した。
新入社員だった頃、ひたすら話を聞いていただけの時期があったなあ。
ミーティングの端の席に座って、よくわからない進捗や応酬を眺めていたあの頃。質問で話の流れを切るわけにもいかないし、だからってぼーっとしてるわけにもいかないし、ただただ熱心に聞いているふうを装ってたあの時期。うん、今すごくそれに近いかもしれない。心情は真逆だけど。
興奮を隠して目立たないよう振る舞う私は、あの頃よりも遙かに成長しているだろう。推しが真正面にいるこの状況で、平静に振る舞えているのだから。
写真だったら穴が空くほど見つめられるのに、実物だとそうもいかない。推しを見ていたいけど、推しに不快な視線を浴びせたくない。
ああ、マジックミラーさえあれば! ……いやいや、推しが鏡に映る自分と会話する人になってしまう。
「ねえ、そろそろじゃない?」
結城先輩が時計を見た。
時刻は十六時四十分。先輩たちの美容院の予約は十七時だったはず。
「美容院って近いんですよね?」
「うん。このマンションからだと歩いてすぐ。車乗らないほうが早いかも」
「一方通行も多いですよ、このあたり。歩いたほうがいいと思います」
「じゃあ私たちは歩いて行っちゃうとして、とにかく出ようか」
「そうね。……あれはいつまで見てんだが」
そう言って橋本先輩が弟さんを見やる。
ドラマはサスペンスドラマだったようで、ヤクザたちによる銃撃戦が繰り広げられていた。銃声がけたたましい。
「あのドラマって何時終わりかな」
「十七時ぐらいだったと思いますよ」
待っていたら予約の時間になってしまう。
「翔哉ー! もう帰るよ-!」
「今いいとこー!」
「夏休みの子供みたいになってる」
クツクツと結城先輩が笑う。
クッションを抱いて丸めた背中は、遠目に見ると確かに小学生のようだ。
「しゃーない、あれ待ってると埒明かないから先に出よ。桜は買った物、後日でもいいでしょ」
「明美ちゃん困るでしょ」
「そうだった。じゃあちょっと電源切ってくる」
「いえ! お気になさらず……!」
先輩が強制終了しに行こうとするので、慌てて押しとどめた。
そんなことされたら、帰りの車内がすごく気まずくなってしまう。ただでさえ二人きりは気を遣うのに。
「このあとの予定とかないんで、終わるの待ちますよ」
先輩たちが歩いて行けるのなら、私たちがすぐに家を出る必要はない。あと二十分で終わるのなら、終わるのを待ってから二人で出ればいい。
「いいって。あんなのに気を遣わなくて」
「全然! まだコーヒー残ってますし」
実際、平静を保つことに全力になりすぎて、コーヒーにはあまり口を付けられていない。そっと手で包み込んでみるも、すっかり冷め切っていた。アイスにしておけばよかったかも。
「そう? 明美ちゃんがいいならそれでいいけど。じゃあ、弟に送ってもらって」
「はい。今日はありがとうございました」
「私たちもありがと。楽しかったよ」
「翔哉ー! 私たち先行くけど、ちゃんと明美ちゃん家の前まで送りなさいよ-!」
「あーい」
生返事を返す弟さんにあきれながらも、先輩たちは帰っていった。
――このとき、なにがなんでも先輩たちと一緒に外に出るべきだったと、のちの私は大いに後悔するのである。