表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

02 レスられ妻

 


 マスメディア部に異動した宏斗は忙しかった。

 ウェブ広告部もクライアントとの打ち合わせや急な依頼はあったけれど、基本的には自分のペースで仕事を続けられたのに対して、マスメディア部は相手のペースに合わせることが多い。

 コンペもあるから締め切り前は徹夜の日もあったり、撮影の日は一日東京出張だったり。取引先の接待も多くなった。


 病院と家の往復くらいの私とは、別世界に行ってしまったようだ。


 家事くらいしかすることのない私だけど、夕食は食べてもらえないことが増えた。


「せめて五時頃までに連絡してくれると助かるんだけど」

「仕方ないだろ、仕事は突然入るんだから。冬子だって同じ会社にいたんだからわかるだろ、うちの部が忙しいことくらい」

「う、うん。ごめんね」


 かと言って作らないというのも罪悪感がある。私は家で何もしていないのだから。子供もいない、家事もすることがない、ただ家に一人でいると世界から取り残された気がした。



 ・・


 忙しさに比例して、妊活もうまく行かなかった。


 いつも仲良しなカップルはタイミングをはからなくてもいいだろう。

 でも、私は排卵する日を病院で知っている。

 確かで、便利なことだけど、それは私たちの仲を遠ざけた。


 その日は宏斗が早く帰ってきて、自分が関わったCMがテレビで流れて宏斗の機嫌はとにかくよかった。



「冬子」


 二人並んで寝ようとして声をかけられる。そういう雰囲気を感じた私は咄嗟に言ってしまった。


「ごめん、今日じゃなくて明後日はどうかな?」


 私は知っているから、まだ今日は排卵の可能性がないことを。

 ニコニコしていた宏斗の表情がすっと冷めて、ため息をつく。


「はあ、萎えるわ〜」

「ご、ごめん」

「それ言われた気持ち考えたことある?最近そればっかだよね」

「そうだよね、本当にごめん。……今からする?」

「いや、もういいわ、おやすみ」


 宏斗は背中を向けてる。やがて寝息が聞こえた。


 疲れてる中で宏斗も協力してくれているのに私は最悪だと思いながらも、じゃあ宏斗は私の気持ちを考えたことがあるのだろうかと不満も感じてしまう。

 ここのところ数日置きに排卵チェックに通っている。あの椅子に座って、足を開くと、何も減らないはずなのに、何か減り続けている気がするのはなんでだろう。


 なんだか最近謝ってばかりだな。疲れたな。早く眠ってしまいたいのになかなか眠れなかった。



 ・・


「今日はタイミングを取る日なのに」


 もう日付が変わりそうだ。今日は取引先との接待だとは言っていたがそれにしても遅い。私は焦る心が止められず何度もスマホを確認する。

 昨日は気分ではないと言われ明日は出張だ。今日しかない。


 今月は辛かった。薬がうまく効かなくて、初めて注射で排卵を促した。薬よりも作用が強い注射は、効きすぎてしまった。通常一つしか大きくならないはずなのにいくつも卵胞が大きくなって私の下腹は見るからに膨れていた。注射は痛いし、ガスが溜まったような不思議な気持ち悪さもある。

 辛かった今月は絶対に成功させたい。……これは私のエゴなのだけれど。



 メッセージの通知が来た。宏斗からではない。同期の百合からだ。


『取引先に飲まされまくって宏斗潰れちゃった、送ってる!もうすぐつくから下に降りてきてくれる?』


 メッセージを読んで急いでマンションのエントランスに向かうとちょうどタクシーがマンションの前についたところだった。


「久しぶり、冬子!元気だった?」


 まずタクシーからショートカットの女性が降りてきた。宏斗と同じマスメディア部で私たちの同期の百合だ。


「ごめんね、二次会でかなり飲まされちゃったみたいで。家わかるの私だったから送ってきた」


 タクシーを覗くと宏斗はいびきをかいて寝ているようだ。


「なんとかタクシーまでは押し込んだんだけど」


「ありがとう百合、本当にごめんね」


「ううん、大丈夫!ほら宏斗ついたよ!」


 百合が肩を叩くと宏斗は目を開けてむにゃむにゃ呟いている。


 どうやって上に連れて行こうか、よりも先に、今日はもう無理そうだなと落胆している自分に気づいた。


 百合はスーツ姿でしっかりメイクをしているのに対して、私は部屋着にすっぴん。私たちは一緒に入社して、一緒に仕事を頑張ってきたはずなのに。どうして私は今こんな毎日を送っているのだろう。



 ・・


 それからも私の毎日は変わらないけれど、宏斗の仕事だけは忙しくなった。


 妊活はうまくいかないままだ。

 タイミングを指示されるのはムードがなくて嫌だと言われたから、排卵日にはハートのスタンプを送ることになったのだけど、一度もその返事が返ってきたことはない。


 私の検査だけは進んでいた。

 精子を殺す抗体がないか等を調べるフーナーテストや、卵管に詰まりがないか確認する卵管造影検査をしてみたり。


 でも宏斗にやる気がないのであれば、いくら検査したって何にもならない。排卵だけ出来ても、私に問題がなくても、行為をしなければ妊娠には至らないのだから。私の気持ちだけが焦っていた。



「冬子、△△って化粧品メーカー知ってる?」


 夕食の席で、宏斗は上機嫌で質問をした。


「もちろん、私もそこのシャドウ使ってるし」

「なんと、そのメーカーのコンペに勝ったんだよ!相手は毎年採用されてる大手代理店だから無理だと思った」

「すごい、おめでとう!」

「いやー本当に嬉しいな」


 嬉しそうな宏斗の顔に私も嬉しくなる。最近疲れ切っていたり、残業が多かったから、こんなに穏やかな宏斗の顔は久しぶりだ。


「明日はお祝いの飲み会だから夜ご飯はいらないよ」

「わかった」

「これからまた忙しくなりそうだな、撮影自体もかなり長丁場なんだ」

「大手のメーカーだし、大作になりそうね」

「そうなんだよ!何パターンも制作するしな」


 ご機嫌な宏斗はビールをあおった。今日はよく飲む、よっぽど嬉しかったのだろう。上機嫌で話し始めた。


「そう思うと、子供いなくてもよかったかもな」

「えっ?」

「こんなに忙しかったら育児も手伝えないし、子供にも悪いだろ」

「……もう宏斗は欲しくないの?」

「そんなわけないだろ!」


 宏斗は鋭い言葉を投げた。この頃の宏斗はすぐに機嫌が悪くなる。どこにスイッチがあるかはよくわからなくて、でも少しでも押してしまうと途端に顔色が変わる。


「俺が冬子を気遣って言ったのがわからないかなあ?」

「ごめん……」

「こないだ結婚した翔太、奥さん妊娠したってさ」

「そ、そうなんだ……」

「二度とそんなこと言うなよ」


 私を睨んだ後、宏斗はもうその話題はどうでもいいようでテレビに集中し始めた。


 私は宏斗が望んだから、頑張っているのに。楽しかった仕事を諦めているのに。


 ううん、宏斗のせいにしているけど、仕事を続けたいと言えなかった自分のせいだ。宏斗が望んだからじゃない、私だって望んでいた。

 今の私には何もなかった。



 ・・


 宣言通り、宏斗はますます忙しくなった。


 例の企業との打ち合わせが始まったようで、東京出張が激的に増えた。金曜日に出張がある時は、土曜日の夜まで帰ってこなかった。お偉いさんのゴルフに付き合っているらしい。


 さすがにこの期間は妊活も休むことにした。お金ももったいないし、身体も休めたい。

 定期的な通院と、毎日の薬や注射、今月はどうかと祈りながら過ごす日々から解放されて私は実のところホッとしていた。


 しかし、とても暇だった。病院に通わなければ、仕事もなく家事もほとんどない、友人は皆仕事をしている。妊活も休んでしまうと、本当に今の私には何もなかった。



 宏斗のお気に入りのスーツをクリーニングに出そうとしていると、ポケットからたくさんのレシートが出てきた。

 いつも適当に突っ込むんだから、と呆れてゴミ箱に捨てようとしたが、見たことのあるロゴが見えて私はその領収書を取り出した。


 ――やはり有名なホテルのロゴだ。

 出張で使うには不釣り合いな高級ホテルで、東京ではなく私たちの市のホテルだ。


 誰かのレシートが紛れ込んだのかしら。と心でつぶやいたけど、これは宏斗のものだと私は心のなかではわかっていた。


 手が止まらず次のレシートを確認する。次はビジネスホテルのレシートだ、でもやはり東京ではなく我が家からもわりと近いホテルだった。


 宿泊施設のレシートは他になかったけれど、気になるレシートはいくつかあった。

 私はスマホのカレンダーで宏斗の出張の日を確認しながら、レシートと照らし合わせた。


 前入りで東京出張に行っていたはずなのに、会社の近くのコンビニでお弁当を買っている。

 また別の日の夜は誰かと会社の近くの居酒屋で飲んでいた。レシートの内容を見るとお通しは二つ、誰かと二人だ。


 湧いてきた答えは一つしかなかったが、信じたくない私はそれらをゴミ袋に突っ込んだ。明日は燃えるゴミの日だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ