掃除当番
「ただいま……」
帰りの挨拶に返事がなくなるようになって久しい。妹の沙紗と同居してるが、いてもいなくても結果は同じだ。母さんが生きていて、父さんがまだ家にいた頃。沙紗もまだ素直で、俺のことも純粋に慕っていたな。今では見る影もなくなってしまったけど、それでもまだかわいいものだ。朱に染まるワイシャツ、穢れた屑共の血に比べてしまえば。
俺は絡んできた三人組を折檻した。ただしこれは罰であり、もちろん殺すことまではしていない。楽しんだり、結果として殺すようでは、いじめや暴力と変わらない。二度と思い上がらぬよう、傍目にも危険な奴であると目印に、丁寧に慎重に鼻だけを潰してあげた。泣いて謝りはしてくれたが、心を改めてくれるだろうか。
そして今となれば、次の登校を待ち遠しく感じている。偶然出会った輩ではなく、ずっと恨み続けた害悪ども。この力さえあれば復讐なんぞ、いとも簡単に行える。あぁ、苦しむ奴らの顔を想うと、胸の高鳴りが収まらない。
そんな妄想に耽りながら、ワイシャツを放り、鼻歌混じりに洗濯機を回す。すると背中に突き刺さる視線を感じて、慌てて振り返り見てみれば、そこには肩ほどのボブヘアに、二つの毛束が耳脇で揺れる。痩躯で小柄で、最近まではつるぺただった、我が妹が眉を顰める。
「げっ、沙紗……」
「なぁに一人で歌ってんだか。きもいきもい」
「いつもは遅いのに、今日は友達とは――」
「うるさい」
やはり相変わらず辛辣だ。病院での泣き声はやはり、俺の幻想だったのだろうか。
洗濯に掃除に、そして今日の夕食も俺の担当。家事は分担して行うと、それが当初の決まりだった。しかし今となっては、九割の家事を俺一人でこなしている。沙紗がすることといえば、自分の分の洗濯物くらいだ。最近少し上がったブラのサイズ、洗濯物を取り込む際にそれに触れたら、死ぬほどに沙紗に激怒された。
できた夕飯は、普段はラップに掛けて取っておく。沙紗は毎日のように友達と遊んで、帰ってくるのは夜遅くだ。稀に家に居たとしても、自分の部屋に閉じ籠もって、ご飯を一緒にすることなどほとんどない。
退院祝いも兼ねて、その晩は赤飯を炊くことにした。一人パーティなど空しいが、俺に優しくしてくれるのは俺しかいない。だから特別に鯛の刺身も奮発だ。俺と妹の二人暮らしだが、幸いにして父は金銭感覚にも疎く、仕送りの金額だけは十分なものだった。とはいえ沙紗はしょっちゅう小遣いをせびり、断れば二人の金だと言ってきかない。生活費を差し引けば、俺の自由に使えるお金は僅かで、それすらもクラスメイトに毟り取られる。
ご飯ができれば、それを沙紗の部屋の前に置いておく。家にいる時はそれが決まりで、そしてノックを二回。それが晩飯の合図なのだが、今日は沙紗の分を盆に乗せたところで、背後でがたんと音がした。振り向けばぽつんと、珍しく食卓に付く沙紗の姿がそこにあった。
「沙紗? ご飯は部屋に――」
「早くしてよ、お腹空いたの」
そう言って、沙紗は急かすようにテーブルを叩く。よもやここで食べると? それとも俺が部屋で食べろって?
「お兄ちゃんは部屋で食べるね」
「なんでよ、別にここで食べたらいいじゃない」
う、うぅん。どういう気の変わり様だろう。なんだか少し怖いけど、とりあえず腹を空かせているようだし、早いところ飯を与えて黙らせよう。
「はい、沙紗」
「うん」
配膳を終えて卓に付き、いただきますを言って食事をはじめる。沙紗は無言のままだったが、口元はもごもごと動いていた。
会話もなく、箸を伸ばしては口に運ぶ。せっかくのご馳走だというのに、なんだか緊張して味がしない。果たして沙紗は、なぜ今日に限って夕食を共にしたのだろう。
「お兄ちゃんってさ――」
「え?」
「学校でいじめられてるんでしょ?」
開口一番がいじめって。そしてそういう話は、恥だと思うから話さない。それが今までの弱い俺で、しかし無敵のこれからはそうではない。
「そうだね。お兄ちゃんはずっといじめられっ子で、それで病院に運ばれたんだよ」
「よく平気で言えるね……って……ださいよ」
ださいって、いじめに格好いいもださいもないんだけどな。時々いじめる方がださいって、正義ぶったことを言う人もいるけれど。人殺しを、リンチを、レイプを、かっこいいのか悪いのか、そんな基準で話すなんてことはないはずだ。いじめはそれらに並ぶ犯罪行為で、行う人間はださい人じゃなくて犯罪者だ。
その後は再び無言が続く。腹が空いたと言った割には、小盛りいっぱいを平らげると、沙紗はそそくさと席を立った。
「おかわりは?」
「いらない、おやすみ」
そしてようやく味が蘇る。もりもり食べて、俺も今夜は早くに寝た。
来たる翌朝は、いつもより早くに家を出ることにする。普段はぎりぎりに家を出て、そうすることで絡まれる時間を少なくしていたのだ。これまでの人生の通学において、これほどに足取りの軽かったことなど今まで一度もないだろう。生まれ変わった肉体もだが、しかしなにより心持ちが、足を前へ前へと進めていく。
教室の前まで辿り着くと、既になにやら騒めきが聞こえる。はてなにやらと、しかし大方予想も付いている。俺は死にかけた人間で、ならば彼らのすることは。
扉を開いて、窓側二列目の前から三番目。そこが俺の席であり、机上には菊の花が置かれている。俺をリンチにした四名の生徒が机を囲み、物音に気付いて振り返ると、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべはじめる。
「あれぇ、朝上。今日はやけに早いじゃん」
「死んだと思ってたのによぉ、せっかくの花が台無しだろ」
「いいじゃん別に、また殺せばいい訳だし」
そうして腹を抱えてげらげらと、合わせて俺も高らかに笑う。
「あ? 何が可笑しいんだよ」
「いやいや、俺を驚かせる為に健気に花を買ってくるなんて、それを想像したら可笑しくって――ぷふっ」
だって、そうだろ? 俺の為に献花を買って、ドッキリ紛いの仕掛けを用意する。ある意味これって、途轍もない特別扱いなんだなって。
「お前さ、何か勘違いしてない? 楽しむのは俺らだけで、お前がするのは苦しむだけだっつーの」
「せっかく早くに来てくれた訳だしさ。今からソッコー、便所に連行しちまおう」
その誘いを聞いて、身体はぶるぶると震えだす。怯えていると彼らは笑うが、しかしこれは武者ぶるいだ。これからはじまるエンターテイメント、それが嬉しくて楽しみで、期待に心が躍り出す。
そうしてトイレに連れていかれ、俺は突きあたりの壁際に立つ。四人はここで何をするか。だがこの場はトイレであり、人を殴る場所ではない。であれば当然、便器を前に彼らは並んで――
「はぁ、溜まってたんだよ」
「朝から快尿、快尿」
「んじゃまぁ、出るものも出たところで」
「朝上くん、いつものように便所掃除だ」
これがリンチと並ぶほどに、俺の精神を蝕んできたものだ。奴らの使用後の汚れた便器を、俺の口で掃除する。一時これで、俺は飯を全く食えなくなった。後遺症は今なお続いており、俺はコップや透明のボトルなど、液体が見えた状態で飲み物を飲めなくなってしまった。
そんな生涯に続くと思われたトラウマも、この日限りで克服する。それだけの特異な力を、俺は有することができたのだから。
「便所掃除は当番なんだから、今日は君らがやってくれよ」
「え、えぇと」
「良く聞こえなかった」
「まさか今――」
「なめたこと言ってないよな」
言ってないよ。それに俺はもうなめたりはしない。それをするのは今これから、貴様らの方なんだからな。
俺は便器の前に屈むと、縁を両手で掴んで、結局なめるのかよと嘲笑う彼らを前に、便器丸ごと引っぺがした。
「え……」
「は……」
「う、嘘……」
「だよな……」
にこやかに振り返り、便器を頭上に振り上げる。同じく目線を上げる一人の頭に、それを軽ぅく振り下ろし、間抜けな頭を勝ち割ってやった。
自分の小便と血に塗れ、床に突っ伏し痙攣をはじめる。それを見ていた残りの者は、途端に青ざめ震えはじめた。
「次は、君だね」
「ご、ごごご、ごめん……なさい……」
「その言葉、俺が言った時に止めたことある? 俺の妹でも自分の洗濯くらいはするんだから、我儘言わないで掃除をしなさい」
そうして震える脳天に便器を一撃。次なる対象に目を移す。
「わ、分かった……ちゃんと自分で掃除するから、だから——」
「なるほど、じゃあ宜しくね」
己で己の小便を掃除する。少し見てみたい気もしたが、奴が便器に顔を近付けた時、そのまま後頭部を一蹴り、壁に頭を埋めてやった。
「さあ、最後の一人だね」
「お、お前……朝上じゃないのかよ」
「何を、もちろん俺は朝上さ。君たちが一度は殺した、朝上救世主で間違いないよ」
ただし俺は生まれ変わった。誰にも負けない無敵の肉体、それを得て蘇ったのだ。
「ゆ、許して……」
「うぅん、どうしようかな」
「お願いだ、頼むから」
やれやれと、ふうと一息。そして俺は人として、ごく自然なことを教えてやる。
「あのさ、許す訳ないだろ。俺はお前を今から殺す。四肢をもいで、目も耳も鼻も削いで、歯も引っこ抜いては舌も股間も引き抜いてやる。そして臓物を引き摺り出したところで、お前を許すことはないんだよ」
「ひ、ひぃぃぃ……」
そして死へのカウントダウン。指折り指折り、五指を順にへし折っていく。
「ぎぃあああぁぁぁ……」
「さあ、懺悔を語ってくれ! 口が利ける間にな!」