異世界に転移しても、僕は弱いままだった
僕は深緑の絨毯のような草原の上で目を覚ました。どうしてこんなところにいるかという疑問はこのときの僕には毛頭ないのである。というのもどうせこれは夢だと思い込んでいたのだから、どうせなら目が覚めるまで自然の美しさを享受しておこうという心持ちであった。
目の前に広がる空は海のように平らで、からだが空にすうっと吸い込まれるように柔らかであった。まぶたの隙間から差し込む優しい光、さわやかな風が僕の体をすみずみまで濾過してくれる。ーーもしアダムとイヴが暮らしていた「エデンの園」なるものが存在するのであれば、それはここだと僕は断言できる。
僕はしばらく歩き回っていたが、動物らしきものは見当たらない。花や樹が使われることのなかった動物の力強いエネルギーを思う存分に発揮するかのように空に向かって自分の美しさを見せつけたのであった。僕がアダムに乗り移ったかのような気持ちになった。
フワフワとした草原にぽつんと咲いていた紫のグラジオラスのような花を眺めているときのことであった。(というのも、僕は花に詳しくないので断言出来なかったからである。)その花は一般的なグラジオラスより小さい。周りの植物はいきいきと背を伸ばしているのに対し、この花はあまりにも広大な空に押し潰されているかのようで、葉に滴る水の玉もどこか寂しげであった。
突如としてこのあたりは真っ黒に染まる。上を見上げると、そこにいたのはこの空に負けじと翼を広げた竜の姿であった。頭から空に突き刺すような角、睨んだだけで植物を枯らしてしまいそうな瞳、浮き上がる血管が見える腕からはこの柔和な草原を拳一つで薙ぎ払ってしまいそうだ。僕の夢のようなひと時はこの竜によって打ち砕かれた。
巨大な竜の背から2人の人影が見えた。やがて2人は竜の背から飛び降り、僕のほうにそろりそろりと向かってくる。禁断の果実がハサミでぼたりと落された気分になった。そして、一人のギリシア風彫刻のような顔立ちをした男は僕にこう話しかけるのであった。その声は穏やかではありながらも、どこか疑念の念も含んでいるかのようであった。
「…どうして君は裸なんだい?」
日照りによってひびが入った湖底のような竜の土色のうろこをぼんやりと眺めながら、僕は竜の背に渡された布を腰に身に着けて、ちょこんと座っていた。ギリシア風彫刻の顔立ちの青年の隣にいる重厚な鎧を身にまとった男に蛙のようなしゃがれた声で話しかけられた。
「このあたりはムラのひとつもないからなあ。なのにどうして君があそこにいたのか俺にはまったくわからないのだよ。」
「酒に溺れてあんな所に迷いこんだとしてはあまりにも不思議だ。もしかしたら別の世界から迷い込んだのかもしれないね」
と青年は独り言のようにつぶやいたのであった。
「お前こそ酒を飲んでいるんじゃあないだろうな。こいつはどうせ竜から落っこちた腑抜けな男だよ」
鎧の男はそう笑い飛ばすのであった。
草原の先に見えた急峻な山脈を越えると、やがて雲のように広がる森林が見えてきた。木々は親から与えられる餌を我先にもらおうとする小鳥たちのようにぐんぐんと背を伸ばしている。木々の間を悠々と闊歩する竜の親子も見かけた。翼はないもののキリンのように長く伸ばした首と、象のようにたくましい脚からはこの世界における自然の巨大さをひしひしと感じられた。興奮した僕はここで初めて、ぼそりと口を開く。
「竜なんて初めて見たよ。」
鎧の男は口をぽっかりと開けて、
「おいおい、記憶がなくなっちまったのか。竜なんてものはそこらじゅうにいるんだぜ?あの首なが竜なんてポピュラーなペットさ。」
男は瓶に入った黒が混じった赤い液体を飲みながら続けていった。
「あんなかわいい竜なんかに比べれば、いま俺たちが乗っているこいつは数十倍の価値がある。なんせ空を飛べるし、服従を誓い、飼い主をお守りする。強いから襲われることもない。それになんといったって、こいつの血は美味いからな。」
どうやら彼の飲んでいる飲み物はこの竜の生き血らしい。僕は青年に質問をした。
「水はないのですか?」
「みずだって?そんな高級品あるはずがないだろう。だから僕たちは竜の血を摂取するしかないんだ。君の住んでいたところは水が飲めたのかい?」
「発展した国であれば、どこでも。でも竜はいません」
「君はずいぶんと良い暮らしをしてきたんだなあ」
青年は驚いた様子でそうつぶやいた。
彼らの家はこの森のなかにあるようだ。男たちの用意していた簡易式のはしごで降りていった。鎧の男が腰につけていた角笛を吹くと、竜はこの体格に見合わない文鳥のような甘いさえずりを響かせながら山脈へと向かって行った。どうやらあのなだらかな山脈が彼の住まいのようだ。青年は微笑み、
「あいつはでかすぎて俺たちの家には入らないからね。あの山脈に住まわせたほうがあいつのためにもなるんだ。それじゃあ俺たちの住処へ案内しよう。」
森はあの草原とは異なり、陰湿な雰囲気で充満していた。動物の気配は感じるものの、森に同化するかのように息を潜めているため、彼らのオーラが木々ににじむように伝わってくる。あの楽園のような草原とこの陰鬱な森の共通点を一つ挙げるとすれば、底からとめどなく噴き出すような生命感に違いない。空に押されて地表にこそ現れないが、そこには確かに莫大なエネルギーがあるはずだ。樹木の根というのは、樹木の占める空間の数倍を占めるそうだが、この世界でもそれは変わらないのだろうか。この樹木の下で、根は他の樹木の根と交わりあって連鎖し、網のようになって、この大地を底から掬いあげる、僕はそんな妄想を思い浮かべた。
彼らは大きな樹木にくり抜かれた穴に潜っていった。僕も後に続くとそこに彼らの住まいがあった。天井には豆のように小さなランプが吊り下げられ、木の古びたテーブルに2脚の椅子が向かい合っている。壁にくり抜かれた穴には擦り切れた本が何冊と、あの液体で満たされた大きな瓶が置かれている。青年は僕のほうに振り向き、
「本当はムラに連れていってあげたいんだけど、もう日が沈んでしまったことだし、今日はここで泊まろう。」
青年は鎧の男の持っていた赤い液体を飲みながら付け加えてこう言った。
「それにそんな姿でムラに入ったら皆に怪しまれるだろうから」
「僕のことは牢屋に入れないのですか」
青年にとって、この質問は愚問にちがいなかった。
「君みたいな不思議な人間をそんなところに入れておくはずがないだろう。君のことは『遭難者』として上部に報告する予定さ。そのかわり君は前にいた世界について話す。みずが自由に飲める世界なんて面白いに決まってるからね」
彼は声のトーンがあがりながらも微笑んでそう言った。
鎧の男は頭を覆っていた兜を外して、部屋の隅に置いた。男は浅黒い肌で頭は五分刈り。無精ひげ、まん丸な団子鼻が目立つ。微笑を浮かばせながら手のひらに竜の血を注いだコップを置いた。手は大きく、ぼろぼろの爪や数か所の大小さまざまの傷が目に入った。少しの時間が経過するとゆっくりと僕に差し出し、
「飲んでみるかい。酔いが冷めるにはこれが一番いい。」
コップを受け取ると、なぜかコップはほんのりと温かくなっていてうっかり落としてしまいそうだった。竜の血はやや酸味があるものの、舌にしっかりとしたコクがある。のどから胃にかけてしみこむように温かさが伝わってくる。血であることさえ知らなければホットワインだと思って買ってしまうかもしれない。
「どうだ美味いだろう。もしこれを市場に出そうものならあのムラごと買えるような金が入るだろうさ。そんな代物をタダで飲めるお前は運がいいよ」
鎧の男は大きな笑い声をあげながらそう言った。
青年はテーブルの下にあった木製の箱から黒くて丸いボールのようなものを取り出してテーブルの上にそっと置きながら僕に話しかけた。
「それじゃあこれから魔法の説明をしよう。君の世界ではおそらくないだろうからね。」
彼の説明によると、この世界における「魔法」にはいくつかの種類が存在するそうだ。以下の順番は汎用性の高さに基づくものである。
1.「火」……物を燃やしたり、温めるのに用いられる。コップが温かったのは男が魔法を使用したからである。
2.「生命」……植物の成長促進や知能の低い動物を操るのに用いられる。どうやらゲームに出てくる「回復」という概念は存在しないようだ。
3.「力」……近年開発された新しい魔法である。この発見によって、物体の移動など今まで人力で行っていたことを魔法で解決できるそうだ。しかしこの魔法によって力仕事を生業としていた労働者の失業者数が増加することが社会問題となり、制限すべきとの声が挙げられている。
4「水」……「力」から派生したもの。水の操作が可能になり、将来は水の生成や漁における効率性を高めるとの期待が寄せられている。一方、研究に必要な純水の入手が困難なことや、「力」によって生まれた問題も懸念され、実現化にはまだ時間がかかるそうだ。
青年は次に黒い球体の説明を行った。これは手を当てることで触れた人間に最も適した属性を教えてくれるそうだ。かつては「火」と「生命」の二種類しか判別できなかったそうだが、この球体なら先ほど挙げられた「力」や「水」も判別できるのだと、彼は自慢げにそう語った。ちなみに青年は「生命」の魔法が適しているそうで、その場合は球体が緑色に染まるようだ。
彼は説明を終えるとすぐに僕の手を取って、黒い球体の上に乗せるのだった。それも半ば強制的にである。鎧の男はすでにカエルの鳴き声のようないびきをあげ、コップは冷めきっている。空は青紫色のカーテンがかけられていた。
黒い球体は見た目通りの触り心地でツルツルとしていた。ひんやりとして気持ちが良かった。ーーどれほどの時間が経過したのだろうか。黒い球体は、いつまでたっても、黒いままであった。青年はしびれを切らしたのか、僕の手をどかし、そこに鎧の男のいかつい手のひらを乗せた。すると黒い球体はすぐに赤色の球体へと変わった。この男は「火」の魔法が向いているようだ。
「これは実にけったいな話だよ。これはどんな人にでも反応するはずなのに!」
青年の愁嘆もむなしく、球体は僕に関しては終始無言を貫いていた。
鎧の男が2脚の椅子の上に横たわってカエルの鳴き声のようないびき声を上げている。僕たちは固い地べたで寝ることになった。
寝る直前に青年は何かを思い出したかのようにつぶやいた。
「ああそうだ。一つ忠告しておこう。いいかい、もし用を足したいなら地上に上がってすぐに済ましてくるんだ。夜は危険な生き物が活動する時間帯だからね。」
「魔法じゃ追い払えないのですか?」
「なるほど。『魔法で追い払う』ね」
青年は僕の言葉を反芻してこう言った。
「いいかい。残念だけど、この世界の魔法は君の予想よりはるかに貧弱なんだ。」
その話によれば、戦いにおいて魔法というのは使いものにならないそうだ。戦いにおける主戦力は竜である。その事実に疑念の余地はない。あの大きな体躯を前にしては、「炎」などマッチに等しいのだ。魔法を覚えるよりも竜を飼うことのほうがはるかに恩恵を得られやすいというのが世間の認識であった。
真夜中のことである。僕は用が足したくなったので青年が用意してくれた弱々しく、なんとかして炎の形を保っている蝋燭を持って地上へと上がった。空はすでに青紫色の絵具で染められていた。獣を起こさないように薄氷を踏む思いで用を足した。こんなに怖い思いをして用を足すのは小学生以来だろうか。トイレに向かう途中、夕方に見たあの心霊番組がフラッシュバックしたために震え上がってしまった。「おねしょしてしまってもいいから目を覚まさなければいいのに!」とまで思ってしまうほどに。
部屋につながるトンネルに戻る最中、突然僕は体を石化させてしまうような鋭い視線を感じた。恬然とした姿を装ってはいるものの内心はすっかりとおびえていた。あの感情がそのまま蘇ったかのようだ。僕は首だけを回転させて、その正体を覗いた。その姿はくっきりと確認できたが頭巾を被っていたために顔は見えない。大きな布で身体を巻いているため、袖が手をすっかり隠していた。もし遠くから眺めたら幽霊と勘違いしてしまうだろう。
「ムラに着いたらその日の夜に月桂樹の下に来て。」
物憂そうなつぶやきに似た声を発したあと、踵を返してしだいに闇に染まるように消えていった。
僕は気づかないふりをして無言で地下へ戻り、そのまま寝た。内心は獣や幽霊の類ではなかったことの安堵感ですっかり満たされていた。
カクヨム
前のエピソード――第5話
第6話
僕は夢を見ていた。僕がいた場所は中学校の帰路で、懐かしい中学生の制服を着て、ぼんやりと歩いていた。空はどんよりと雲が降りている。空気が澄みわたり、冷たい風が吹きつける。季節は冬に差し掛かっていた。車のエンジンの音が絶えず響き、近くの山にわずかにこだまする。右には屈強な高校生らが集団になって走っている。ここはいわば都市部と山間部を繋ぐトンネルのようなもので交通量がとにかく多い。僕の中学校は山間部にあった。地元では有名な進学校で、高偏差値の高校の常連であった。一方、恵まれない学生も中にはいる。僕はそのうちの一人だった。いま振り返ると、彼らと僕の違いは自我の目覚めにあったのかもしれない。彼らはとにかく頭が良かった。自分を知っているのでどこが課題なのか、自分は何をすべきか、意識せずともわかっているのだろう。僕はまだ自分のことについて何も考えず、今日の授業をどうさぼっていこうかなどという低次元の思考をめぐらすばかりだった。彼らは自分のことについて知っていた分、とにかくプライドが高かった。僕の中学校について高飛車な人間が多いという人もいるがそれは否定すべきものである。彼らは絶え間ない努力をしてきたからこそ、誇りを勝ち取ることができた。まずいのは、その努力にも見合わない自負心を手放さない人間のことである。こういう類の人間は周りのプライドの雰囲気に感化されて、どこか自分には「隠された力」があると信じて止まず、周りをとにかく卑下するのだ。そういったことにばかり目が向くので本来注目すべき大事なことについては何も考えないのだ。おそらく考えるのが怖いのだろう。誰を糾弾すべきか、それは間違いなく僕だ。この人はいつもはぼんやりしているくせに、気まぐれな自尊心に身を任せているような人間だ。もしあのときこのことに気づいていれば、何か変わったのだろうか。
僕は首に巻いたマフラーを気づいた。―はて、マフラーなんていつ巻いていたのだろう。茶色と黒色のチェック柄で滑らかな肌触りで、軽いので心地が良い。誰かにもらったはずなのだが、いかんせん思い出せない。
突然何か大きなものにぶつかったような衝撃がしたので、ここで夢は終わった。
どうやら青年が僕の体を揺らしていたようだ。もっと優しく起こしてほしいものである。床に寝ていたので腰が痛い。青年は僕の事情を気にせず、話しかけた。
「そろそろ起きてくれ。出発の時間だ。」
うろこは遠くから射す曙の光を反射し、宝石のように輝いている。口からわずかに漏れ出す橙色の炎、空気を震わすように滾る血脈の振動が僕の身体にまで伝わる。猛々しい巨体に見合わない美しさがそこにはあった。
美辞麗句を並べている僕は不躾にもその美しい獣の上に座り、固いパンをもそもそとむさぼり、竜の血で飲み流す。味がないのでどうもつまらないが文句は言えない。「血」と言われて当初は慄いたものだが、意外にも気に入ってしまった。せっかく面白い夢の中にいるのだから、本来は感染症などを考慮すべき事態にも疑問の念は浮かばない、存分に楽しませてもらうことにしよう。夢にまで現実を持ち込むのは野暮に違いない。
しばらく風に吹かれていると、遠くからほかの竜も見られるようになった。彼らは海に浮かぶクラゲのようにゆらゆらと空を流れている。青年はこちらに向かってくる竜の騎手に右手を挙げると、向かい側の騎手も同じ動作をする。合言葉なのだろう。ムラはなだらかな丘の上にあった。緑色のとがった切妻屋根がぽつぽつと見える。
「野生の竜に襲われないように緑の保護色の屋根にしているんだ。木々と同じ角度の屋根にすることで違和感をなくしている。」
青年は僕と同じ方向を眺めて求めてもいない答弁をした。竜はそのまま紙風船のようにふわふわと下降していった。
地に足を降ろすと、団子鼻の男と同じ鎧を着ている男が駆け寄ってくるのが目に入った。男は団子鼻にはつらつとした声で話しかける。
「やあ、警備おつかれさま。異常はなかったかい」
「特になかった。見つかったのはこの破廉恥な間抜け野郎だけさ」
「どういうことだ」
「いや、実にけったいな話でね、こいつ草原に裸で立っていたんだ!記憶もなくなっていてね、水がただで飲める世界からきたなんて抜かしてやがる」
「どこかの回し者じゃないだろうな」
「道具もふんどしも持っていないのにどうやって密告するんだ」
「それもそうだな。それじゃあ『遭難者』ということで報告しよう。」
男は立ち去ってくれた。金属の重なる音はやがて小さくなった。
「いやあ良かったね。わかってくれて。」
青年はすました顔で僕に耳打ちをした。こうは言ってはいるが、昨夜僕に関しての報告を担おうと約束したのはまぎれもなくこの青年であった。