3年後
ようやく、スタートラインです
壁に手を当てる。
余人からすれば、一見すると疲労から壁に身を預けている様にしか見えない。
しかし、これこそがわたしの宿す『魔具』の使用法、その一つ。
あの方から賜った「わたし」の使い方。
精神を整え大きく息を吸い込む。
そして、わたしの能力、『伝播する細波』が開放される。
「(アリヲ・ルイス!お嬢様がお呼びです!早々に参上なさい!!)」
声帯を震わせた空気の波が、わたしの手を伝い壁へ、壁から屋敷中に広がっていく。
一分。
二分。
しばらく待っても何の反応も返ってこない事を確認すると、わたしは可能な限り静かに壁から身を離した。
———そうしなければ、この胸を掻き毟るような不快感をぶつけかねないから。
そんな無様な侍女はあの方に相応しくない。
イルヴィー・モウレーネはシャルロッテ・フォン・ヴェルステインの侍女なのだから。
そう、この3年で何度も自分に言い聞かせた文句を復唱する。
「———お嬢様がお呼びだというのに、一体どこにいるのですかあの男は———ッ!」
口の端から零れ落ちた苛立ちを最後に、どうにか平静を取り戻せたわたしはお嬢様の部屋に足を向ける。
恐らく落胆されるであろうあの方の為に、お気に入りのお茶を淹れて差し上げねば。
◆◆◆
イルヴィーの背が曲がり角の向こうへ消えて行ったことを確認すると、俺は身を潜めていた庭木から身を離し、溜息をついた。
「まったく……なんであぁも絡んでくるんだか。せっかく異世界に転生出来てもこれじゃあ何も楽しくない」
転生したあの日から早くも3年が経ち、俺も9歳になった。
原作開始の時期まで残り6年だが、かつては夢と希望に満ちている様に見えた異世界転生も今はどこか空しく感じる。
あの日、シャルロッテに吹っ飛ばされて出来た怪我が治ってから、俺の毎日は雑用で埋め尽くされていた。
起床時刻は午前4時。まだ日が出ているかどうかも曖昧な時間から朝食の仕込みや材料の確認を皮切りに仕事が始まり、御当主様たちの食事の余りで作られたまかないをさっさとかっ込んだら休む間もなく畑の整備や種まきと言った畑仕事。
昼食抜きで陽が沈む直前まで続けながら、シャルロッテや御当主様から茶の催促でもあれば即座に身なりを整えて茶菓子も添えた茶をサーブ。
畑仕事が終わっても夜食の準備や邸内の清掃に皿洗い、翌日使う野菜の皮むきを熟したら何人もの垢が浮いた温い風呂に浸かってさぁ寝る———前に侍従長たちからのマナー・教養講座を覚えるまで教え込まれる。
理屈は分かる。使用人の仕事は多岐にわたるし貴種血統ともなれば使用人にもある一定以上の教養やマナーは必須だ。
加えて今の俺の肉体年齢は9歳。学習能力が育つ時期だ。
ならば、詰め込めるだけ詰め込むのは理に適っている。
だが、俺の中身である俺は、学習制度が整えられた文明国で生まれ、育ってきた文明人なのだ。
こんなブラックで非人道的な働き方をしていては死んでしまうし、そもそも俺はシャルロッテを手に入れる為に原作が始まるまでに魔具を覚醒させ、尚且つ使いこなせなければいけないのだ。
あんな誰にでもできる仕事をやっている暇はない。
シャルロッテに関係する言葉は省いて説明すると、最初は色々と文句を言っていた侍従長たちも俺の正しさを認めて俺に自由を認めてくれた。
だというのに。あのイルヴィー・モウレーネはしつこく俺を追いかけてくる。
3年前、病み上がりの所をいきなりひっぱたかれた事も含めて、なにか恨みでもあるのかと問い詰めたくなる。
まず絶対に面倒な事になるのでやりたくないが、今後も周囲の迷惑を考えずにヒトの名前を連呼し続けるようなら、その時は多少の被害は度外視して注意してやらねばなるまい。
そう考えながらヴェルステインの領地内に点在する森の一つを目指す俺は、その時は知る由もなかった。
その日、ヴェルステイン家内の有力者たちの間で決議された、1枚のお触書が、俺の異世界ライフを根本から揺るがす事も。
なぜ、俺がアリヲ・ルイスになったのか。その真実を知る人物が訪れている事も。
その時の俺は、知る由もなかったのだった———
イルヴィー・モウレーネ:ようやくタイトルの「魔具」を使ってくれたキャラで、前話のラストで主人公をひっぱたいた少女です。彼女の「魔具」の詳細はまた別の所で書きます。