幸田露伴「さゝ舟」現代語勝手訳(6)
其 六
退屈そうに行儀正しく坐っていた新三郎は、横の方で首を傾げながら婆の顔を愛嬌深い眼つきで覗き込んで、言葉の間を見計っていたが、
「お婆さま、新は小夜ちゃんのところへ遊びに行ってもようござりますか」と、小児には似合わない客の手前を意識したように怖々に言えば、
「おお、いいともいいとも、小夜ちゃんの家へなら遊びに行っても悪うないが、きちんと大人しくして、小夜ちゃんのおっかさまに好い児じゃと褒められるようにするんじゃぞ。しかし、この年長者によくお辞儀をして、それから外へお出、ああ、権七郎、そなたの顔を見ると、直ぐに昔のことばかり胸に浮かんで、一同を紹介わせることを忘れていたが、そなたが知った顔は無かろう。これは私の初孫で、娘のお作が産んだ新三郎という腕白。また、この下に、富之助という、そこにいるお力どのの腹に出来たものがあるが、今は子守に負われて出ているかして居らぬ。さあ、お辞儀が済んだら新は早く外へ出ておいで、出ておいで。それからの、権七郎、そなたが十四、五でこの村へ遊びに五助に連れられて来た頃であったが、それ、家の背面の大きな椿の樹にそなたが上って、小さな腰刀を振り廻しては、絞り模様のような大輪の美しい花を無暗に切り落としてやって、篠竹を経にして、見事な花輪を幾つも作らせ、それを頭に乗せて二人ふざけあったことを覚えていようが、あのお作は可哀想にもう亡くなってしもうたわ。何の私は生きて居とうもないのに、長らえて、娘は今の新を産んだ年に、産後の肥立ちの悪さから引き続いた病によって、僅か三十五で奪られてしもうて、七年の法事を今年の二月、え? ナニ? 去年の二月に執り行うた。確かあれとそなたとは三歳違いであったが、そなたが家出をしたその翌年であったか、翌々年であったか、何でもあれが十九の時、あれには年も一つ上の丁度二十歳の若い盛りのその新右衛門殿を縁あって婿にもらい受けた。三国一の花婿だと囃し立てられた時には月代…男の髪型…の痕も真っ青であったが、今この散髪の胡麻塩になられるまで、私は大層世話を焼いてもらいました。権七郎、よう礼を言っておいてくれ。新右衛門殿、聞いて知ってもおられようが、これは私の実家方の兄、内田権左衛門の一人息子。今は何というか知らぬが権七郎と言うたもので、二十歳の時に家出をしたまま今日まで音信がなかったのに、何年ぶりになることやら、ナニ? もう二十五年になるとか。アア、夢のような、本当に過ぎてみれば覚めていながら夢を見たような。のう、新右衛門殿、二十五年ぶりで不思議にも今日会いました」と、言うと、主人の新右衛門は、初対面の挨拶を田舎気質をあらわして恭しく述べ、改めて朴訥に一礼すれば、権七郎もあらためて、
「昔は久留里の黒田伊勢守様の藩中、内田権左衛門の倅、権七郎でござります。当時は黄檗宗の一僧徒で、僧籍は豊前小倉在済時山金仙寺に属し居りますが、一所に住まず、東西南北、師を訪い求めて仏道を学び、今は、おこがましくも自ら栽松道人と申す者」と、名乗って礼を返す。
そこへ、老婆の話の中頃からどこかへ滑るようにして座を離れ、見えなくなっていたお力という女が、酒、肴を運んで再び入って来た。栽松はすぐにお力を後妻ではないかと怪しんでいたので、きちんと挨拶しようとした時、老婆が、
「権七郎、その婦人はの、お力どのと言うて新右衛門の召使いではあるが、婿殿のためにも大いに役立たれ、また私にも新三郎にも朝に夕に大層親切に世話してくれている頼もしい大事なお方じゃ」と、意味ありげに言う言葉の中にはチクリとした針の光があるのが認められた。
お力の眼はしばしば主人の面を見て、何かを訴えるように見えたが、しかし、僧はそんなことは知らないという風にして、口には出さずに改めて挨拶すれば、お力もまた礼を返して、厭味なお世辞笑いを浮かべながら、『それ、盃を御出家様の前に』と、無遠慮に主人に勧めて出させた。
つづく