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幸田露伴「さゝ舟」現代語勝手訳(5)

 其 五


 先ほどの剽軽(ひょうきん)な爺が良くない女として語っていたお(りき)というのはこの女に違いないと、腹の中で思いながら、僧は草鞋(わらじ)の紐を解いて、足を洗い、にじるようにして座敷に上がれば、薄気味の悪いほど大袈裟にお世辞を言いながら、それ、お煙草(たばこ)(ぼん)、それ、お茶と上手に取りなされ、無骨者のこちらは返事にさえも少し困る気持ちで、ただ生真面目に正座していたが、隣の部屋で新三郎が何やら話す声が聞こえると、やがて隔てていた破れ(ぶすま)が内側から開かれて、もやもやとして乱れた白髪(しらが)の頭が半分見えた。


 さては、これこそが我が叔母上のようであるが、ああ、悲しくも歳をとってしまわれたものだと思うにつけて、昔の懐かしさを心に感じながら、一人悲しみに心を痛めて待っていると、左手を主人(あるじ)であろう四十二、三と思える人に()られて、辛うじて足を引き摺りながら出て来たのは、かつての面影は跡もなく、白い霜が降りたような眉だけには剃刀を当てておらず、それは顔にまで伸びて、眼は朧夜(おぼろよ)の星よりもぼんやりとしていて、物を見ることも(うと)ましげで、歯は無く、口元の皺深く、顳顬(こめかみ)が穴のように凹み落ち込んだ、凄まじい有り様の老婆であった。


 これがその昔、我が母が常々羨ましいと(うわさ)していた、立って地を()く黒髪を持っていた人とは誰も思わないだろう。自分としても、ごく幼い頃に見た、色は真っ白、唇は真紅(まっか)で、涼しい光を放っていた眼のぱっちりしていた人とは到底思えない。恆河(こうが)…ガンジス川…の水が流れるように歳月が過ぎ去り、人が衰えることには今更驚くこともないけれど、変われば変わられるもの……、と言葉も出ず、ただ首を垂れていたが、少ししてから、ただ僅かに、

「叔母さま、本当にご無沙汰でござりました。往時(むかし)の権七郎でござりまする。お変わりも無く、お(すこ)やかなご様子で嬉しゅう存じます」と、言った切り、又平伏(ひれふ)して頭もなかなか上げることも出来なかったが、向こうは老人(おい)のためか、なおさら涙脆く、声も震えながら、

「おお、権七郎、おお、おお権七郎、よくまあ訪ねて来てくれたの。そなたも無事でなによりじゃ。ああ、今までこの私、独り生きていて、今日そなたに会おうとは思いもかけなかったが、何処(どこ)にどうして今までおった。聞きたいことも沢山(たんと)ある、話したいことも沢山(たんと)あるが、どれから言おうか、尋ねようか、胸が一杯になって私には言えぬが、まあ、二十歳の時、突然(だしぬけ)にどういう訳でか、そなたが家出をしたその時の一家の心配、前の日までは(ふさ)いでいたけれど、特段何の変わった様子も無かったのに、山狩りをすると言って連れて出た五助とはぐれたまま飄然(ふらり)といなくなったと言う。もしかして気でも触れてしまって彷徨(さまよ)うたか、あるいは神隠しにでも遭うたかと、(ごん)()衛門(えもん)は五助を叱って怒られる。五助は水垢離(みずごり)…冷水を浴びて神仏に祈願する…をして神野寺(じんやじ)軍荼(ぐんだ)()明王(みょうおう)様に、『若様のお行方が知れませなんだら、五助の命をお取り下され』と祈る。私は既に青柳の家に嫁いでいたけれど、『もしや、そちらに見えてはいないか』と兄の所から言ってきたのにはびっくりして、所天(つれあい)とも相談し、八方に手分けして探すだけは探してみても、一向に雲を掴むようで、手掛かりさえも無く、姉の()()()が縁づいている眞里谷(まりや)の家では嫁をもらうという支度の最中ではあったけれど、その嫁取りさえ、一寸横に退けて心配する。いずれにせよ、私と姉は他家(よそ)の者、内田の家はそなただけのところ、そなたに家出をされては内田の家は養子をとるにせよ、血筋が絶えるという訳ゆえ、眼の色を変えて、兄様はご老体の弱りになるのを忘れ果てるまでのご奔走。私も姉も実家(さと)の大事に気が気ではなく、夜も碌々(ろくろく)寝もできなかったが、どうしても行方が分からないとなって、兄様はそれが原因(もと)で病気になり、床に就かれたきり、枕も上がらず、養子の段取りもしない内にお亡くなりなさった。その後は、やきもき思っても女としては、智恵も力も足らなければ、葬式は寄ってたかって済ましたものの、内田の家は断絶同様になって、今になってしもうた。一体、そなたはどんなつもりでそんなことをしでかして、そして今日迄どうしていた。きっと訳もあることであろうが、ゆっくりとそれをまあ言うて、やがて死んでいくこの私の耳に入れておくのがよかろう。あの世へ行って、権左衛門殿に会うたら、私から話してそなたの不孝の謝罪(わび)をしておこう」と、重い口運びながら、言い継ぎ言い継ぎしたが、最後の言葉に旅僧は身を思わず震わせた。


この辺りから、段々人間関係が広がってきます。


つづく

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