幸田露伴「さゝ舟」現代語勝手訳(1)
幸田露伴「風流微塵蔵」のうち、「さゝ舟」を現代語訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように、あるいは勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
この作品も碩学露伴の面目躍如で、古典はもちろん、難解な言い廻しや難しい言葉が出て来ます。浅学、まるきりの素人の私がどこまで現代語にできるのか、はなはだ心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この「風流微塵蔵」は未完の長編小説で、十編の短編小説から成り立っています。それぞれが一応独立した形とはなっていますが、物語はその一篇では終わらず、次から次へ、話が繋がっていく形式となっています。
十篇とは、「さゝ舟」、「うすらひ」、「つゆくさ」、「蹄鐵」、「荷葉盃」、「きくの濱松」、「さんなきぐるま」、「あがりがま」、「みやこどり」、「もつれ絲」ですが、発端の「さゝ舟」の前には「風流微塵蔵 引」として、短くこの物語の「序」が識されてあります。
現在、「さゝ舟」と「うすらひ」の二篇の粗訳が出来ていますが、序の部分と「つゆくさ」以降はまだ未訳です。
この現代語訳は「露伴全集 第八巻」(岩波書店)を底本としましたが、読みやすいように、適当に段落を入れています。
さゝ舟
二條院讃岐
うなゐこかなかれにうくるさゝふねのとまりはふゆのこほりなりけり
…幼い子どもが川の流れに浮かべたさゝ舟の行き着いて止まった先は冬の川の面に張った氷だった…
其 一
春も幾らか過ぎて、今まで小山の間やら、流れの傍やらに一抹の霞、一塊の雪と共に奥ゆかしく眺められていた桃、桜の花も、もう名残少なくなってしまった。しかし、日頃は趣きもなかった雑樹が枝先に若芽の姿色をつくる卯月の中旬ともなれば、田の面はここから活気づき、農家の勤めもようやく忙しくなろうという、気温も寒からず、暑からずの好季節である。
今、木工助こと木工左衛門、源太こと源右衛門が友人等と女房混じり、娘混じりで、周りからは遊んでいるように見えるくらい、軟らかい小草を下に、鍬、真鍬を足元に抛り出し、青天井の下に大胡座をかいて、昼飯をつい先ほど終えたまま、悠々と煙草などを吹かしながら、辺り憚らず大きな声で雑談し、笑い興じて、しばし野良仕事の疲れを休めていたところであった。
そこへ黒の袷に同じく黒の法衣、黒の丸ぐけの細帯を三重にして、掛絡…禅僧が用いる小さな略式の袈裟…を横様に引きかついでいる割には似つかわしくなく、鼠色の頭陀をきちんと胸にして、小さい行李と風呂敷包みとを前後に肩から割って掛けた修行僧とも見える男が、立ち止まりざま、深々と被った網代笠に白木綿の手甲をした手をかけて打ち仰ぎつつ一寸会釈し、
「この辺りはやはり確か青柳村でござりましょうが、昔、この村で苗字まで許されました青柳新右衛門という人をご存じでございますなら、お教え下されませぬか」と尋ねれば、権十という剽軽な爺が掌で煙草の吸い殻を転がしていたのを、急いでその火を今詰めた煙草におしつけて、スパリと一ト吸い吸って、
「新右衛門はどの新右衛門をお尋ねかの、先代の新右衛門なら一昨昨年にすでに死にました。好い人であったのに気の毒なことをしました。今の新右衛門ならまだ死にはしませぬが、彼もお天道様の罰で死んだも同然になっておりまする。家もあの通り落ちぶれましただ。大体において、お力という嬶が好くない阿魔だからの。しかし、御出家様が新右衛門の何かに当たる人だったら、こんなことを言っては悪かった。新右衛門の家はの、元はこの村のお寺様よりも荘厳な家で、教えるにも面倒はなかったが、今はその家を売ると言って、小さな家に引き籠もっているから教えるにもここからでは、用水路を辿って行け、畔道を伝って行け、土橋を渡れ、小流れを飛び越せなどと、大分面倒なことを言わねばならねえ。そして、一つ間違えば無駄道を歩かせるようになる。ええ、面倒だ、私が連れて行って進ぜよう。ナニ、気の毒なことはない。私はこれでも好い婿を持っているので楽隠居、楽隠居と皆に羨まれる身だから、自分でも楽隠居かと思っているだ。野良には毎日出ているが、ナニ、甲羅を干しに亀の子が出ているのと同じことで、背中を炙って人の働くのを見ているだけだから、マア御出家様、楽隠居よのぉ、本当に楽隠居だわさ。ハア、用はないから送ってあげましょ」と、田舎人の純朴さで、訊かれないことまで物語って、ヤレどっこいしょと立ち上がり、歩く速さこそ遅いものの、腰付きも危なげなく、こっちへ、こっちへと親切に案内する。
僧は大層悦んで
「お蔭で分かりにくい道を安心して歩けます。実は、愚僧もまだ若い頃、この青柳村には一度来たことがござりまするが、なんせ丁度三十二、三年も前のことなので、夢の後を思い出すような具合で、一向に覚えがござりませぬ。ただ、青柳の家が立派であったことは小児心にも印象深かったと見えて、朧気ながら門の中に欅の大木が立ち並んでおった様子などは今も覚えております。それと、ただ今物をお尋ね申したところが青柳村と聞いて、直にあの傍に石の馬頭観音様があったので、小児の頃、この村にまいった時、村の小児等と何か悪さをして馬鹿騒ぎをして走り回った途端、その観音様にぶつかって怪我をしたことを、その時痛かっただけに腹のどこかに覚えていたと見え、思い出して分かりました。ハハハ、当時新右衛門という人は三十六、七でござりましたので、お話しの中で先代とお話しなされたのは多分それでござりましょう。その配偶のおとわと申すのが、出家の身からは、もう何でもないはずでござりまするが、私の叔母に当たっておりますもので、下総の千葉に参りましたのを幸いに、長い間音信を絶やしておりましたが、今も存命ならば会ってもみたいし、又亡くなっておりましたならば墓参もいたしたいと思い、この上総の久留里を通ってこちらに訪ねて参りました」と、歩き歩き話するのを、
「ハハア、そういうことで訪ねられるか。それならば好いところに来られたものだ。そのおとわという先代新右衛門殿の後家様は今年六十六でまだ生きておられる。連れ合いの亡くなられた年から中気で寝たり起きたりはしておられるが、そなたが行かれたら悦ばれることであろう……と、こんなことを言っているうちに、あそこに見える藁葺きが今の新右衛門殿の住居だ。あれあれ、ほら、あの小流れの傍に五、六人児童が遊んでいる中で一番色の白い綺麗なのが今の新右衛門殿と先妻との中に出来た長男坊だ」
冒頭に
二條院讃岐として、
うなゐこかなかれにうくるさゝふねのとまりはふゆのこほりなりけり
とありますが、調べてみると、この歌は「二條院讃岐」(女性)の作ではなく、「源仲正」(男性)が詠んだとされています。二人の関係がどういったものになるのか、私には分かりませんが、何か意味があるはず。露伴先生がどういう意図で「二條院讃岐」の名を出されたのか、もしご存じの方がおられればお教えください。