後編:星風シュン(2)
「今、時間あるよ」
「え?」
座ってうつむいていた状態から顔を上げると、正樹くんがいた。用事があって事務所に来ていたのだけど、マネージャーが手が離せないらしく、空いているスペースで少し待たされていたのだ。
「時間……?」
言われている意味がわからず瞬きをすると、正樹くんはテーブルをはさんだ向かい側の椅子に腰かけた。その間にも、後ろを通りかかった誰かが「賀古さん、さっきあの監督から映画のオファー来てましたけど。引退作品にしないかって」とか言って声をかけてくる。正樹くんは「もう辞めるまで予定ぱんぱんだから無理」と笑って返す。
「ていうか、引退やめません? 引っ張りだこじゃないっすか、まだ全然若いしこれからやりがいある仕事たくさん来ますよ……?」
「まあ死ぬまで活躍してる人を見てるとそれも悪くないなとは思うけどさー、もう決めたから」
「えー、残念です」
僕が言いたいのに言えない言葉をなぜか言ってしまうこの人が不思議だ。どうして僕にはそれが言えないんだろう。
正樹くんに追い払われてその人が行ってしまうと、また2人になる。正樹くんは僕に向き直ると肘をテーブルの上について手を組んだ。
「最近シュン、会うたびに何か言いたそうだったから。今なら時間あるけど、何?」
「あー……」
よく見てるな、僕のこと。だけど今の今で言えるわけがない。もう決めたからって、引退取り消しを笑って否定したばかりの彼に。
「あー、てなに。何もないわけ?」
「うん、ない」
「ほんとかよ」
疑わしい目線で僕をじろじろと見る正樹くんに、僕は迷いを見せないように微笑んでみせた。不思議だ。今の正樹くんはもう60代半ばだし、僕もかなりの年月をソロ活動で過ごしているのに、昨日まで2人でまだ活動していたような気がする。
「また、一緒に歌いたいなあ」
ぽろっと出た言葉に、正樹くんが目を丸くした。それからその目が少年のように突如輝き出す。
「いいね。歌おうか」
「歌うって、ここで?」
数日後、僕と正樹くんは、いつも仕事で嫌というほど訪れている都内のテレビ局に来ていた。僕はオフの日で、正樹くんは夜には予定があるものの今はまだ昼過ぎだ。
エントランスを入ってすぐ右手に並んでいるソファの一つに腰かけた正樹くんは、涼しい顔でアコースティックギターを手にしている。
「今から二人でライブの予定を入れるのは無理だし。路上ライブ気分でここで歌おうよ。一応確認取ったらここならオッケーって言われたし」
どこか小さいところで弾き語りとかがしたいなあ、と彼が言うから好きにしてよと任せていたら、こんなところに連れてこられた。
多少驚いたけれど、まあいいか。ここなら基本的には関係者や局に用事のある人しか通らないから、突然誰かが歌い始めても大騒ぎにはならないだろう。今の時間はちらほらと人が出入りしてはいるものの通行人はそんなに多くはないし、僕たちを気に留めている人もそんなにいない。
受付嬢の女性が一人だけ座っていてこっちの様子も一応目に入ってはいるようだけれど特に不審人物扱いされることもなく放置されている。通行人は忙しそうだし、この感じだと聴いてくれるお客さんは彼女だけになりそうだ。
でも、それでいい。僕はただ、もう一度この人と一緒に歌いたかっただけだ。正直、それが叶うなら事務所の小さな部屋でもカラオケでもなんでも良かったのだけれど、せっかくここだと彼が場所を決めたなら、ここでいい。今思えば僕らはI-droidと人間の二人組だったおかげで最初から注目され、大きなステージばかりに立っていた。正樹くんが路上ライブに憧れるのもわかるような気がする。
「じゃあ、やりますか」
声をかけられてうなずくと、正樹くんは座ったままギターを奏で始める。僕らが一番最初に歌ったデビュー曲。若者向けのポップで明るいその曲は、正樹くんによるアコギのアレンジで柔らかな落ち着く曲調になっていた。
あの頃みたいに元気良く踊るよりもこっちのアレンジにしたほうが今の自分たちに合うんじゃないか。正樹くんにそう言われたときはあまり想像がつかなかったけれど、確かに長い年月を経た僕たちにはこれくらいの落ち着き具合が良いのかもしれない。僕のほうは……何年を経ようと見た目は何も変わらないわけだけど。
久しぶりに聴く正樹くんの歌声は、どこか懐かしく、のびやかにエントランスに響いた。彼に合わせるように、隣に座っている僕も歌う。横を見るとお互いに目が合い、僕らはほんのりと微笑み合った。
通りかかった人が、一人二人と足を止める。一緒に仕事をしたことのある知った顔もいれば、知らない顔もいる。ある若い女の子は物珍しそうに僕たちの歌に聴き入り、またある年配の男性は懐かしそうに目を細めて僕らを見つめる。なんだか楽しくなってきた。
3曲ほど続けて歌ううちに、小さな人だかりができていた。みんな、一曲終わるごとに優しい拍手をくれる。
「そろそろ最後にしようと思うけど、何かリクエストあります?」
「あっ、じゃあ二人がライブでいつも最後に歌ってた曲がいい」
正樹くんの問いかけに、偶然通りかかったらしく近寄って聴いてくれていた顔見知りのミュージシャンが、嬉しそうにそう言った。
「あ~。あの曲ね。懐かしいなあ。了解」
すぐに正樹くんはその曲のイントロを弾き始めた。
正樹くんと歌うのはとても気持ちが良い。二人でハモると、まるでパズルのピースがぴたりとはまるように、これだという音を紡ぎだせることができた。数十年前、僕たちはこんなことを毎日やっていたんだ……。
曲の終わりが近づくと、なんだか胸のあたりが締め付けられるように苦しくなってきた。終わらないで。こんな楽しくて懐かしくて幸せな時間、お願いだから終わらせないで。
この時間が過ぎ去っても僕は一人で歌わなきゃいけないなんて。たくさんの大好きな人たちがいなくなって、相棒だった彼もいなくなって、それでも半永久的に僕は歌い、踊り続けなきゃいけないなんて。
もちろん、僕がそんな無茶なことを願ったって叶うわけがない。何事もなく曲は終わりを迎え、僕たちの小さなエントランスライブも終わった。
「懐かしかったね」
「私デビューコンサート行ったんですよー、賀古さんが芸能界引退しちゃう前に生でもう一回聴けて感動した~」
「いい歌だった。これなんかの企画?」
何人かは満足したようにその場を離れて各々の目的のために散っていき、残っている何人かは僕や正樹くんに親しげに話しかけてくる。正樹くんは僕をちらりと見ると何かを察してくれたのか、僕を隠すように少し前に出て、彼らににこやかな笑顔を向けた。
「ありがとうございます。や、企画じゃなくて、完全に趣味っすよ。最後に二人で歌おうよって話になって」
「へー。偶然だったけどこの時間にここ来て良かったよ」
ごめん、ありがとう正樹くん。今僕はちょっと笑えないから。こんなに寂しいのは初めてだから。なのに空気を読んでくれない誰かが僕の前に立った。
「あの、」
少し緊張した声音につられて顔を上げると、20代前半くらいの若い女性が僕と正樹くんを交互に見つめていた。確か、今年このテレビ局に入社したばかりの、新人アナウンサー。
「私、星風シュンさんの大ファンなんです、今日、たまたまですけどお二人の歌が聴けて本当に嬉しかったです。素敵でした」
「あ、ありがとうございます」
「実は私の母はLUCKの……星風さんと正樹さんお二人のファンなんです。なんでも昔、小さいときにこの局の前の道路で交通事故に遭いかけたのをお二人に助けていただいたそうで」
「えっ……」
隣で話を聞いていた正樹くんと思わず顔を見合わせる。そんなことが……ああ、あった。まだ僕らがLUCKだった頃。遠い記憶を探り出す。
「俺が勝手に生放送抜け出して杏子さんに怒られた日だ」
正樹くんが少しだけ遠くを見るような目をして、それからすぐに僕に視線を戻すとおかしそうに僕の肩を叩いた。
「そうだね。あの子の娘さんなんですね」
「はいっ! そのときから母にははお二人がヒーローみたいに見えたそうで、大好きになってしまったって言ってました。私が生まれたときにはLUCKはもう解散していましたけど、母が家で何回もコンサートの映像を見せてくれたり、星風さんのコンサートにも連れて行ってくれたりして。私も気が付いたらすっかりファンになっちゃいました。私もいつか子どもが生まれたら星風さんのコンサート、子どもと一緒に行けたらいいなって思ってます。だから、それまでずっと歌ってくれていたら嬉しいです。私がお母さんになっても、おばあちゃんになって孫ができても、歌い続けてくれていたら、とっても嬉しいですっ……あ、ごめんなさい。喋りすぎちゃいました……星風さん?」
「シュン?」
彼女と正樹くんが心配そうに僕を見る。
頬が熱い。濡れている感覚がする。
僕は泣いていた。
I-droidに涙を流す機能があることはもちろん知っているし、仕事で必要上実際に流したこともある。だけど、本当に心の底から泣いたのは初めてだった。
母、子、孫。この人たちのために、永遠に僕は歌う。I-droidとは何なのか、理屈じゃなく本当の意味でわかったような気がした。人間じゃなくて僕がここにいる理由が。
当たり前だけど僕は正樹くんにはなれない。年を重ねることはできないしずっとアイドルだ。ずっとアイドルとして変わらずに人を夢中に、幸せにする。それができるし、しなくちゃいけない。それが僕だから。
もはや権利なのか義務なのか、はたしてそんな僕は幸福なのか不幸なのかもよくわからないけれど。ただ今は、彼女のずっと歌っていてくれたら、という言葉がじんわりと体全体に染み込んで胸が熱い。
「シュン……」
「泣いちゃってごめん。正樹くん、大丈夫だから。ありがとうございます。嬉しいです。ずっとずっと、歌い続けられるように頑張るので応援よろしくお願いします」
一人になっても頑張るから。
僕はまだ涙を流しながら、今できるとびきりの笑顔を彼女に向けた。