LAP4:Qualify/秒針は刻む(1)
宿泊先でも晃はマシンに乗っていた。
夕食と打ち合わせを終わらせ、椅子に座り目を閉じた。足を伸ばしてつま先で空のペダルに足を掛ける。腕を軽く伸ばして、こちらは空のステアリングを掴んだ。
瞼の裏に富士スピードウェイのコースを想像の限り映し出す。エンジン音は自然と脳裏に聞こえ、予選の走行がスタートした。
晃は目の前のイメージから、ステアリングを切りアクセルとブレーキを踏んでいく。コーナリングにかかるGの方向に身体が動く。”このラップ”は身体から伝わる情報に違和感がある。どこか間違えたか。いや、オーバーステアで修正舵をしたせいだ。全くタイムが出ていない。
リトライする。同じように走り始めた。しかし今度は第1コーナーでブレーキングを失敗し、タイヤがロックアップする。マシンはコースアウトし盛大にオーバーランを期した。数周して明らかに集中力が欠けているのが分かった。では何が邪魔をする。晃は目を開けて”マシン”から降りた。
周囲に何か雑念になるようなものは置いていなかった。が、ベッドに投げていた携帯が光っている。耳栓を外すと、バイブレーションの音が飛び込んできた。電源を切ることを忘れたと肩をすくめ、画面を見た。
連絡手段のチャットアプリから通知が大量に入っており、スマートフォンがクラスメイト達から『頑張れ!』などの言葉を、画面を光らせながら丁寧に伝えていたのだった。別に送らなくてもと思いつつ『ありがとう』と返した。皆、毎レースごとに送るつもりだろうか。
返事をしても続くメッセージを読み終え、すっかり疲れた。備え付けの天然水はそれなりに飲んだが、高級ブランドが手掛ける部屋は持て余す。エントランスに降りて歴代のレーシングカーを眺めるか、と思い始めた。
ノック音。ドア前にいたので直ぐに開けると、チーフメカニックの来馬がノートPCを片手に立っており、にこにこと笑顔で手を挙げて挨拶する。
「晃君、今は時間あるかな?」
「もちろんです。大丈夫です」
「そりゃあ良かった。あ、お風呂まだだったの?後にしようか?」
着替えの用意がそのままだったので、来馬が見つけて尋ねた。
「良いですよ。今、人多いですから」
「でも終わったら早く行きなよ。面倒くさくなって寝ちゃうから」
早速、来馬は部屋の丸テーブルにノートパソコンを置き、今日の走行データが詰まったアプリを立ち上げた。
しばらく2人で話し込む。車載動画も使い、今のセットアップならもう少し攻められるところ、抑えなければならないところ、その走り方、等々の内容である。晃がぶっつけで変更したセットアップだったため、煮詰める作業が余分に必要だった。無論、このことを晃が責められるわけではない。
「午後の走行で後ろから見えたものって、なんだった?ストレートで足りないって言ってた時の」
話の終わり際に、来馬が尋ねた。先ほどまでと話のトーンが変わっている。ということは、これは”雑談”のうちに入るものだ。
「その、あの時は漠然としたことで・・・」
「こっちでも見て、セットアップ変える前は数キロ遅いことが分かったんだよ。去年なら、あのままで十分だったんだけど。今年は新型シャシーに慣れたから状況が違うようだ」
「どのセクターでもコーナーの立ち上がりまでは同じ感じでしたけど、やはり直線の入りからは徐々に遠くなりました。後ろから姿勢を見る限り、他のチームは多少リアが滑っても良いようです。なら、もう少しウィングを寝かせても大丈夫だろうと」
「確かにそうだ。保守的な選択というか、レースを重視するのがウチだからセットアップで攻めていくと強みが薄まるのは理解しているよね。だから予選を重視するチームと、どうしても1回の速さで差が付く。明日はどれだけ埋められるかになる」
「今日のタイムは、実質関係がないってことですよね」
「そう、そうだよ。十分に分かっていると思うけど、プラクティスのタイムは参考でしかない。まだ引き出しを持っているチームはあるし、予選の方が確実に速いんだから」
来馬はノートパソコンに更に打ち込んでは、画面が切り替わる。
「だからこそ、さっき話した走り方が効くかもしれない。今日を基準にして、そこからコンマ0.5、1、なんでも良いからタイムを上げる。そのための戦い方をしなきゃならない」
「分かっています。自分のスタイルと違くても、速くなるならやりますよ。これを」
画面に映るのは、あるコーナーのライン取りだ。足りないもの補う、最大化させる走り。晃は窓からそのコーナーを見つめた。
朝7時。
晃はランニングの格好に着替え、ホテルから走り始めた。コースは各地の駐車場と東西のゲートを繋ぐサーキットの外周である。
予選は、あっという間に訪れてしまう。ランキング後に朝食を取れば、ブリーフィングはすぐに始まりパドックまで移動する。準備もするため、運動時間は限られる。数周もできないだろう。それでも、身体を温め調子を整える。今できる最大のことだ。
サーキットに沿うように敷かれた道路はコースと同じように、下っては上る。今は左手に交通安全センターを見ながら、大きく左回りに進む。コカ・コーラの看板を背に、『西ゲート』、『ドローン禁止』の案内がある分岐を右へ、西ゲート方面に走る。
サーキットと同様なヘアピンを抜け、ダンロップコーナーの裏まではあっという間に走る。昨日より速いペースで走っているかもしれない。気持ちが逸っている?そんな事はない、と思っている間に西ゲートの側を通り、『BRIDGESTONE』と書かれたブリッジまで来てしまっていた。
立ち止まり休んでいれば足音が聞こえて来た。顔付きで分かる、鈴中という選手だ。
「どうも」
意外だ。鈴中は立ち止まり晃に声をかけたのだ。
「あ、どうも。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。三浦さん、でしたよね」
「ええ」
晃は自分の返事で、頭がそれほど回っていないことに気付いた。
「もう1周、どうですか。時間はありそうですし。まだ身体が起きていないのでは」
小さく頷くと鈴中は直ぐに走り始めたが、予想外に速く走り終えた時は膝に手をついて呼吸を整えていた。全く合わせる気がないペースに晃は困惑していたが、鈴中は涼しい顔付きで「ではまた後で」と言い、ホテルの方へ去って行った。
あれは何だったのか考えている内に、サーキットは予選の熱を帯び始める。
ガレージのシャッターは開き、ガラガラのパドックは人の往来が増え、一般入場ゲートからは観客が現れスタンドに座り行く。
『おはようございます!全日本F3選手権、第1、2戦富士スピードウェイ、本日は予選となります!』
『ここでF3とは何か?おさらいをしておきましょう。F3は、F1を頂点とするピラミッドの3段目に位置するカテゴリーとなります。F3で使用するマシンは、馬力や速さこそF1に遠く及びませんが、F1に近い設計となっているため、将来のトップを目指すドライバーにとって基礎となるものです』
『このため、F3で速いドライバーはF1や上位カテゴリーのマシンに乗れる能力があることを証明していると言えます。「F1への登竜門」と良く言ったものですが、将来のF1ドライバーを我々は目撃しているかもしれないのです!』
わあ、と会場から声が沸き立つ。中々の観客数である。併催されるレースも多いが、F3を目当てにしている人たちはどれだけいるのだろうと晃はグランドスタンドを見つめた。
「おい、晃。そろそろだぞ」
「も、もうですか。早いなあ」
晃は慌ててレーシングスーツを着直し、キャップを被った。携帯のカメラで軽く笑顔の練習をしピット前まで駆けた。外にはカメラマンとリポーターが晃を出迎える。
「それでは、全日本F3選手権を参戦する期待のルーキー達から、『RTスピリットTEAM TOM’S』の三浦晃選手にお話を伺うことができそうです。三浦選手、予選に向けてどうですか。フリー走行ではタイムシートのトップにいましたね。好調を維持できそうですか?」
マイクを向けられ、手に取る。
「ありがとうございます。プラクティスは、冬の間にたくさん準備をしてきたことを再確認して、走り込むことができました。昨日のタイムはあまり参考にはならないと思いますが、トップだったことはポジティブに捉えています。手応えはありますので、今日はもっとタイムが上がると思いますし、良い結果で終えたいですね」
これ以上言う事はできない。笑顔を作りながら思う。セッティングがどう、調子が良い、どんな言葉が相手に作用するか分からないのだ。利敵行為という言葉があるが、それらと隣り合わせの瞬間はいくつもある。晃はイギリスで走っていた時は徹底して、チームメイトに対してさえ時に閉口した。
はい、そうです。とリポーターに相槌を打ち、インタビューは終わった。拍手に手を挙げて応え、ガレージの中に戻った。ようやく予選に向けて集中力を整えられる。ヘルメットを被りマシンの中に乗り込む。予選開始まで5分。
目を閉じて戦略を自らにリマインドした。ウォームアップは最低2周、バンカーで最初のタイムを出す。タイヤとブレーキを冷やすためのクールダウンを1~2周挟んで、そこから本命のタイムアタック。狙うはもちろん―――。
「晃、2分前だ。良いか?」
昨夜のイメトレも何周も走り切った。晃は目を開ける。
「いつでも行けます」
マシンのエンジンをかけピットレーンへ。時間を待つマシン達が数台、蜃気楼と共に並んでいた。急くようにアクセルを煽る。
コースとピットレーンを別ける信号が、赤から青に変わる。
『全日本F3選手権、第1戦の予選10分間がスタートです!』
一人として同じでない排気音が時速200km/hオーバーに乗せて響き渡る。
『さあ、今年のF3ルーキーの一人。ユナイテッドレーシングのカーナンバー7、ルーカス・ブリストウ選手がコントロールラインを通過!』
ガレージにいる誰もがモニターを見上げた。最初のタイムアタックで既に、昨日の晃が叩き出したタイムを上回っているのだ。ざわつきも無理もない。ガレージの脇では移動式のテーブルに設置されたノートPCにデータが打ち込まれ、下段のプリンターからラップチャートの紙が印刷される。
「昨日も見たな、この光景」
「今度は相方の方か」
確かに、昨日見た光景だ。だがそれはチームが強い証明でもある。2台であれば尚更だ。
さて、どう崩す。増田直己は期待感を隠さず思う。
『ああっと!ここでカーナンバー11、ハイビーモータースポーツの相田選手がトップを塗り替える!やはりスピード勝負の富士では強い、果たして富士での連続ポールポジションを記録できるのか!』
1位から4位は2台で走るチームが占めている。しかし、勝ちたいならこの中に割って入ることができなければ、決勝は厳しい。晃も状況は予想していることだろう。彼を選んだのは、そのような状況でも上に立つために何かをやれるからだ。コース脇の砂や芝、果てはライバルを利用して。
中継映像に晃が映る。縁石に乗り滑るマシンが振られそうになるところを、真っ直ぐ立て直した。セッションが始まって数分しか経っていない冷えた路面の、それも1回目から大胆に攻めている。でもこれが、”保険”だと晃は言うのだ。
晃がホームストレートに帰ってくる。エンジン音もはっきりと分かる。タイムは3番手、実況も熱が入った。
予選はここからだぞ、晃。まだこんなものではないだろう。
ヘルメットの中に息遣いだけが響く。
1回目のタイムアタックを終えた晃は、ゆっくりとペースを落としてクールダウンに入った。心拍数が落ち着き、代わりに聞こえる呼吸音が鬱陶しく感じた。
全開で走ったタイヤの熱は簡単に下がらない。まして、続けてアタックすればオーバーヒートし、タイヤそのものがダメになってタイムが出ない。それに、これは決勝も走るタイヤだ。潰したら1レースそのものをふいにする。
同じように走るマシン達の数台先、カーナンバー12の青いマシンを晃は見た。このマシンはいずれやって来るチームメイトを待っている。直線でスリップストリームを貰うためだ。1km/hも速くなれば、純粋な速さを競う予選において絶大な効果を発揮する。そして彼のチームメイトは、トップスピードが最も速い。
タイムアタックの順番をずらしてまで、こう言った戦略を行うことは珍しくない。成功して予選を1位-2位で終えることが出来れば、決勝すらコントロールできる。
「11号車の位置は?」
晃はラジオボタンを押し無線で尋ねる。11号車は、最も直線が速い彼のことだ。
『今・・・、ターン1だ。半周後ろにいる。次の周でアタックするだろう』
「11がアタックに入ったら教えて!」
『了解した』
次の周の6コーナー目を通過する時、無線が入った。
『11号車がアタック。繰り返す11号車がアタックした』
「了解」
かったるいクールダウンも終わりだ。タイヤを温め直すために蛇行運転を始める。呼応するように、目の前に来ていた12号車も大きく動く。
背中で気配を感じながらミラーを見る。次のセクター3、最終コーナーの手前。そこで必ず来る。程なくしてコース脇の電子旗が青色に点灯し、『後続車に進路を譲れ』の合図が出る。晃は息を吐いた。
3秒、ミラーに映る。2秒、シルエットは加速度的に大きくなる。1秒・・・11号車が自分を追い抜いた。ここだ。追い抜かれてから体感コンマ5、晃はスロットルを踏み込んだ。12号車が合わせて加速するには時間がかかる。
貰った!最終コーナーを最大限に大回りして立ち上がった。マシンはより速く速度を乗せて加速する。目の前には、トップスピードが最も速い男。
晃の本命となるタイムアタックが始まった。
参考文献
2019年全日本フォーミュラ3選手権 統一規則
2026年全日本スーパーフォーミュラ・ライツ選手権 統一規則
用語解説
・オーバーステア
コーナリング中にマシンがタイヤの限界を超えて内側へ横滑りする現象。
※対義語:アンダーステア
コーナリング中にマシンが外側へ膨らみ進んで行く現象。
・ロックアップ(タイヤ)
ブレーキング中にタイヤの回転が止まる、あるいは止まった状態に近くなること。
タイヤが回転しないため滑走状態となり、マシンが止まらなくなる。影響としてタイヤの消耗の加速など、悪影響を起こす。
・新型シャシー
新車。全日本F3では数年おきに新型マシンに変更される。
作中の昨年度に新型になったばかり。
・ユナイテッドレーシング
エントリー名はユナイテッドレーシングAS。
欧州のレーシングチームと共同で運営される国内有力チーム。エンジンも勝利実績が多いメルセデスベンツ製。ブラックゴールドの車体がトレードカラー。
・ホテル
富士スピードウェイホテル。
歴代マシンが展示されている博物館が併設されている。
・『BRIDGESTONE』と書かれたブリッジ
文字通り、『BRIDGESTONE』と書かれた半月型のゲート。
西側の入り口から入ると、会場までの順路に現れる。
・パドック
ピットエリアの裏側にあるスペース。タイヤやスペアパーツ等、トランスポーターも置かれる。
基本的に関係者しか立ち入ることができない。
原語は競馬用語のパドック。
・グランドスタンド
サーキットのメインとなるエリアに設けられた観戦席。
大抵の場合、ホームストレート・ピットエリア・表彰台が目の前に存在している。
・バンカー(タイム)
予選タイムアタック時に、最低限の保険のために出すタイムのこと。
本命となるタイムアタックが失敗した場合の保険。
・ウォームアップ
ウォームアップラン。主にタイヤやブレーキを温めるための走行を指す。
・クールダウン
クールダウンラップ。主にタイヤやブレーキを冷やすための走行を指す。
・ピットレーン
ピットに入るための走行車線。
コースと合流する出口部に信号が設置されている。
・ポールポジション
予選で最速タイムを記録したドライバーに与えられる最前列かつ1番手のスタート位置。
サーキットによってコースの内側、外側と位置が変わる。
・スリップストリーム
前走者のマシンの後方に着き、空気抵抗を減らすことで速度を伸ばすこと。
牽引されることを指す意味で「トウ」が使われることが多い。
・電子旗
電光掲示板と同じ仕組みで表示される、レース旗。
通常マーシャルが旗を振る。その電子版。
多くのサーキットで採用されている。




