LAP1:ブラン・ニュー・デイ
時速250キロメートル。世界は止まり、自分以外の全てを置き去りにする。バスタブより全幅が狭く、全長が長い剥き出しのコックピットに強風が流れ、ヘルメットをシートに押し付けた。タイヤが拾うわずかな路面の凹凸にステアリングは敏感に反応し、握る力を込める。
シートに快適さはない。カーボン製の硬く丈夫なシートはマシンの動きを直に伝えた。ビリビリと震わせるエンジンの振動はマシンの呼吸を思わせ、自身の心拍数と同調した。
それでも人々は、シートに座りステアリングを握って、アクセルとブレーキを踏んでいるだけだと言う。スピードと時間、マシンの全てと戦う世界を皆は知らない。
「この周、アタックして良いぞ。アタックだ」
無線が届く。
長いホームストレートを走り抜け、6速全開から右コーナーの入り口が見える。数秒前は米粒のように小さかったコーナーは、既に視界いっぱいに広がっている。高速で流れる景色から左目で捉えるのは、コーナーまでの標識、200メートルから50メートルまで50刻みのものだ。その100のところを目印に、じわりと左足のつま先に力を入れてブレーキペダルを踏み込む。同時に、左手の人差し指でステアリング裏面に付いたパドルシフトを素早く数回、押した。
減速でマシンが前方に沈み、身体も投げ出されるように前へ。減速Gでシートベルトがきつく身体を縛り上げた。6速から2速のシフトダウンでエンジンは唸り、車速が100キロ以下になるところでステアリングを右に切る。コーナーの内側、縁石の淵を舐めるように曲がり、急勾配の下り坂を駆ける。
ステアリング上端で光るランプが輝く。エンジンの回転数に合わせて光る代物だ。ランプが青から赤くなれば右手の人差し指でパドルを押し、シフトアップする。短い直線でもギアは5速に入った。入り口が狭く出口が広い角度のきつい左コーナーが迫る。最低限のブレーキングで4速に落とし、アクセルから足を離して駆け抜ける。コーナー出口の幅をいっぱいに使い、縁石に右側のタイヤを乗せながらコーナリング。
縁石の凹凸でゴトゴトとマシンが振動しながら加速させ、間髪入れずにU字に大回りする100Rと呼ばれる右コーナーを全開の半分ほどで曲がる。路面に張り付くようなコーナリングで身体の外側に強いGがかかり、歯を食いしばって踏ん張る。そして次の左コーナーへ…。
これを何周、何十回と繰り返す。最後に頼れるのは自分独りしかいない。ピットウォールからサインボードを出してくれる人や指示を出す人は助けない。どんなに辛くてもステアリングとペダルを動かすことを止めてはいけない。勝つまでは。
壁のような上り勾配のセクションを抜けて最終コーナー、1キロ超のホームストレートに戻る。無線からピットインの指示が聞こえた。
長いピットロードを走りチームのガレージ前に止めると、ステアリングを外してマシンから降りた。ヘルメットや耳栓を取れば、たちまち世界が騒がしくなる。他のマシンはまだ走っていて、最高速度で走り抜ける音が聞こえてきた。
「どうでした?」
三浦晃は手渡されたタオルで顔を拭きながら尋ねた。ガレージには天井からテレビモニターが吊るされ、全員のタイムが表示されていた。それを眺める大人の1人が視線を戻して答えた。
「悪くない。去年だったら3番手タイムだった。今日参加しているルーキーの中ではトップだが...上出来だ。マシンに慣れたか」
「感覚は掴めてきました。もう数周もらえればもっと分かることがあると思います」
「良いだろう。5分後にセットアップを変えて走ってみよう。今の仕様とのフィードバックが欲しい。できるか?」
「分かりました」
手に持ったボードに書き込む仕草を見届け、ガレージ奥にある控えのテントで水を飲む。12月だと言うのに気温はぬるく感じる。山に囲まれ冷えがちな富士スピードウェイは、今だけはマシンが発する熱気で結界が出来ているかのようだ。
晃はシーズン後に行われる合同テストに参加していた。
早くも来年度に備えたテストが行われ、ここでは新人ドライバーを乗せるチームも多い。F3への昇格候補、海外からステップアップを目指しているチャレンジャー、この内の何人が来年いるのかは分からない。だが、シートを巡る戦いはここにある。
「いるか?」
テントをくぐって自分よりも背が高く、赤白のチームウェアを着た男が現れる。見知った顔だった。晃を含め、ドライバー育成プログラムを現場で指揮する増田直己だ。自分の前に座って、水を飲んでから口を開いた。
「セッションの後、時間が欲しい。話すことがある」
「分かりました。やっぱり、”あれ”の件ですか」
「いや。来年の晃に関わることだ。今はこれ以上無し」
「じゃあ、駄目だったんですね?」
「まだ何も言っていないだろう」
この業界の全てを承知しているわけではないが、経験から彼の声音で判断がついた。来年度、晃が思い描いている通りでなさそうということ。
「大丈夫です。行ってきます」
晃はそれだけを言い、席を立ってテントを後にした。
ピットロードとコースを隔てるフェンスとフェンスの間から身を乗り出して、赤白のチームカラーで彩られたマシンを見送る。1.4キロメートルもあるホームストレートを、瞬きする間に通過していく。低く野太いエンジン音だけが遅れて通り過ぎる。
「どうですか。彼は」
増田直己は、目線はサーキットに置きつつチーム監督の舘谷に対して尋ねた。
「悪くない」
ふう、と一呼吸置いて続ける。
「確かに、タイムを見たら化けるかもしれない。けど、壁にぶち当たるのも早そうに見える。あいつにどのくらい懸けているんだ、おたくら」
「初年度でタイトルを」
「見込み十分か。昨年は英国でF4のチャンピオン。フム」
相変わらずコースに目線を置いたまま、舘谷はしばらく考え込むように腕を組んだ。その間に1周してきた三浦晃を、増田は見送った。ラップタイムはコンマ数秒、更新している。
「了承してくれますか」
「良いだろう」
日本のレース界で活躍し、その名前を知らない人はいない彼の言葉は重い。毎年育成ドライバーを乗せる交渉に臨む時は、一層強まる気がしていた。『テストで見たい』の一言を引き出すのに幾度となく三浦の走りを見て、交渉材料を言語化したのだ。
「こういうのが久しぶりに出て来たってことは、ウチで面倒見なきゃな。だからとことんやる。それで良いな?」
「大丈夫です。納得させてみせますよ」
「ふん」
サーキットのカメラは丁度、三浦を映している。コース幅ギリギリを攻め、止まれるかの瀬戸際でブレーキング、素早くコーナーを抜けて加速。粗削りだが可能性がある。増田も三浦の走りに惹かれて去年はイギリスに送り込んだ。日本でもやってくれるに違いない。
この後のミーティングで話すことを考え、ガレージに戻った。
「じゃあ今年は、向こうでレースできないってことですね」
来年度の説明を終えた後に開口一番、三浦晃は言った。どのような反応でも予想済みだったのか、チームメンバーも増田以下、育成プログラムの関係者も顔色一つ変えることなく聞いた。
「結論から言うと、そうだ。だが悪い話では無いと思う」
晃はこの年、イギリスF4選手権チャンピオンの実績を得て、ステップアップ先をヨーロッパで開催されるF3選手権とし、走れるチームを探していた。しかし、経過報告では芳しくない言葉だけが続き、その中で日本でのテストの話が来、そして今日を迎えてしまった。
「逆に聞きたいが、向こうにこだわる理由は何かあるのかな。こだわるが故にシートが空くまで1年待つ?それとも他に走れる考えがある?」
晃の真向かいに座るチーム監督、舘谷が手を挙げて話した。目線が強い。
「F3のシートがないならもう1年F4で」
「意味ないよ。それじゃ」
舘谷は晃の言葉を切った。
「F4に乗るとしてチームは、F4が駄目ならどこに乗る?交渉は誰がする?自分でキャリアを組めるか分からなかったら、その考えは捨てた方が良い。君がF1に行きたいならね。ドライバーは鮮度が命だ。速く走れる内に、速いクルマに乗れなければ意味がない。でなければ、ただの『運転が上手な』ドライバーになる。今年の成果は、頭から捨てた方が良い」
日本に戻ることは、ある意味後退のように晃は考えていた。ヨーロッパでレースを続けることは想像以上に難しい。それでもこだわるのは、一度戻ってしまったら向こうへ簡単に帰れないことを、先輩レーサーでたくさん見ているからだった。
「我々としては」
増田が口を開く。
「このシートは、君のために用意した。確かに、向こうで走れないのは我々の力不足かもしれない。でも、ここが君にとって前進出来る舞台だと約束したい。F3で勝てることを、証明してくれないか。」
晃は何も言い返すことができなかった。このご時世、自分のキャリアを明確に描くことは難しい。ましてや、完全な独力でのステップアップなど、一昔前の環境とは大いに違うのだ。
『断っても良い』と言ってはくれない。断る選択をするのも自分自身であり、目の前に座る彼らは提案しない。逃げる出口は常に目の前に開かれている。
思えば。今までもそうだったかもしれない。レース業界に安泰の二文字はない。勝って、勝ち続けて上り詰める。晃は日本でも同じようにやれば良い、と決めた。沈黙を破って、答える。
「乗ります」
「ありがとう、三浦晃君。後日改めて本社で契約書にサインしてもらうことなるから、連絡を確認して欲しい。君に期待しているよ」
周囲の柔らかくなるのを肌で感じた。ひょっとすれば、三浦晃なら断ってしまうと本気で考えていたのかもしれない。いや、乗ると信じているからこそ、だった。
増田には明らかな安堵が見えた。デブリーフィングから契約の話まで、無限と思える時間が過ぎていたからだ。
「三浦君。これからのこと、良く考えてね」
舘谷は付け加えるように言って立ち上がり、会議室を後にした。
晃は自分の相棒となるマシンを前にして、膝をついて眺めていた。
チームスタッフに声をかけて、マシンを見て良いか尋ねたのだった。撤収まで時間があるから見て行って構わない、と承諾してくれた。
F3マシンは全長4351ミリ、全幅は1845ミリ、翼端が盛り上がる格好のフロントウィング。よりF1に近い滑らかな流線型のボディワークに、頂点が丸い三角形状のエンジンカウルから右側に生えた筒状のインダクションポッドが、最大の特徴である。晃がイギリスで乗ったF4と呼ばれるマシンとは、サイズも形も大きく異なるものだ。
レーシングカートから始まるF1までのピラミッド、F3は文字通り3階層に当たるカテゴリーであり、下にはF4、上にはF2と続く。F3は中間だ。その性質から『F1の登竜門』と称される。
当たり前のように勝ち上がってきたレーサーたちは、ここで躓く。全員が同じような実力からスタートし、徐々に自分の限界を知ることになるからだ。当たり前など無いリアルな競争の世界は、将来有望な若手を容易く振るいにかける。指の数より少なくなるまでに。
『これからのこと、良く考えてね』
『今年の成果は捨てた方が良い』
彼の言葉が頭から離れなかった。マシンを見れば、余計に言葉が大きくなる。
「晃」
背後から声がした。
「増田さん」
「そろそろ引き上げるからな。大丈夫か?ああ、監督については気にしなくて良い。言葉はきついが、実際ときどき気が引き締まる時もある・・・。とにかく、さっきのデブリーフィングを気にしているなら深く考えないことだ。晃は走ることを自分で選択した。今はそれが大事だ。だから、我々も晃が勝てるように全力を尽くす。分かるな」
晃は静かに頷いた。
「なんだ、何かあるのか?」
「増田さんは、自分の決めたことに不安を感じることはないんですか」
「あるよ。こういう仕事だから。でも、そんなものは幾らでもあり過ぎる。一回一回『あの時は』なんて言っている余裕はない。違うか?例えば、『お前を育成に選んだことを不安に思った』とか思えたりするか?そんなことはない。選択肢が多い世界で生きるには、選択肢と同じ数だけ自分を信じなきゃいけないんだ。不安とはそうやって付き合うものだ」
「じゃあ自分は、今ここにいる自分のことを誰よりも信じていなきゃいけないですね」
「当たり前だろ。良いか、F1の道は終点が同じなだけで、過程が同じ奴なんかいない。真っ直ぐ突き進んだり、曲がりくねったり、誰にも分からない。晃は、そのスタート地点にようやく立った。これからだぞ。信じろ、自分とチームを」
マシンがメカニックたちの手で押され、パドック側に止まる運搬トラックに向けて静かに移動し始めた。持ち込まれたPCや測定器などの機材は、すっかりガレージから消えている。後は人間だけだと空気から訴えが来る。
乗る、と言った時の決意に蔓延った気持ちにこれで区切りが着いた晃は、サーキットを後にするバスに向けて歩き出した。
三浦晃は、自動車メーカートヨタが抱える『RTスピリットチーム』と契約を締結し、しばらくして参戦体制の発表が行われた。2月のことである。
全日本F3選手権開幕まで、残り2ヶ月。