小枝八冬による「薄暮」
日の入りまであと少し、空には紺色とオレンジ色のコントラストが広がっている。染まる雲はぐるぐると渦巻くようで、なんというか、上手く言えないのだけど写真のようだ。端的に言って綺麗、美しいってことだ。
部活が終わってから、壁打ちをするために薫と運動総合公園へとやって来たのは一時間前。その時はまだ明るかったのに、暗くなり始まるのは早いもんだと感心する。
夕空へと両腕を上げて、空の風景を指で縁取ってみた。この小さな四角に収まるのはほんの一部だけど、それだけでも十分だ。これを写真に撮れば、きっと「いいね」が山ほどもらえるにちがいない。この前、SNSに上げられている写真は加工とか修正とかされているのがほとんどって話を聞いたけれど、この空は加工なんてしなくても十分な色を持っている。もしかして私は写真の才能があるのではないだろうか。
「やっちゃん、何か飲むー?」
少し離れた場所から、薫が私に声をかけた。
私は空から腕を下ろし、ラケットケースを肩にかけて、薫のいる自販機まで小走りでかけよった。
「飲む飲む。何がある?」
「コーラにファンタ、なんでもあるよ」
薫の隣に立ち、二台並ぶ自販機のラインナップを確認する。たしかに、コーラもあるし、ファンタオレンジもファンタグレープもどっちもある。
「さっき何してたの?」
薫が自販機にコインを入れながら私に訊ねた。
「んー、空の写真撮ったら、いいねもらえそうだなって」
「確かに綺麗だよね。幻想的な感じがする。よし、これだ」
ガシャン、と取り出し口へコーヒー缶が落ちる。
「とはいっても、やっちゃんってツイッターもインスタもしてないよね。しかもスマホは水没につき現在故障中だし」
「まあ、言ってみただけ。あと、水没の件については言わないで」
ガシャン、と今度はスプラウトのペットボトルが取り出し口へ落ちる。
「ああ、ごめんごめん。確かに、あれは人生の汚点だよね。プッ。ごめん笑っちゃった」
うぐっ、と顔を歪め、プシュッ、とスプラウトの蓋を開ける。
「にしても、こんな寒いのによく冷たいジュース飲む気になるね。私じゃ考えられないよ」
自販機のすぐ横にあるベンチに座って、喉の奥から込み上げてくるものを我慢しながらスプラウトを飲んでいると、薫が言った。
「炭酸好きだから」
「本当好きだね、炭酸」
薫はそう言ってホットの缶を両手で包みながら「あったかやあったかや」と顔を綻ばせる。よく見ると、缶コーヒーのフタはまだ開けられていない。
「……コーヒー飲まないの?冷めちゃうよ」
チッチッチ、と舌を鳴らして、ようやくコーヒーのプルトップを引いた。
「分かってないねぇお嬢さん。ホットはこうやって手やほっぺたを温めてから飲むのがおつってもんだよ。それに、私猫舌だしね」
ネックウォーマーを顎の下に挟んで、薫はグイッとコーヒーをあおった。短髪のこともあって、その姿は男の子のようにも見える。しかし、「ちょっとぬるすぎた」と言って舌をペロッと見せ、夕陽に染まるその顔は、一瞬見惚れるほど美しかった。
無意識に、私はさっき夕空にしたように、薫の顔を指で囲んだ。薫は「え、ちょ、なに」と言ってすぐに顔を背けてしまった。
「私、カメラ買おうかな」
空を見上げ、私はぽつりと言ってみた。その言葉に返事はなく、数秒の沈黙が流れる。
「ふぅん、いいんじゃない?」少し顔を赤らめながら、ボソッと言った。「でもなんで急に?」
「さっき空を指で、こう、囲って見たんだけど、これを写真に撮ればいい絵が撮れるって思った」
「ああ、さっきしてたね。私にもしたし。でも、実際そんな簡単なもんかな。多分思い通りに撮れたりはしないと思うよ」
「う、ん、まあ、それはそうかもしれないけど」
「いや、まあ、やっちゃんが興味あるなら私は止めたりはしないけどさ。カメラってあれ?ゴツイ感じの?一眼レフとか言うやつ?」
「せっかくならそういうやつがいいよね」
「高いんじゃない?お金ないっしょ」
「一万円以下で買えないかな。それくらいならお年玉でなんとか」
「無理じゃないかなぁ……」
「やっちゃんってコーヒー飲まないね。苦手?」
気づくと話題が変わっていた。あまりにも急なので、カメラの話をしていたのは私の気のせい?
「……私、コーヒーとか苦いの苦手だし」
「ブラックじゃなきゃ甘いのばっかりだよ?コーヒー以外にも紅茶のホットとかもあるし」 コンコンと隣の自販機を叩く。「試しにこれ飲んでみてよ。甘いよ、これ。ミルクたっぷりで美味しい」
薫は飲んでいたコーヒー缶を私に差し出した。そのコーヒーは苦そうな黒色の缶ではなく、茶色と白の渦が描かれていて、確かに苦くはなさそうだ。
「本当に苦くないんだよね?」
薫は頷き、なかば押し付けるようにして私に缶を渡した。
コーヒーはもうほとんど冷めているようで、毛糸の手袋を通して温かさは伝わってこなかった。
もう一度薫の方を見ると、薫はコクコクと楽しそうに頷き続けている。
決心し、私は一気に缶をあおった。
「……」
苦くないと言われて渡された缶コーヒーは確かに苦くなかった。ついでに甘くもないし酸っぱくもない。そりゃそうだ、空っぽだもの。味を分かれと言われても無理な相談だ。
キッと薫を睨むと、薫はネックウォーマーに顔を埋めて、プルプルと震えていた。
「ぐふ、ふふ、ぐふふふふふ……」
「くっそ……」
ガードの甘くなっている脇腹を突っつく。
「ちょっ、やめ、そこ弱いんだから」
「ベタな嫌がらせしやがって」
なおも突き続け、そのうち私もクスクスと笑いだしてしまった。
「一度やってみたかったんだ、これ。まさか本当に引っかかるとは思わなかったけど。空って気づかなかったの?」
「もういい帰る」
笑いながら、私は薫を置いて駐輪場の方へと歩いて行った。自転車のカゴにラケットケースとペットボトルを突っ込んで鍵を外し、出口へと自転車を押してゆく。
「ちょっと待ってよ」
すぐに薫も自転車を押して追いついてきて隣に並んだ。
「ごめんって、もうしないから」
「許さん、私はひどく傷ついた」
「許してください。今度なにかお菓子作って持ってきますから」
「許す」
「優しい」
私と薫は声を立てて笑った。自分でもなんだこの茶番はと思いつつ、こんな平凡なやりとりがどうしようもなく楽しい。
「私、バイトしようかな」
「いいんじゃない?なんのバイト?」
「まだ決めてない。薫も一緒にしない?」
「そうだなぁ、でも私は別に欲しいものもないし、する必要もないんだけど」
「前に新しいゲーム欲しいって言ってなかったっけ」
「あ、覚えてたか。よっし、一緒にバイトすっか」
自転車に乗り、二人で並んで話しながら家へと向かう。この前、並列走行をしていて、知らないおじさんに怒られたばかりだけど、今は周りに人もいないし車も来てない。念のため振り返って見るけど、後ろからも車や自転車は来ていない。
私たちが向かう西の果てに、闇に押し込まれて消えていく夕焼けが見える。
一日が終わる。日曜が終わる。また明日から学校が始まる。でも今は、いつもみたいな憂鬱な気分はなくて心は軽い。明日提出の宿題が終わってないとか知らない受け付けない記憶にない。
「じゃね」
「うん、バイバイ」
「また明日」
美味しいと噂のカレー屋があるY字路まで来て、薫と別れの挨拶を交わす。ここからは家が別方向なのだ。道中、バイトは何がいいかなと話し合ったが決まらず、また明日話そう、ということになった。
私は手を振ってY字路を離れていく。ふと振り返ってみると、薫はこちらを見ていてじっとしていた。なにやってるんだろう、と思っていると、だしぬけに薫が叫んだ。
黄昏どきの空の下、親友の声と笑いが鳴り響く。
「やっちゃんのスマホ便所ぽちゃりクソワロタァ!!!!!!」