河田公平による「ある冬の休日 帰宅」
チリィン……と、若干鈍い鈴の音が鳴った。ドアを閉めると、室内の心地よく温かい空気が体を包みこんだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
「お、公平くん」
どの席にしようかと見わたしていると、窓側のテーブルに座る男性が手を上げた。
「館さん」
「ここ座りなよ」
「どうしたんですか。今日、お店は?」
「今日はサボり。……っていうのは冗談で、今日は前から休みを取る予定にしてたんだ」
館さんは自営業でカレー屋をしている。カレー屋なのだが、見た感じはおしゃれな喫茶店といった趣だ。カレーはもちろん、オムライスやカツサンド、食後のコーヒーも美味しい。お店は不定休で日曜日はたいてい開いているが、今日は珍しく休みを取ったらしい。
「ここよく来るの?」
「いえ、初めてです」
「俺はよく来るんだ。いいでしょ、ここ」
そう言って館さんは首をひねり、俺もつられて店内を見わたす。全体的に落ち着いた色合い、照明も明るすぎず暗すぎず。店に入ってすぐは少し暗く感じたが、目が慣れてくると最適と思える明るさだ。ほとんど飾りといった飾りもなく、殺風景と言えなくもないが、それがこの店の持ち味というか、良さなのだろう。言ってみればごくシンプルな喫茶店だが、無駄なものが無いのでリラックスはできる気がする。館さんが常連だと言うのもわかる。
「ご注文はお決まりですか?」
バイトっぽい若い男の店員が水とおてふきを持ってきて同時に尋ねた。
俺は慌ててテーブルに置かれたメニュー表を手に取り、手書きの文字列に目を通す。
「ここのブレンドは美味しいよ。あと甘味でオススメなのはブラウニーだね。まあ公平くんが頼みたいものを頼めばいいよ」
「あ、じゃあそれで」
ふと窓の外を見ると、自転車が店の前を横切っていった。忙しなく去っていった沢口の姿を思い出す。
(あいつも、黙って服装をなんとかすりゃあな)
コップをとって水を飲む。乾いていた喉に、冷たい水が染み込むようにして下っていった。
(顔はいいのに。なぜあんな変わり者になってしまったのだろう)
「もしかして女の子のこと考えてるんじゃない?」
窓の外をぼんやり見ていると、館さんがニヤニヤしながら言った。
「いや、別にそんなことはないっすよ……」
「公平くんって彼女いるんだっけ?」
「あー、まあ、一応。昨年末から付き合ってる彼女はいますけど」
そう言うと、館さんは顔を輝かせて身を乗り出した。
「へえ!それはおめでとう、え、え、その子はどんな子?可愛いの?写真は?」
「まあ、可愛いは可愛いと思いますけど……。写真は、あー、今スマホ持ってないんで」
「はー、それは残念。公平くんの彼女見てみたいなー。そうだ、今度彼女と店、来なよ。サービスするから」
「嫌ですよ、恥ずかしい。あ、うちの母親にはこの話しないでくださいね。絶対根掘り葉掘り聞いてきてめんどくさくなるから」
館さんは「分かってる分かってる」と肩をすくめた。高身長でハンサムな彼にはその仕草がとても似合っていた。
そこへコーヒーとブラウニーが運ばれてきた。真っ黒なコーヒーからは白い湯気がたっていて、見るだけでも体が温まる。
店員が「あ、すみません。ミルクは要りますか?」と聞いてきて、俺がうなずくと、慌てるようにしてキッチンの方に戻っていった。なんだか申し訳ないな。ミルクはあっても無くても別にどっちでもよかったので、要らないと言えばよかったか。
館さんは壁にかかる時計を見て 「おっと、もうこんな時間か」と言って帰り支度を始めた。隣の椅子に畳んで置いていたジャケットを羽織って、テーブルの上のタバコとライターをポケットにしまう。
「俺は先に帰るけど、公平くんはゆっくりしていきなよ。お金は払っておくから」
「そんな、悪いですよ」
「気にしない気にしない。彼女祝いって思えば安いもんだから」
「でも……」
と、ここで俺は思い出した。店を入る前に確認した財布の中身はコーヒー一杯分。したがってブラウニー分のお金は持ちあわせていない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
館さんは「素直でよろしい」と笑ってレジへと歩いていった。
「じゃ、またね」
会計を済まし、店のドアの前で館さんが手を振った。俺も手を振り返し、館さんは店を出ていった。
本当、かっこいい大人だなと思う。話は面白く、ギターも上手く、カッコいい車に乗っていて、作るカレーも美味しい。なんの欠点もないようだ。この俺が妬むことを忘れてしまうくらいなのだから相当なもんだ。だが、俺は館さんの表面的な部分しか知らない。館さんのかっこいい部分しか知らない。
「申し訳ございません。ミルクです」
「あ、ありがとうございます」
「さて」
ではコーヒーとブラウニーをいただくとしよう。フォークでブラウニーを一口分にカットし、それを刺して口に運ぶ。
うむ、美味い。濃厚なチョコレートでこれがまたホットのコーヒーと絶妙に合う。甘すぎず、ほんわりと苦味のあるブラウニーにはコーヒーもいいが、牛乳も欲しくなる。
と、お菓子評論家のようなことを頭の中で考えてみたのだが、ブラウニーを食べたのはこれが初めてだ。実のところ、運ばれてくるまでブラウニーというのがどんなものなのか想像すらつかなかった。
しかし、これは本当に美味しい。土産にでも買って帰りたいが、お金がないのでそれは諦めるしかない。帰ってから、ブラウニーというものを知っているかどうか、妹に聞いてみよう。
あっという間にブラウニーを食べ終わり、コーヒーを一口飲み、ポケットから本を取り出した。初めはこれを読もうと思って店に入ったのだ、少しでも読むことにしよう。
庭にいる蛇は卵を探しにきたのかもしれない。蛇の姿を見た母は気に病んだ。対して、娘のかず子は、ふふと笑った。俺はこのシーンを覚えていた。かず子が笑ったことに違和感を覚えた。別に、かず子は母を嘲笑しているわけでも、蛇にざまぁとか思っているわけでもなく、仕方なく、笑ったのだ。仕方なくって、なんだよ。ここで、普通は母に同情し、かず子も落ち込むのかと思いきや、笑う。この笑いに、俺はほんの少しゾクリとした。このすぐあとに、かず子の胸の中にいる蝮のような醜い蛇が、美しい母蛇をいつか食い殺す。とこういった描写がある。無邪気ですらある親子(もう一人やんちゃな息子がいるが、彼は置いといて)。そんな家族なのに、かず子は、母を食い殺してしまう気がした、のだ。俺は怖い、と思った。うちの場合、母を食い殺すなんてとんでもない。俺が母に対して口を開こうものなら、その瞬間、俺が死ぬ。
そういえば、蛇は卵を産むのか。なんだか蛇が卵を産む姿を想像できない。どちらかというと、卵を飲み込む姿の方がしっくりくる。
蛇は子を愛するのか。体温が無いように、温かい心だって無いのじゃないか。だが本当に、かず子たちが見た蛇が、自分の子供である卵を探していたのなら、その悲しみはどれほどのものなのだろう。
本から顔を上げ、窓の外を見る。いつのまにか外は真っ暗になっていた。
もう冷めてしまった残り一口分のコーヒーを飲み干し、俺は立ち上がった。
日の光もなくなった外はとても寒くなっていた。ただ呼吸をするだけでも鼻から白い息が漏れ出す。ネックウォーマーを被ってジャケットのファスナーを一番上まで上げ、両手をポケットに突っ込んで、いくらか早足で家の方へと俺は向かった。
家の中には明かりが灯っていた。母と妹は帰ってきているようだ。
「ただいま」
「おい」
いや、帰ってきた人に対しては「おかえり」でしょう。と玄関口に立つ母を見上げると、母は鬼の形相で俺をにらんでいた。
「あ」
全て思い出した。俺はなんのために外出したのだったか。神社に初詣?ちがう。喫茶店にコーヒーを飲みに?これもちがう。
カレールゥを買いに行くためだった。
結局、その日は外食することになった。初めは館さんのカレー屋にでも行こうかという話になったのだが、休みなので、ファミレスへ行くことになった。
俺は一旦、自分の部屋へ充電していたスマホを取りに行く。スマホを見てみると何通ものメールが来ていた。
三木〈今日ひま?〉
母〈今どこ?カレーは?〉
三木〈もしもーし?〉
沢口〈おい!フラれた!なんでだ?理由も言わずに帰っ(以下略〉
三木〈寝てるの?笑〉
母〈いつ帰ってくるの⁉︎カレーは⁉︎〉
三木〈もしかして無視してる?〉
山尾〈明日のゼミ休講らしい〉
何度もメールを送ってきている三木とは、例の昨年末にできた彼女なのだが、上記以外にもあと何通かのメールが来ている。
着信も母からは数回、三木からは十回ほど……。
怖い。三木へ謝罪のメール送るのも怖い。電話で謝るべきじゃない?とか言われそうで怖い。明日大学で会うのも怖い。かと言って放っておくと後が怖い。
バッテリー切れにならないように以後気をつけよう。
メールの返信は後にすることにして、スマホをポケットに入れて俺は部屋を出た。