第八章 REBELLION
その人物は、クラックヴァレーの小さな街の中には住んでいなかった。というよりも、そもそも決まった家を、今は持っていない。山中に身を潜め、鳥を獲り魚を獲り、野草を食べきのこを食べ、時として蛇や蛙を糧とし、湧き水と雨水で喉を潤し、岩にもたれて眠る。野宿というよりも、野生であった。
だがそんな中で最も奇妙なのは、その人物の服装であった。
紫色のメイド服が、土や草にまみれている。ヘッドブリムはとうの昔に外してしまった。エプロンに付いていたフリルは、いつだったか紐代わりにするために引きちぎった。ただ胸元に揺れる十字型の勲章だけが、いつまでも変わらず誇り高い輝きを放っていた。
その奇妙なメイドが、早朝の川で魚を獲っていた時ふいに、背後から話し掛けられた。
「探したわよ。今日はここだったのね」
黒髪を優雅に揺らしながら、ヨハンナが歩み寄る。女らしさのない黒い服で、手にはライフルを握っている。メイドは簗を置いて立ち上がると、彼女の力強い目をしっかりと見た。
「いよいよ四日後、決行するわよ。手筈は整えてあるから、あなたはただ標的を撃ち抜きさえすれば良いわ」
「……わかった」
メイドが冷たく答える。その隣に立ったヨハンナは、きょろきょろと周囲を見回し、適当な岩を見つけて腰掛けた。懐から素早く煙草を取り出すと、淀みの無い動作で火を着けた。
「吸う?」
一応メイドにも声を掛けてみる。しかしメイドは首を横に振った。
「あ、そう」
そう答えて、ヨハンナは自分の煙草に戻った。先端の小さな赤い火が、明るくなったり落ち着いたりを繰り返すのを眺めているうち、ふとメイドがヨハンナの太ももあたりを凝視しているのに気付いた。
「何? 私に欲情でもした?」
「違う。その銃だ」
メイドが指差したのは、ヨハンナが持ってきたライフルだった。リボルビングライフルと呼ばれる、リボルバー拳銃と同じ回転式弾倉を用いた連発機構を有する種である。
「ああ、これ? これは私の護身用の愛銃よ。あげないからね」
左手で煙草を持ったまま、右手で銃を抱き寄せる。
「いらない。というよりそんなもの撃つな。知らないのか?」
「いいでしょ、別に」
聞く耳を持たないヨハンナに、メイドはそれ以上食い下がるのをやめた。
ヨハンナが吸い終わるまで、二人は無言だった。そして煙草の火がヨハンナの靴の下に消えるのを見届けてから、メイドは口を開いた。
「車は?」
「メルセデスを一台手に入れたわ。上々でしょ?」
誇らしげな黒髪の美女は、四日後の集合場所を記した紙をメイドに渡した。
「ローゼはどうする?」
「置いていくわ。もう手籠めだもの、逃げられる心配はないわ」
「そう」
会話はそこまでだった。ヨハンナが去り、メイドは捕らえた魚を手に、隠れ家としている廃屋へと戻る。
時刻は午前六時。
その全く同時刻、起床したイーリス・マーリンは、酷くやつれていた。昨晩見た夢の影響であった。
ベッドで横たわるイーリスを見下ろす、立ったままのイーリス。同じ姿をした二人。やがて立っているイーリスが、寝ているイーリスの首にナイフをあてがう。そのままゆっくりと力を込め、刃が皮膚を突き破る……その瞬間で目が覚めた。
「酷い夢だわ……」
自分が自分を殺す夢。自殺ではなく、自分自身を他殺する。イーリスはイーリスに殺される。そんな夢を見て、しかもそれをはっきりと記憶したまま目覚めて、気分の良い人間などいるはずがない。
最悪の朝を迎えたイーリスは、更なる憂鬱に出くわすこととなる。
調理担当のメイドから受け取った郵便物は一通のみ。その封筒の中には、綺麗な便箋が一枚のみ。
だがそこに書かれていたのは、全く何も綺麗ではなかった。
「これは……」
『親愛なるイーリス・マーリンへ。
裁きの時は来た。
ローゼ・マーリンは頂戴する。
ヨハンナ・イヴァンカ・コーモトは仕事を成し遂げた。
美麗なる妹君は、間もなく婚姻の儀を行う。
死神は妹君の究極の夫となるであろう。
我は死神。
鎌の刃は妹君の首にあてがわれている。
この鎌は、いつか貴殿らにも刃を向けるであろう。
それまではどうか、ご自愛を。 MMD』
ランツェはイーリスからの報告を受け、便箋を二度読み返した。
「これはおそらく、ただのいたずらではないだろう。ローゼの婚約をMMDが掴む手段があるとすれば、それは最初から『関係していた』でしかあり得ない。ローゼの隣に、今MMDは確実にいるぞ!」
「私が行きます!」
イーリスは声を張った。
「私ならきっとローゼを説得できますわ。護衛のメイドは付けますので、私に行かせてください。ローゼの救出に!」
ランツェは一瞬思案したが、姉からの説得ならばローゼの心も変わるかもしれないと思い、首肯した。
「……わかった。頼む」
「はい!」
イーリスは強く返事をすると、クラックヴァレー行きの切符を手配するよう、メイドへ命じた。
ミゥがそれに応え、早速切符を購入しに出掛けて行った。
「それじゃあ、護衛はあなたが来て」
イーリスが指名したのは、調理担当のメイドである。
メイドはきょとんとした表情で、聞き返した。
「わ、私でよろしいのですか? イーリス様」
当然ながら、彼女に軍務経験などはない。だがイーリスは頷く。。
「もちろんそんなに期待してないわ。だけどあなたは一応私の付き人なのだから、危険にも付き添いなさい。これは名誉なことよ」
「はい、わかりました」
適当に並べたイーリスの言葉で、メイドはあっさり従った。
「そういえばあなた、名前は?」
「サファイア・アレーヌです……あ、申し訳ございません。私、名乗っておりませんでしたでしょうか?」
「ああ、いえ、大丈夫よ。その名前には聞き覚えがあるから」
「……」
イーリスにとっては、己とブルーマーリン以外のことはどうでも良い。それは、名前を忘れられていたサファイアも知っていたことだったが、改めて自分のこととして直面すると、さすがに寂しかった。
「でも、もう絶対忘れないから。これも名誉よ、サファイア」
「はい、ありがとうございます。イーリス様」
サファイアは美しく礼をすると、旅の支度を始めた。
一方アングリフ・シェッファーは、混浴温泉へ向かっていた。