第六章 REPLY
ローゼがヨハンナと出会ってから、一週間が経過した。
この日、ローゼお抱えのメイドであるミゥ・ヴァイスハイトは、主からの驚くべき命令に度肝を抜かれていた。
いつも通り、修行先の工房の調理場で、人数分の目玉焼きを作っていた最中の事だった。
「ミゥ、ちょっと良いかしら?」
「はい、ローゼお嬢様。いかがなさいましたか?」
ミゥは高貴な生まれではなく、ごく普通のメイドでこそあるが、その所作は貴婦人の如く美しかった。それは、万一の際に影武者を務められるようにと、ランツェが望んだことによるものである。彼がそう望んだ結果、選ばれたのがミゥであった。
そんな彼女に、ローゼは命令を下した。
「あなた、メートヒエンへお帰りなさい」
「はい?」
ミゥは思わず聞き返してしまった。ここのところローゼの様子が変わったと思っていたのだが、よもやそんなことを言われるとは、彼女は想像だにしていなかった。
「ど、どうしてですかローゼ様? 私に、何か粗相がございましたでしょうか……?」
不安げに尋ねるミゥに、ローゼは強く首を横に振った。
「いいえ、全然! そんなことはないわ。あなたの仕事は素晴らしいものよ。私はただ……その、あの人と暮らしたいの」
「え? ……あの、コーモト様ですか?」
ミゥの問いかけに、ローゼの頬が瞬時に紅潮した。そしてもじもじと手を動かしながら答える。
「うん……まあ、そういうこと。でも安心して。ヨハンナは家事も得意だから」
どんどんと顔を紅くしながら、ローゼは自信満々に言った。実際、何度かヨハンナに会っているミゥは、彼女がたいへん家事が得意なことは知っていた。
「しかし……旦那様へは?」
「手紙を書いたわ。だからあなたは、これを届ける役目も併せて、家に帰ってちょうだい」
言い終わると同時に、ローゼは懐から封筒を二つ取り出した。白い方にランツェの名が、水色の方にイーリスの名が記されている。
「……」
黙ってそれを見るミゥの手に、二つの封筒が強く押し付けられた。そのままローゼは、ミゥの手を握って言う。
「お願い、ミゥ。もし私がまた家に戻ったら、私のメイドをして」
無垢な瞳で見上げる主の願いを、とうとうミゥは断れなかった。
「わかり……ました」
「……ありがとう」
目を伏せて、静かに気高く感謝の意を示すローゼの手が、おそらくは無類の幸福が故に震えていたのを、ミゥははっきりと感じ取っていた。
その一部始終を密かに見ていた人物は、小さく微笑んだ。
美しき黒髪、大人の女性の色気を凝縮したような、引き締まっていながらも主張を怠らない蠱惑的な身体。誰あろうヨハンナ・イヴァンカ・コーモトその人である。
ローゼとミゥが話していた部屋のクローゼットの中に隠れ、隙間から状況を覗き見ていた彼女は、ローゼが見事にミゥを説得しきったのを確信し、次いで両名とも部屋から出て行ったのも把握すると、クローゼットからその実を露わにした。そしておもむろに窓辺に歩み寄ると、小さな紙切れを、わずかに開けた窓の隙間から、その向こう側で待つ人物のために押し込めた。
窓の外の人物は紙切れを抜き取ると、足音も立てずに歩み去っていった。
ヨハンナは相手の影が見えなくなるまで待つと、誰にも聞こえない程小さな声で呟いた。
「I got married and then there were none……」
言って、彼女は僅かに口角を上げた。その笑みは、ローゼの物とは僅かに異なる香りを放っていた。
結婚の申し込みは、どんなに早くても早過ぎることはない(経験談)。