第三章 REACTION
ロリガニア帝国の南部山岳地帯には、鉱山都市が点在している。
そのうちの一つ、鉱山都市の中でも古い町であるクラックヴァレーが、ローゼ・マーリンの修行先である。
もっとも、修行というのは目的のうちの半分でしかない。メートヒエンからでは影響力を及ぼしにくいこの地方でブルーマーリンが難題の解決に寄与し、市民の支持を確立させることが、もう半分の目的であった。
ローゼの修行先は、金鉱山の近くにある小さな魔術工芸品製作所だった。ローゼが借りた工房はそれなりに綺麗な所だったが、それでも鉱山労働のにおいが染みつき、メートヒエンの豪奢な工房とは天と地ほどの差がある。
しかし、ローゼはそれをまるで嫌がることなく四か月間を過ごした。どころか今日日に至っては、一人で労働者の集う酒場に向かう始末である。連れのメイドは買い物中だった。
蝶番がキィキィと鳴る扉を開けて、ローゼは酒場の中に入った。まだ陽が高いこともあり、そこそこ広い店内には客がほとんどいない。ただ、所々酒の染みがついた奥のテーブルに、ぐでんぐでんの男性が二人突っ伏している。
そちらは無視してカウンターに座ったローゼに、まだ若い――とは言っても三十路過ぎの――マスターが声を掛ける。
「ああ、ローゼさん。今日は早いですね」
「ええ、今日は休暇なの」
姉とはまるで違う落ち着いた声でローゼは返した。
「ほう、お休みですか。いいですね。ご注文は?」
「うさぎ」
「は? うさぎですか?」
「嘘です。ミルクを頂戴」
ローゼの適当な冗談に、このマスターはいつも真顔で返答してくる。本当はローゼがいつもつまらない冗談を言うのだと彼もわかっているのだが、あえて真面目に受け取ったように装うのを逆に楽しんでいるのだった。
「ミルクですね。かしこまりました」
マスターが瓶とグラスを取り出す。酒が飲めないローゼは、勝手ではあるが酒場とはミルクを楽しむ場所と解釈しており、このミルクこそが時たまのリフレッシュなのだった。
「はい、お待たせしました」
「ありがとう」
マスターがグラスになみなみ注いだミルクをローゼが受け取ると同時に、店の扉が開いて新しい客が姿を現した。
「いらっしゃいませ」
「……あら、ミルクは銃が錆びるから私には出さないでくださいな」
「は?」
入ってくるなりローゼに勝るとも劣らない次元のつまらない冗談――と思しき言葉――を飛ばしてきた客は、若い黒髪の女性だった。少なくとも、ローゼは会ったことが無い。
というのもこの鉱山都市では、女性と言えば鉱山労働者の妻である大きなおばさんか、いくつかの酒場にいる同じくらい丸々としたおばさんのダンサー、あるいは酒場よりももっとディープな店で働いているさらに丸々としたおばさんくらいしかいない。故に若い女性が何らかの用事でここを訪れたりすると、一気に奇異の視線を浴びる始末となってしまう。もちろんローゼも当初はそうであったし、ローゼ本人が町に慣れた今でさえも視線が注がれないことは無い。
そういう場所であるから、ローゼは今までにこの町で出会った、数少ない若い女性の顔はしっかりと憶えている。その記憶の中に、この黒髪の女性は存在していなかったのである。
しかもあろうことかその女性は、がら空きの店内であるというのにわざわざローゼの二つ隣の席に座った。
(……この人は、私に何か用がある?)
それに気付かないほどローゼは鈍感ではない。しかしそこで警戒心を捨てるほど、ローゼも馬鹿ではなかった。しばらく様子を見、相手の出方を待つことにする。
だが程無くして、女性の方からローゼへ言葉を投げかけてきた。
「私みたいな女がうろついてるの、珍しい?」
「え?」
ローゼが女性の方へ顔を向けると、相手の目が完全にローゼの目を捉えた。射貫くような視線に、思わずローゼは硬直した。
「そんなに怖がらなくてもいいの。私はただの女。恋に夢見る一人の少女よ」
少女はキツい歳だろうという台詞を、ローゼは危うく引っ込めた。
「恋……ですか?」
「そう、恋よ。素敵でしょう?」
女性が笑う。その笑顔は、実に魅力的だった。
ローゼにとって、大人の魅力に溢れる女性という存在はほとんど未知の存在だった。この女性に対して歳がどうだと思ったのを棚に上げることになるが、ローゼの母はそれこそ少女のような、弱々しい小柄な女性である。また、姉イーリスは自分より何歳か下なのではないかとさえ――少なくとも外見上では――思ってしまうほど幼い容姿と性格をしている。姉のメイドは大人の女性と少女の合間の、女の人生においてわずかしかない期間のみ発揮される魅力の持ち主で、それ以外のメイドは仕事こそ上出来だがほとんどただの町娘が歳を取っただけだった。
そんなローゼが初めて見た、大人の女の魅力。これを学ぶのも修行になるかしらと、ローゼはその女性へ興味を向けた。
いくつか質問を投げかけてみる。
「結婚はしていないんですか?」
「もちろん」
「まあそうですよね。お生まれは?」
「メートヒエンよ。といっても外れの方だから田舎みたいなものだけど」
「あ、そうなんですね。ではどうしてこんなところへ?」
そこで一瞬、女性は回答に詰まった。
「私ね、出会いを求めて旅をしてるの。国中をね。今はエルガロードからこちらへ回って来てるのよ」
「エルガロードから? じゃあこれから南へ向かうところなんですね」
「ええ、そのつもりよ……」
ふと、女性の声が尻すぼみになった。何か言葉を続けようとして、戸惑っているようにローゼは感じた。
ローゼが黙っていると、女性はテーブルを人差し指で何度か叩いた後、再び口を開いた。
「そう、そのつもりだったんだけど……でも気が変わっちゃった」
「あれ? そうなんですか?」
「うん……」
再び数秒の沈黙。その間にローゼがミルクを飲み干して、再度女性の方へ向き直った時。
射貫くような視線が、またしてもローゼの目を捉えた。今回もまた、ローゼの心臓がどきりとする。
そのまま女性は、色っぽく瞬きを一度すると、すうと息を吸ってから、甘い声で小さく言った。
「私、とうとう恋をしてしまったから……そう、あなたにね」
瞬間、ローゼの体に震えが走った。予想だにしていなかった言葉で、混乱の渦が頭を支配する。
「え、えーと、女同士でございますですね?」
言葉もおかしくなる。しかし相手は、何がおかしいのかと言わんばかりに、さらに強くローゼの目を見つめる。
「そうなの。私でもびっくりなんだけど……私、あなたが好き」
ローゼの心臓に、鉄槌が打ち込まれたような感覚があった。全ての思考はストップする。ローゼができることは、相手の目を見つめ返すことだけだった。
「あ、ごめんなさい。別に今すぐにどうこうしようってわけじゃないの……お互いに、もっといろいろ知っていきたいし」
女性の黒髪がふわりと揺れる。ローゼはもう、何も言えなかった。酒場のマスターも何も言えなかった。
困惑の沈黙が場を支配する中で、唯一口を聞ける黒髪の女性が言葉を発した。
「私の名前は……ヨハンナ・イヴァンカ・コーモト。よろしくね」
ローゼは混乱の中で、名前を名乗られたことだけはなんとか理解し、相応の礼儀を返した。
「私は、ローゼ・マーリンです……」
「ありがとう……よろしくね、ローゼ」
甘い声でそう言い残すと、ヨハンナと名乗った女性は酒場を後にした。
何も注文することなく去ったヨハンナに、せめて何か頼めと、酒場のマスターは後に呆れることとなった。
なおミークはローゼに対しては発情していなかった。