第二章 RETURN
汽車が重苦しい音を立てて止まり、イーリス・マーリンは四か月ぶりに故郷の地を踏んだ。帝国首都の中央に位置するメートヒエン駅は、今日も変わらぬ人の波だった。眩い銀髪を揺らし、黒光りする高級なコートに身を包み、荷物を抱えて客車から出てきたイーリスを見た通行人は一瞬目を奪われこそするが、すぐに日常の喧騒へと戻っていった。
ここでは、彼女の存在も目立たない。
例え彼女が、四人の人間を殺害した魔女だとしても。
人混みは悪魔の少女を抱いたまま、右へ左へと流れていく。イーリスはその流れに時には身を任せ、時には舳先を逆らわせながら進む。やがて、懐かしい顔をみとめた。
「お父様!」
駅の出口に、壮年の男性が立っていた。精悍ながらも陰のある顔、白髪交じりの頭はイーリスの銀とはまるで異なるいぶし銀。体格は特筆するほど大きくも小さくもないが、その立ち姿は力強い。例えるなら、雨風にも地震にも動じない城壁。
マーリン家当主、ランツェ・マーリンである。
「おかえり、イーリス。まあ、無事で何よりだ」
「お父様……!」
低く強い父の声を聞いて、イーリスはランツェに駆け寄り、抱きついた。
「ああお父様……お父様こそよくご無事で……世間は私たちにいつも切先を向けておりますの。こんなに聴取が長引くのなら、やはりローゼだけでもお父様のお傍に残らせるべきでしたわ……ごめんなさい」
父の広い胸の中で、イーリスは涙ながらに詫びる。その頭をランツェは優しく撫でている。傍から見れば、久々の再会に歓喜の涙を流す親子にしか見えないだろう。否、事実そうなのであるが、この二人には再会を喜び涙を流す資格など、当然ながら無いのである。一人は狂った殺人鬼であり、もう一人は、病身を装って殺人鬼を送り出し、またその殺人鬼に実行を命じた張本人なのだから。
「さあ、とにかく車に乗りなさい」
「はい、お父様」
マーリン家が所有する豪奢な車が、駅の真正面に停められていた。初老の運転手が大仰な礼をし、ドアを開けると同時にイーリスの荷物を受け取った。この運転手を雇ったのは昨年のことであるが、なかなかに良い仕事をする。
無駄のない運転手の動きを見ていたイーリスの肩を、ランツェが叩いて乗車を促した。
二人が乗り込むと、車はうるさく走り出す。夕方前で、銀行と市場は間もなく今日の業務を終える時間だった。小腹が空いたイーリスは、ポシェットからクッキーを取り出し、ぼりぼりと食べ始めた。
それに気付いたランツェが言う。
「もう行儀を注意する者はいなくなったが、どうだったかね、あの女性は?」
イーリスは父にもクッキーを手渡しすると、もう一枚取り出して食べ続けながら答えた。
「マナーを学べたことについては感謝しますが……あれはメイドでなく家庭教師が妥当でした。何より、私を性的な対象として見ていたようですもの。夜も共に過ごすのは正直不安でしたわ。もっとも、あの美貌ですから私も少し靡きかけましたが」
イーリスの声はいつもより一段低かったが、暗くはない。どちらかと言えば、払いのけた厄介に再び触れねばならない気分が滲んだ声だった。
「そうか。お前の好みかと思ったが、なかなか上手くいかないものだな。どうだ、次は執事を付けるか?」
「嫌です。男なんて汚らわしい。あの無精な道具屋からようやく離れられましたのに、また男の臭いを嗅がなければならないなんて!」
イーリスはクッキーの入った袋を仕舞った。食欲が削がれたらしい。
ランツェは「わかった」と返事をすると、それきり喋らなかった。イーリスの方から口を開くことはなく、運転手が話し始めることも当然無く、三者無言のまま車はマーリン家の門に辿り着いた。
運転手が車をガレージへ回し、イーリスとランツェは家へと入る。同時にランツェが郵便を確認した。
「三通。イーリス宛のがひとつ来てるぞ」
「あら? 私にですか?」
「君宛の手紙は結構多いからな。この四か月の分も部屋に置いてあるから暇なときに読んで欲しい」
「わかりました」
「ひとまず着替えて疲れを癒しなさい。次の専属メイドがまだいなくて申し訳ないが……」
「いえ、お気になさらないでくださいお父様」
イーリスは臨時で自分付きとなった、普段は調理担当のメイドを連れて自室へ入った。四か月ぶりではあったが、エルガロードへ向けて発った朝と何も変わっていなかった。唯一、机の上に手紙の束が置かれていることだけが差異であった。その束が予想より厚かったことで、疲労の溜まっているイーリスは読む気が失せた。今日届いた一通を束の上に重ねて置き、上着を脱ぎ始める。メイドが手伝おうと手を出してきたが、イーリスはそれを断って自分で着替えた。
その最中ふと、姿見の前でイーリスは下着姿の自分を見た。
「あれ……?」
何かが自分の背後にいたような気がしての行動だったが、鏡をどこから見ても映っているのは自分の魅惑的な身体だけだった。
「疲れてるのかしら?」
結局彼女は柔らかな服へとすぐに着替えると、ベッドへ身体を横たえて、夕食まで眠ることとした。疲れが酷かったからか、瞬時に意識は眠りの底に沈み、次の瞬間には厨房担当のメイドが食事に呼びに来ていた。
イーリスにとって四か月ぶりとなる実家の食事は、たいへん満足のいくものだった。この四か月間、レイはランツェから多額の謝礼金を貰っていたはずであるのに、安い食材しか買わず、日々の食事の品目もできるだけ少なくさせた。いくらミークが料理上手でも、高級食材を惜しげもなく用い、マーリン家の厨房担当が腕によりをかけて作り上げた料理には及びもつかなかった。
「……ごちそうさまでした」
普段のイーリスは食後に温習の時間を設けているが、今夜はそれを行なわず、早めに就寝する準備を整える。ベッドメイキングに関して言えば、厨房担当よりミークの方がやはり上だった。
幼い肢体に白く透き通ったネグリジェを纏った時、イーリスは机の上の束を思い出した。
「あ、少し読んでおこうかしら」
眠気が徐々にイーリスの幼い身体を支配しつつあったが、彼女は椅子に座って手紙の束を引き寄せると、封筒をいくつか掴み取って開けた。適当に掴んだ五通のうち、一通はローゼからの近況報告だった。父宛の物だが、ランツェが併せて置いてくれたのだろう。別の二通は魔法使い連盟からの小難しい手紙、一通が凝りもしないラブレターだった。
「眠い……」
一瞬舟を漕ぎそうになりつつも五通目を開ける。これは今日届いたばかりの封筒だった。
「差出人……MMD?」
薄い水色の封筒の中には、便箋が一枚きり。さらに、文字も極めて少なかった。
『親愛なるイーリス・マーリンへ
近日、いただきに参上する。
愛を込めて MMD』
「なにこれ?」
イーリスは手紙を再度よく見てみたが、他には何もなかった。怪盗の予告状のような文面だが、強盗ならともかく怪盗に盗まれるような物にはまるで心当たりがない。
「また、下賤の者の嫌がらせね」
便箋を封筒ごと丸めて、灰皿の上で火を着けた。イーリスは椅子から立ち上がり、残りの手紙は翌日以降に読むことととして、ベッドへ入った。
昼間に少し寝たせいか、眠気は強かったがすぐには眠りに落ちなかった。さらに、脳がまだよく動いていたらしく、夢まで見てしまった。
不思議な夢だった。
イーリスは自分を見ていた。
自分の部屋で自分のベッドに横たわる自分を、彼女はじっと見つめていた。やがて視線を浴びているのが眠りながらであっても苦痛であったのか、眠っている自分が動き始めた。
そこでイーリスは思う。本当の自分は、今自分を見下ろしている自分ではなく、今見下ろされているベッドの上の自分なのであると。