第十章 RESCUE
イーリス・マーリンが目覚めた時、彼女の体は動かなかった。
視界にあるのは、清々しい朝の空。しかし、どうも黒煙らしきものが幾条か、立ち昇っているようにも見える。
イーリスはまず、手に力を入れてみた。職人にとって、脚がたとえなくなっても、手が動くならば仕事はできる。幸い、イーリスの両手の指は、脳の指令のままに動いた。
続いて足先。これも動いた。下半身不随などにもなっていない。それから、足首、膝、手首、肘……と、少しずつ体の動作チェック。
その流れで首を動かしたことで、イーリスは自分が身動きが取れないのは、体に異常が発生したからではなく、仰向けに横たわる自分の上に、何かが覆いかぶさっているからなのだと気付いた。
そしてその物体は、上半身を無理やり起こそうとしたイーリスの挙動に合わせ、膨らみ始めたばかりのイーリスの胸に道を譲るようにして、ずずりと落ちる。
長めの瞬きをしたイーリスが、その物体を確認する。
それは、人だった。
つい先刻まで、イーリスと共に着替えていて、今日の動きについて話していた相手。
サファイア・アレーヌは何も言葉を発しない。
一体何があったのか。
そも、この様相はどうしたことか。
本来乗っていたはずの寝台列車は、もう見る影もない。
「そういえば、あの閃光は」
イーリスの記憶が、推論を紡いでいく。あれはもしや、何かの爆発だったのではあるまいか。サファイアはその爆発から、身を呈してイーリスを守ろうとしたのではあるまいか。
「サファイア!」
そこまで思い至り、イーリスは思わず叫び声を上げた。自分のそばでぐったりと地面に身を投げている、柔らかな人体へ向けて。
「サファイア! 起きて!」
サファイアの体を何度も揺するが、反応はなかった。うつ伏せになったまま、指先一つ動かさない。
「サファイア……ああ……」
イーリスは恐る恐る、メイドの体を転がすようにして、その顔を覗き込んだ。
サファイアの顔は、まるで眠っているかのように綺麗だった。だが。
「あ……あ……」
彼女の右胸には、割れたワインボトルが、深々と刺さっていた。
「……」
どのようにして、そのボトルが刺さったのかはわからない。おそらく爆発それ自体ではなく、その後に倒れ転がった際に、刺さったものだろう。
傷口から、血が流れていることにようやくイーリスは気付いた。その刹那。
「……あ」
サファイアの口が僅かに開いた。
「イーリス様……」
「サファイア!」
イーリスの顔が明るくなる。途端に、応急処置をしなければならないという考えが、古い記憶を急に思い出したかのように、イーリスの脳を走り回った。
「あの……」
「サファイア! 喋らないで! 今助けるから!」
ボトルを引き抜けば、出血は増すだろう。しかし、抜かなければ激痛が走り続ける。サファイアを動かすことも困難になる。恐ろしいほどに冷静な思考が、イーリスの頭の中で展開されていた。
しかし、サファイアは黙らなかった。
「イーリス様……もう、いいです……それより、早く、逃げてください……」
「逃げる? どうして? まずはあなたを助けないと!」
「いえ……これはMMDの仕業です……狙いは、イーリス様、あなたです」
「そんなことはわかっているわ! でも!」
「お願いです」
サファイアは震える手を伸ばし、激痛に顔を顰め、涙を流しながら言った。
「生き延びてください……あなただけは……」
「……」
サファイアの手が、イーリスの手を掴んだ。イーリスも、その手を握り返した。
「イーリス様……最後にあなたを守れて、私は光栄です。何の取柄もない、厨房担当の格下メイドの私でしたが……最後に、誇れる仕事ができました」
声を絞り出すサファイアを、イーリスは見つめる。そして、自身も言葉を返す。
「サファイア、あなたは何の取柄もないんじゃない。格下でもなんでもない。立派なメイドよ……ああ、メイドにこんな感情を抱いたのなんて、初めてだけど……」
そして彼女は、およそあのイーリス・マーリンらしからぬ言葉を、サファイアに贈った。
「本当に、本当にありがとう。サファイア・アレーヌ。私の、最高のメイド」
イーリスの言葉に、サファイアは笑ったように見えた。
「ありがとう、ございます……」
手の震えが大きくなった。それはサファイアの震えだろうか、それともイーリスの震えだろうか。あるいはその両方か。だが二人にとっては、そんなことはどうでもよかった。サファイアは必死で最後の言葉を紡ぎ、イーリスは徐々に小さくなるその声を一音も聞き逃すまいとした。
「さようなら……イーリス様……お仕えできて……光栄でした」
「」
イーリスが言葉を返そうとした瞬間、サファイアの手が落ちた。
「……」
言葉はもう届かない。サファイアは微笑みを浮かべたまま、この世を去った。
「……ええ、ありがとう」
もう届かない言葉を、それでもイーリスは口にした。たった一晩しかわかり合えなかったが、それでもイーリスにとって、そう友人のいない彼女にとって、これは小さな出来事ではなかった。
しばらくの間、目を閉じ、祈りを捧げる。
他の車両から、乗務員や乗客が、救助に駆け付けてくる。
イーリスは目を開けると、改めて周囲を見回した。
そして、二百メートルほど離れた茂みに一瞬だけ現れた小さな光を、イーリスは見逃さなかった。