第九章 RELAX
それから数日後の、メートヒエン駅。時刻は十三時前。
イーリスは久々にこの駅の雑踏に分け入っていた。傍らに、調理担当兼イーリス専属のメイド、サファイア・アレーヌを連れて。
「こちらが切符です。九番ホームから出る列車ですよ」
ローゼの専属メイドであるミゥ・ヴァイスハイトから、二枚の切符を受け取る。国土の南方へ走る列車の中では、最も高級な寝台急行だった。
「ありがとう。それじゃあお父様、必ずや、ローゼをあの悪魔から救い出してみせます」
「君も気を付けるんだぞ、イーリス」
「はい」
短いながらも父からの愛情が込められた言葉に、イーリスは笑顔で頷いた。
「サファイア、どんな災厄からもイーリスを守れ。武器はあるな?」
「はい、旦那様」
サファイアはカートに乗せた着替えなどの荷物とは別に、頑丈そうな黒い革で出来た鞄を持っていた。よほど重いのか、肩に紐を掛けているが、その肩が若干下がっている。
「武器?」
イーリスが問うと、ミゥが屈んで彼女に耳打ちした。
「サブマシンガンを一丁、弾は百二十発あります」
「……戦争でもする気かしら?」
ミゥがくすりと笑う。
「ご冗談がお好きですね、イーリス様。でも、相手はもしかしたらあのレイ・ルイーネやもしれません。戦艦を沈めた狙撃手ですから、備えあれば患いなしですよ」
「……」
イーリスは黙ってしまった。どうやら、レイの名前を聞くだけで虫唾が走るらしい。
「失礼しました」
ミゥが一歩下がった。入れ替わるように、ランツェが一歩歩み出る。
「とにかく二人とも気を付けろ。だが万一、ローゼの相手がまともなら、その時は一緒に連れ帰ってくれ」
「承知致しました」
「御意」
二人は深く礼をすると、駅の中へと消えていった。
「……さあ、戻ろう」
「はい、ご主人様」
ランツェが車に乗り込む間に一瞬、ミゥは二人が消えていった駅の雑踏を見遣った。そして、普段の彼女からは想像もできないほどに、不敵な笑みを見せるのであった。
イーリスとサファイアが立派なコンパートメントに落ち着いた頃、発車を告げるベルがホームに鳴り響いた。
ホームには、見送りの人間が大勢いる。豪華列車の出発だけあり、見送りにも裕福そうな姿をした人物が多い。
なおランツェたちはここまでは来ていない。当初彼はホームまで来ようと言っていたものの、時間の無駄だとイーリスが突っぱねた。
同乗者の多くが窓から手を振っているが、イーリスとサファイアはカーテンまで閉めて、顔さえも出さなかった。名家の人間として、イーリスも多少は顔を知られている。姿を見られて何か言われると面倒だと考えたためであった。
間もなくして、甲高い汽笛と共に、重い車輪が動き始める音が伝わって来る。
サファイアは荷物の中から焼き菓子を取り出し、小さな折り畳み式のテーブルに載せる。丁度その時に、紅茶を持った乗務員が各部屋へ回ってきた。この列車の中では、メイドも立派な客である。ほとんどメイドらしい仕事はしなくて良い。それに思い至り、イーリスはサファイアに声を掛けた。
「いいわよサファイア、ゆっくりしていなさい」
「はい、ありがとうございます。それでは」
主人と従者は、二人して紅茶を飲む。イーリスは日本語の参考書を読み、サファイアは小説を読む。両者無言のまま、段々と間隔を短くする線路の継ぎ目の音だけが響く。車窓はメートヒエン郊外の田園風景に移り変わっていく。
二人の目的地であるクラックヴァレーへは、この急行列車では直接行くことができない。支線に乗り換えるため、ドミルという内地の駅まで行く必要がある。ドミルへの到着は、翌日の朝九時予定であった。それまで、食事は全て食堂車で提供される。
ほとんど喋らないまま日中を過ごしたイーリスとサファイアだが、食堂車での夕食時には互いが読んでいる本について会話が弾んだ。
「へえ、その作家、なかなか期待できそうね」
「ええ、私、大好きなんですよ。まだ小説家としてはあまり高名ではありませんが」
「そういう作家を見つけ出せる能力ってすごいわよ。ただ語学を学んだだけでは得られない、天性のものかもしれないわ。大事になさい」
「はい、ありがとうございます」
サファイアは屈託なく笑った。ただの町娘と思っていたが、なかなかに興味深いメイドだとイーリスは感じた。仕事の能力ではミークの方が一段上とは感じられたが、サファイアにも不満はない。ミークは完璧に仕事をこなしていたが、イーリスとの間でこんなにも話が弾んだことはなかった。
イーリスはこの時間に浸り、食後のコーヒーを飲んだ上にバーカーへ移って、白ワインまで嗜みながら、サファイアとの会話を楽しんだ。
すっかり零時を過ぎてコンパートメントに帰ってきた時には、イーリスは既に半分以上眠っていた。
「イーリス様、お気をつけて……はい、ベッドはこちらです」
「はい……おやすみ、サファイア……」
立ったままゆらゆらと船を漕ぎながら、イーリスはベッドに吸い込まれるようにして横になると、すぐさま寝息を立て始めた。
サファイアはそれを見て小さく微笑む。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
そう言って、サファイアもすぐにベッドで目を閉じた。
列車がちょうどゆりかごとなり、話し疲れと美酒の酔いも手伝って、二人の眠りは非常に心地よいものとなった。夢を見る暇もなく、寝台急行の夜は更けていった。
そしてその翌朝、普段から早起きが習慣となっている二人は、六時には目を覚ましていた。
「おはよう、サファイア」
「おはようございます。イーリス様……って、ああ! 申し訳ございません! こんなはしたない姿をお見せしてしまって……」
「え? あ、いいのよ、ツインなんだから当然よ」
イーリスが目を擦りながら、ベッドから起き上がる。サファイアは丁度着替え中であった。メイド服姿の折の予想よりもずっと豊満な胸が、列車の振動に合わせて揺れている。
「私も着替えるわね」
「え? あ、お手伝いします」
「大丈夫よ。服くらい着れるから。それよりまずあなた自身の服を着なさい」
「……はい」
列車は快調に走っていた。ドミルまではまだ三時間ほど掛かる。車窓から見える風景は、広がる田園であった。
着替えながら、サファイアが問う。
「朝食までは食堂車でいただけそうですね。いかがなさいますか? ドミルまで待ってから食べても良いですが」
しかし、イーリスは首を横に振った。
「ありがとう。でもドミルに着いたら一番早い乗り換え列車に乗りたいわ。ゆっくり食事をとるのは、ローゼと合流してからにしましょう」
「わかりました、イーリス様。では、もう食堂車は準備が出来ているようですので、早めに済ませてしまいましょうか」
「ええ、そうするわ……でもちょっと冷えるわね」
車内には石炭を用いる暖房があるにはあったが、冬の朝の冷え込みは激しい。快適な列車ではあったが、寒さを完全に克服するにはまだ力不足だった。イーリスは初めてエルガロードを訪れた時と同じ、彼女にとってのセミフォーマルであったが、寒さを凌ぐには心許ない。
「何か羽織っていきたいわ。確かカーディガンがあったわね」
「あ、カーディガンでしたらこちらの荷物の中に……」
サファイアが鞄を開けて中身を探る。すぐに目的の紺色のカーディガンが見つかり、イーリスはそれをサファイアから受け取ると同時に、ベッドから立ち上がった。
車窓から差し込む光が陰った。列車は、別の路線との立体交差の、下側の線路に差し掛かったのだ。
それが起こったのは、その瞬間であった。
一瞬、強い光が放たれたような感があった。
イーリスの意識はそこで途絶えている。
以下は、後方車両で窓を開け、前方を眺めていた男性客の証言である。乗客の中では、この惨事をしっかりと目撃した唯一の人物であった。
「二つの線路が交差する橋で、突如、爆発が起こった。自分が乗っていた客車は大きく揺れた後に急停車し、再び窓から前方を見ると、脱線した車両の向こう側に、爆発が直撃したらしい車両の外壁が、見るも無残に吹き飛ばされ、煙を上げていた」