街灯の下で(童話12)
夜ふけの波止場に、長い航海から帰ってきた貨物船が泊まっている。
貨物船のタラップを、一人の男がゆっくりとした足どりで降りてきた。
男は波止場に降り立つと、まっすぐ街へと向かって歩き始めた。遠くに見えるガス灯の明かりがチラチラとゆれて見える。
波止場を通り抜け、街に近づくにつれ、まわりが少しずつ明るくなる。
男は街角までやってきた。
街灯の明かりに、船長服姿の立派な身なりが浮かび上がる。
通りは子供の頃と変わっていない。
たいして明るくもない街灯が点々と続き、人通りもまばらだ。
いくつかの店の前を通り過ぎ、男は一軒のレストランの前で足を止めた。この街に帰ると、必ずここに来ていたのである。
男は街灯の下のベンチに腰をおろした。
それから目を閉じてもの思いに沈んでしまう。三十年も昔のことを、まるで昨日のことのように思い出していたのだ。
波止場で眠そうな汽笛が鳴った。
まだ少年だった頃。
毎晩、この街灯の下で母親の帰りを待っていた。船乗りだった父親が海でなくなってから、母親はレストランで働いていたのである。
ある晩、母親を待っていると……。
一人の老人が波止場の方からやってきた。
老人の足どりはふらふらしており、ひどく酔っぱらっているように見えた。
少年はベンチで身をちぢめていた。
この老人は港の倉庫番をしているのだが、いつも昼間から酔っぱらっているので、町のだれからもたいそう嫌われていたのだ。
「母さんを待ってるのか?」
おもいがけず、老人が声をかけてきた。
母親が夜遅くまで、目の前のレストランで働いていることを知っているらしい。
「……」
少年はこわごわとうなずいた。
「オマエを見たら、息子のことを思い出してな。ちょっくら話し相手になってくれんか」
ベンチに座った老人は、上着の内ポケットからシワだらけの写真を取り出した。
「死ぬ前にな、だれかにこれを見てほしかったのさ」
いったん写真に目を落としてから、老人はゆっくり言葉を継いだ。
「カミさんと息子だよ」
写真には若い女と幼い少年が写っていた。
「どうだ、かわいいだろう」
老人の顔がほころんだ。
だが、すぐに沈んだ表情に変わる。
「ずっと会ってないの?」
少年は思ったままを口にした。
「ああ、何十年もな。で、これからも会うことができねえのさ」
「どうしてなの?」
「死んじまったのさ、とうの昔にな。だからどんなに会いたくても、会えねえのさ」
力なく首をふってから、老人は話を続けた。
「このワシも、昔はいっぱしの船乗りでな。その航海の間に、はやり病でなくなっちまったのさ。それからだよ、酒が友になっちまったのは」
胸の奥深くにしまっていたものを吐き出し、気持ちが楽になったのか、老人は少年に向かって小さくほほえんだ。
「オマエの父親も死んだのか?」
「船が嵐で沈んじゃったの」
「かわいそうに……」
「ボク、父さんのように船乗りになるんだ」
「そうか、船乗りにな」
「大きな船の船長になるんだよ」
少年は目を輝かせて言った。
このとき、なぜか……。
それまで母親にも語ることのなかった、胸に秘めていた夢が、おもわず口から出ていたのだった。
「そういえば、息子の夢も船長だったな」
老人が目をうるませる。
「こんなにいい気分になったんは、ずいぶんなかったことだ」
そう言って立ち上がると、老人はフラフラとした足どりで波止場へと帰っていった。
翌日の晩。
少年はいつものように街灯の下のベンチに座り、仕事の終わる母親を待っていた。
すると……。
老人がふたたびやってきた。
今夜は酒を飲んでいないのか、老人の足どりはしっかりしていた。
「昨日はありがとうよ。オマエのおかげで、こころおきなくこの世とオサラバできそうだ」
老人は古い革のバッグを肩からおろし、それを少年のひざの上に置いた。
ずっしり重い。
「なにが入ってるの?」
「ワシにはもういらないものさ。えんりょせずに受け取るがいい」
少年がバッグの口をあけると、かなりの金が中につまっていた。
「こんなにいっぱい、どうしてボクに?」
「船長になるにはな、学校に行って勉強しなきゃならん。それには金がいるのさ」
老人はバッグを、少年の胸に押しつけるように抱かせると……。
「夢が叶うといいな」
それだけ言い残し、街灯の下から足早に立ち去っていった。
数日後。
少年は街のうわさで知った。
老人が死んだということを……。
男は顔を上げ、レストランの窓に目を向けた。
いつしかカーテンが閉まり、看板の明かりも消えていた。
――もうすぐ母さんと会える。
はやる気持ちは、幼いあの頃と少しも変わっていない。
航海から帰ると……。
この街灯の下で、男は必ずこうして母親を待つのであった。