情けない男だという自覚はあります
「コザック!遅い!もっと早く走れないの!?」
先輩が大声で怒鳴った。僕は息を切らしながら全力で走っているけれど、先輩はその遥か前方を走っている。腕の中に抱えている担架がガタガタと音を立てた。
「お待たせいたしました!怪我人はどちらですか!」
目的の場所に着き先輩が声を上げると、体格の良い男の人たちが出てきて慌てたように奥へと誘導する。ざわざわとした騒めきが、いつまでも止まない。
僕も慌てて後を追う。ぜえぜえと息は切れたけれど脚は止まらなかった。その場の空気が、ぴんと張り詰めていて、急げ急げと僕を急かしていた。
「っ、なにがあったんですか!これは!」
先輩が、らしくもなく悲鳴のような声を上げた。
ひどい、状況だった。
恐らく気を失っているのだろう、目を瞑りだらりと四肢を投げ出しているその人の身体は、ところどころが赤黒く変色している。その中には刃物のようなもので切りつけられたような傷もある。明らかな暴行の跡だ。それも、新しい傷ばかりではない。
「恥ずべきことだが、内部で新人いびりがあったようだ。加害者についてはもう報告してある。恐らく除名及び傷害罪ということになるのだろう。国王もお怒りだと聞いている」
僕達を案内してくれた男性のうちの1人がそう答えた。
ぶるり、と全身に震えが走る。同じ人間のする事なのかと思った。唯一傷のない綺麗な顔は青白く、死んでしまっているのではないかと不安になる程だ。
「……加害者の報告、ですか。自らのところから犯罪者を出す事を厭うのはわかりますが、貴方達はまず私たちを呼ぶべきでしょう?国を、国民を守るべき貴方達が、自分たちの立場ばかりを守って、人間1人守ろうとしないのですか」
先輩の声は震えていた。それに男達は言葉を詰まらせる。先輩はその様子を鋭い目で一瞥すると慣れた手つきで応急処置を施して、担架に乗せるように僕に指示を出した。
担架に乗せて気付いた。
男性にしては軽い身体。筋肉がしっかりとついているのにどこか柔らかくしなやかな腕。短いが、さらりと揺れる黒髪。整った美しい顔。
この人は……女性だ。
軍人初の女性、サラベル。今、国中の話題になっている女性の現実が、ここにはあった。
僕は、なんだかひどく泣きたい気持ちになって、ぎゅっと唇を噛み締める。
「コザック」
先輩が、柔らかい声で僕を呼んだ。
「今は彼女の痛みを少しでも取り除く事だけを考えなさい」
僕はひとつ頷いて、慎重に彼女を運ぶ。少しでも少しでも、彼女の痛みが、悲しみが、癒えますようにと神に祈りながら。
ずっと人形のように眠る彼女をそわそわと見つめている僕に、先輩は少し笑ってから、これから熱は出てくるだろうけど命に別状はないから大丈夫だと教えてくれた。
結局、彼女が目を覚ましたのは次の日の朝。彼女が目を覚ます、その瞬間を僕は見ていた。ゆっくりと、まぶたが持ち上がり宝石のような真っ黒の瞳が現れる、まるでなにかの神聖な儀式のようなその瞬間を、僕は見ていた。
「こ、こは……?」
僅かにかすれた低音がぽつりと、落ちた。
「ここは、医務室ですよ」
「あ、……ああ、あれで……そうか。っ、」
動こうとしたのだろう、痛そうに顔を歪め息を詰まらせる。
「一週間はここで安静にしていてください」
「なにを言っている。毎日鍛錬をしないと身体が鈍ってしまうだろう。安静になんてしていられるか」
「な、にを……貴女こそ、なにを言ってるんですか!そんな身体で動こうなんて絶対に許しません!」
カッと頭に血がのぼった。なにが気に入らないのか、自分でもよくわからない。けれど、彼女が自分の怪我をなんとも思ってないかのような態度が、僕は無性に悲しくて、そして悔しかったのだ。
サラベルさんは驚いたように目を見開いてから、不可解そうに眉を寄せる。
「この程度の傷で……」
息を、飲む。自分でも今まで感じた事のない感情が僕の身体の中でグラグラと煮えていた。多分これは、怒りだ。
「この程度の傷……?気を失うような怪我がこの程度ですか?まる1日、目を覚まさないような状況が、この程度だと?僕の仕事は貴女の怪我が治る手伝いをする事です。貴女に恨まれようと、殴られようと、どうなろうと、今おひとりで動く事は絶対に許しません」
サラベルさんは、しばらく目を見開いて僕を凝視した後、どこか不快そうに目を細めた。
「ふうん。殴られてもいいのか。なめられたものだな。私も軍人だ。いくら女と言っても力はそれなりに強いと思うが」
「僕は自分の仕事に誇りを持っています。絶対に引きません。それに、なめてなんかいませんよ。僕は、普通の女の子に叩かれてもふっとびますから、今だって本当は震えが止まりません」
僕が震える手をぎゅっと握りしめながらそう言うと、サラベルさんは再び大きく目を見開き、それからぶるぶると震え出す。やがて堪えきれないかのように、ぶはっと噴き出した。笑うたびに、身体に痛みが走るのだろう、ひくりひくりと肩が揺れている。それでも、目に涙を浮かべながら笑う彼女を見て、先程までとあまりに違う印象に、驚いた。
「そんなに堂々と……お前、見た目に反して意外と中身は男らしいんだな」
やがて落ち着いた彼女はひとつゆっくりと息を吐くとそう言った。先程までのどこかとげとげしい雰囲気はもうなく、穏やかな目で僕を見ている。
「そんなこと、初めて言われました。先輩にはいつも本当に男かって怒られます……」
「まあ確かに、身体は貧弱そうだ」
そう言って僕の身体を上から下までさっと見ると、再び笑った。無邪気な少女のような笑みに息を飲む。
「……ちゃんと、国王様にも隊長さんにも許可はもらっていますし、寧ろ休ませてくれと言われています。ゆっくり休んでください」
僕がゆっくりとそう言うと、今度は困ったように苦笑して小さな小さな声でそうか、と一言だけ呟いた。
「……加害者達については軍からの除名及び傷害罪だと正式に決まったそうです」
「そう、か」
「あまり、嬉しそうじゃないですね……」
口からぽろりと言葉がこぼれ落ちてから、ふとそれもそうかと思い直す。あそこまでの事をやられたのだからもっと重い罰を望んでもおかしくないのかもしれない。けれど、彼女の口から飛び出たのは予想外の言葉だった。
「あまり、興味がないな」
「え……」
「確かに、彼らがいなくなることで前よりも訓練の時間が増えるのは良いことだが」
「そういうことじゃ……」
「……ずっと人の住まない山で父と2人、暮らしていた」
ぽつりと呟くようにそうこぼしたサラベルさんは、ゆっくりと目を細め、どこか遠くを見やった。
「食料も自分で手に入れなければならない。毒のある植物もある。危険な生物もいる。そんな中で自分の勘だけを頼りに私は生きてきた。そして、その勘を私はなによりも信頼している」
「サラベルさん……?」
サラベルさんは、唇を微かに舐めるように舌を動かした後、僕を見る。自信にあふれた、強い目だ。獲物を見る猛禽類のような、そんな目だ。
「そんな私の勘が、彼らの暴力のどれも、私の命を脅かすものではないと私に告げていた」
は、と声にならない息が漏れた。
違う、と思った。確かに、怪我のどれもが命に関わるものではなかった。確かに、彼女の勘は信頼できるものなのかもしれない。けれど僕の直感は、それがすべてではないと言っていた。僕になにがわかるものかと彼女は笑うだろうか。けれど、けれど、本当は、きっと。
「サラベルさんは……死が恐ろしくないのですね……」
虚をつかれたように動きを止めたサラベルさんは、なにか恐ろしいものでも見るように僕を見た後、なぜか泣きそうに顔を歪めた。
「な……にを、」
「……でも、貴女が死を恐れなかろうが僕には関係ない。貴女が嫌がろうとどうしようと、僕は貴女を死なせない。僕が貴女を死なせない」
そう言った僕に彼女は大きく目を見開き、再び、なにを、と口を動かした。
なにをこんなに熱くなっているのか、自分でもよくわからなかった。でも、僕は悲しかったのだ。彼女の一挙手一投足が、僕の存在を否定するようで。全身で僕の事など、必要がないと叫んでいるようで。僕はただ、それが無性に悲しかったのだ。
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。サラベルさんは、突然隠れて訓練をしようとしたり、先輩に怒られている僕をにまにまと眺めていたり、脱走しようとしたり、する事はめちゃくちゃだったけれど、なんだかんだ、僕達を本気で困らせるような事はしなかった。
コザック、と僕を呼ぶ。
なんですかと聞くとなんでもない、と言って、いたずらが成功した少女のように笑う。穏やかな毎日。彼女が戦場に立つべき人だと忘れてしまいそうになる。
彼女の怪我が幾分か良くなって、明日にはもとの日常に戻れるだろうという、ある日。サラベルさんは国王様に呼ばれて、謁見室へと向かっていった。一応、例の件の事情聴取ということにはなっているが、国王様とサラベルさんの父は古くの知り合いらしく、その繋がりでサラベルさん自身とも親しいのだそうだ。単純に彼女の身体を心配しているのだろう。
謁見室から思い詰めた顔をして戻って来た彼女は僕の顔を見ると、一瞬泣きそうに顔を歪め、唇を一度きゅっと噛むとそれからサッと顔を引き締めた。
「国王から、貴族と結婚をしないか、と言われた」
「え……」
「昔、偶然に山で遭難しているところを助けた紳士が貴族で、息子との結婚を私に望んでいるらしい」
心臓が嫌な音をたて、頭がぱんっと真っ白になってしまったようだった。目の前にいるはずのサラベルさんの声がすごく遠くに聞こえて、それがますます僕の不安を煽った。
「よ、良かったじゃないですか!」
「……え、」
「貴族と結婚出来るなんて、そんなチャンス、なかなかあることじゃありません。それに、戦場で怪我をする心配や命の危険もなくなる。良いこと尽くしじゃないですか!おめでとうございます、サラベルさん」
僕の口は、まるで僕のものではないかのようにぺらぺらぺらぺらと言葉を並べた。口を閉じてしまったら、なにかが僕の中から溢れ出してしまうような気がして、僕はそれがとても恐ろしかったのだ。
「……そ、うか。そう、だな、ありがとう」
なぜかひどく傷ついたような顔をして、小さく小さくそう言ったサラベルさんは、足早に僕の脇を通り抜けると医務室のベッドへと潜り込んだ。
「昨日は、色々すまなかったな。私も突然の事で気が動転してしまっていた」
次の日、サラベルさんはそう言って恥ずかしそうに頬を掻いた。
「いえ……気に、しないでください」
「それに一週間色々とありがとう。おかげで痛みもだいぶ良くなった」
「サラベルさんの回復力が高くて僕達も驚きました」
そう言ってから、二人で笑う。
「それじゃあ、な。コザック」
「はい、お元気で。サラベルさん」
彼女がゆっくりと、医務室を出て行く。けして振り向くことはない。彼女の後ろ姿を見ながら、僕は彼女を引き止めたがる自らの腕にぎゅっと強く強く爪を立てた。
「コザック、そろそろいい加減にしなさい。仕事が出来ないのなら帰りなさい。使えない奴はここに必要ないわ」
後ろから聞こえた先輩の厳しい声に、振り返ると心配そうに僕を見る目があった。
「すみません……情けないですね、僕」
僕がぼんやりとそう言うと、先輩はひとつ大きな大きなため息をつく。
「ご飯もろくに食べてないんでしょう。とりあえず一日休みなさい」
「でも……」
休みたくない。なにかしていないと、彼女のことばかりが頭の中に浮かぶから。寂しくて、寂しくて、堪らなくなって、しまうから。
「一日使って、色々と気持ちの整理をなさい。もう何日そうしていると思っているの」
わからない。サラベルさんの顔を見なくなって、数日間は大丈夫だったはずだ。サラベルさんが軍を抜けたと聞いて、多分それから、なにをしていても彼女の事ばかりを思い浮かべてしまう。あの日の、彼女の傷付いたような顔ばかりが頭の中で蘇る。何度も、何度も。
少女のような笑顔も。僕の名前を呼ぶあたたかな声も。
全部全部、もう僕のそばにはない。きっともう、二度と会うことは出来ないのだ。
休みを一日貰っても、気持ちの整理なんて出来なかった。なにも考えたくなかった。ただただ彼女の事を思い出しては、二度と会えないという現実が僕を打ちのめす。一日中人形のように座りながらそれを繰り返して、休む前よりきっと僕は使い物にならなくなっているなとぼんやり考えた。
次の日、いつものように医務室へと向かうとそこにはサラベルさんが立っていて、ああ、ついに幻覚まで見えてしまったのかと自分を嘲笑った。幻覚じゃないのなら、夢かもしれない。でも、幻覚でもよかったのだ。夢でもよかったのだ。サラベルさんに、僕はただ会いたかった。
サラベルさんが、いる。目の前に、いる。ぽたり、と目からなにかが落ちて、目の前のサラベルさんが大きく目を見開いた。
「コザック……」
僕の名前を、呼んだ。あたたかい声だ。僅かに低い、例えるならば樹木のような、僕を包み込んでくれるような優しい声。
近付いてきたサラベルさんは、ゆっくりと僕の頬に触れる。やけにリアルな感覚に驚いた。
「泣くなよ、男だろう」
「……僕は、女々しいです」
僕の言葉にサラベルさんが、楽しそうに笑う。
「女々しいやつは、自分の事を堂々と女々しいなんて言えないんじゃないか?」
あたたかい手が僕の頬を包み込んだ。
「お前は男らしいよ、コザック」
目が、合った。強くて、美しい、目。
「あ、れ……え、ほん、もの……?」
僕の言葉にキョトンと目を丸くしたサラベルさんはそれから小さく噴き出してクツクツと笑った。
「私の偽物がいるのか?それはぜひお目にかかりたいな」
「え、だって、だって、サラベルさんは貴族と結婚したはずじゃ……」
「ああ、断ってきた。また軍に戻るよ。やはり私には荷が重かった」
「ええ!?断ったって……国王様の……」
「関係ないな、私は私のしたいようにする。殴られようとどうなろうと構わない」
そう言って悪戯っ子のように、にやりと笑った。どこかで聞いたような言葉にひくりと頬が引きつる。
「まあ、私の場合は国王が器の大きい人だと知っているからな。少なくとも死罪だけはないと踏んでのことだよ。実際に、国王に報告したら苦笑していたしな」
少なくとも死罪だけはない、という言葉に驚く。彼女から死を恐れるような言葉を聞くなんて思ってもなかったのだ。そんな僕の驚きを感じ取ったのだろう。彼女は僅かに困ったように眉を下げると、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「死んでしまったら……なにも出来ないからな」
「でも、じゃあ、それこそ、戦場よりも貴族のほうが安全で……」
「お前が、」
「え?」
「お前が、私を死なせないでくれるのだろう?コザック」
そう言って、サラベルさんはまた無邪気な少女のように、笑った。