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お花畑  作者: イカニスト
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ワラオ

題名「お花畑」

第一章「根拠の塔編」

第一話「ワラオ」


半径45メートルの石畳、その先は無。

ポツンとある一軒のパン屋。

それが俺の世界、俺が想像して作った有限幻界だ。

石畳の先が無いのは俺が考えていないから。

この世界は俺たちが想像してできたものだけの有限の空間。

他の人はだいたい半径250mとか400m四方くらいの空間を想像するので、俺の世界はとても小さい。

小さくて構わないんだ。

俺はこの小さな世界で十分満足している。

俺の名はニカイー。

一人の少女が、勢いよく俺の腕に抱きついてきた。

俺は2歩、3歩とよろけてしまった。

「危ないな。腕がもげるかと思ったぞ。」

「なによ、アンタなんか腕をもいだって、すぐに新しいのが生えてしまうくせに。」

俺だけが特別みたいに言うな。

この世界の住人はみんなそうだろう。俺たちは保全機能に保護されている、たった2310人の人類の生き残り。俺たちが死のうと試みたって、保全機能が死なせやしない。イェト、お前も含めてだ。

彼女の名はイェト。今は俺の恋人だ。

それにしても何故、女というのは17歳あたりの姿を選びたがるのだ?そういった宗教でもあるのか?

この世界では人間の姿も想像しさえすれば自由に選べる。

年齢どころか性別の詐称だってありだ。

俺は二十歳の姿を選んだが、それは決して年齢を詐称したわけではなく、保全機能に保護されたときたまたま20歳だったってだけだ。今の実年齢に合わせて見た目を変えようかと思ったこともあったが、てんで頭が悪いもので、30歳の俺、40歳の俺というのが想像できない。

美女しかいないこの有限幻界で、俺はあえて俺本体そのままの容姿にしている。

美男子の姿を考えるのが面倒だったから、まんまでいいやって思った。

男は俺に限らず、必ずしも美男子の姿を選びはしないようだ。

イェトの容姿はと言うと小顔でスレンダー。バレエをやっていたので、バレリーナとして理想の姿を選んだようだ。

だから胸も控えめで、黙っていれば儚げで可憐だが色気には欠ける。

口を開くと、その儚げで可憐なあたりが丸ごと吹っ飛ぶ。爆竹みたいな威勢のよさだ。

正午ちょっと前。いつも通りの時間に俺のパン屋の常連、コンスースが入り口の扉を開く。真鍮製のベルがカランカランと彼にいらっしゃいませを言う。

「おっと、」

その人当たりのいい青年の横、入り口との間にできたわずかな隙間を小さな影がすり抜けてきた。

「どうした、そんなに慌てて。」

ベールで顔を隠したパンジャビドレスの小柄な少女は強引に俺の手を引いて店の奥の部屋にずんずんと進み、鍵をかけてしまった。

イェトもコンスースも彼女のことはよく知っているので、このような事態に驚きもせず、二人で世間話をしている。

部屋で二人っきりになると少女は俺の脇の下に潜り込みつつ、ベールを脱ぎ捨てた。

宵の口の薄暗がりに見る雪原のような、神秘的な淡いグレーのショートヘアー。

顎のほくろが向かって右側についている。ってことは、彼女はプライマリだ。いや、実は俺の脇の下に来た時点で”プライマリだ”とも言い切れるが。

「プライマリ。何かあったのか?」

「あとで説明する。」

そう言って彼女は俺に袖搦そでがらみを渡す。

先端に鈎爪が付いた長柄棒。抵抗する犯人などを取り押さえるのに用いる長さ7尺の棒。捕物三つ道具が一つだ。

これを見ただけで要件の九割は分かる。

「化け物が出たのか?」

「行くぞ」

彼女はベールを被り、俺に抱きついてチャンネルを切り替え始めた。

俺達一般ユーザーよりもroot権限を持つ彼女の方が切り替えの処理が早いので、俺は彼女の手回り品のような扱いでついていく。

チャンネルを切り替えるとは、俺たちの小さな世界間を移動する手段である。詳しくは第7話で説明する。

「何処に行く?」

「ワラオという女の有限幻界だ。」

到着した世界は虚無の地平線一面にカーネーションが咲き乱れている。

なんと美しい。

俺は無の空間に突然生えている花を一輪手折って口元に寄せ、花の香りを楽しんだ。

「29年ぶりだ。」

顔を上げて花園の中央を見ると、一体の化け物が蠢いている。

「あれも29年ぶりだ。」

俺の役目は、あの化け物を押さえつけてプライマリの前に引っ立てることだ。

この世界に着くやいなや、プライマリがエントリーポイントから袖搦を遠投し、チャンネルの切り替えは阻止している。

「さっさと片付けるぞ。コンスースが腹をすかして待っている。」

俺が恰好をつけて袖搦を構えたところに、プライマリが「おかしい」などと首を傾げたものだから、突撃しかけた俺の体が前につんのめりそうになった。

「どうした?」

「お花畑の化け物は2体のはずだ。反応は2つあった。」

「気になるのか?」

「無論だ。」

「で、目の前のアレはやっちまっていいのか?」

化け物は胴体に刺さった袖搦を角を絡めて掴み、苦しみながら引き抜いている。

浅く刺さっていたので間もなく引き抜き切った。

プライマリが手をかざすと袖搦は空を飛んで、彼女の手に戻ってくる。

この隙に俺たちはエントリーポイントから化け物のすぐ近くまで近づいてこれた。

いつものパターンだ。

「ああ。」

「了解だ。」

俺は袖搦を担ぎ、20メートル先の化け物に向かって、跳んだ。

吐き気をもよおす様な異臭。

29年ぶりだ。

腐った牛に巨大なウジが群がっている、あの目を背けたくなる醜い姿。

29年ぶりだ。

長く伸びたウシの角が俺の腹に風穴を開ける。この激痛。

29年ぶりだ。

お花畑の化け物は人体を侵食する。その肉体的な苦痛も相当なものだが、それにプラス精神的にもダメージがあり、これがまったく…正気を失いそうになる。

プライマリによれば、この苦痛は俺たち人類が自分に理解できない英知を拒絶するがゆえに生じるのだそうだ。

ウシの角は俺の内臓をいいように引っ掻き回した後、俺の腹から抜けて、元の長さに戻った。

「へっ、」

腹に空いたでっかい穴が俺の想像力でふさがっていく感覚に思わず笑ってしまった。

傷口の四方八方からか細い糸のようなものが伸びてきて、絡まり合い、網のようになる。

網の目は最初は荒いが次第に目が詰まってゆく。

糸を足掛かりに血の色をした液体が失われた体の部位を生成して終了。

本当は瞬時に治せるらしいのだが、俺たち本体の脳の認知とかりそめの体の状態とのずれを生じさせないために、俺たち人間の脳が判りやすい復旧のプロセスを踏むのだそうだ。

俺はそのずれを気にしない程鈍い性格らしく、まぁ、化け物と戦う都合もあり、保全機能が復旧プロセスを俺だけ3倍速にしている。

不死身の肉体なんてまるで漫画の世界で、久しぶりに見るとどうしても笑ってしまう。

そう、29年ぶりだ。

お花畑の化け物の攻撃はいわゆるゾンビシステムだ。

ある程度の精神的なダメージを受けたらそのうち正気を失って、被害者もお花畑の化け物になってしまう。完全な化け物になるまで早い遅いはあるが、今のところそれを抑止する方法はない。

しかし、俺は、俺の精神は破格に鈍…強靭らしい。お花畑化どころかショック死しておかしくない程の精神的なダメージにも耐える。

今、化け物の攻撃を10も20も受けながら、俺は前に進んでいる。

身体の体積の50%以上を失った。通常ならば化け物化するところだが、俺は精神的なダメージに耐えきって、失った体の部位を復旧する。

「どうした?髪の毛一本でも残したら、俺は回復するぞ。」

俺は敵の攻撃を避けない。

ひたすら前進を続け、もう化け物に手が届きそうな距離から袖搦を振り下ろす。

「あ、」

巨大なうじ虫に右腕を食いちぎられてしまった。

俺の袖搦は右腕ごとカーネーション畑の底にザスンと沈んだ。

「まだ、何の武芸も身につけていないのか?」

俺が袖搦を取るためにかがんだ瞬間、俺の背後に隠れていたプライマリが腐った牛の右目をつぶし、ヒョウっと2回側転をして安全な距離をとる。

俺を盾にしたヒットアンドウェイ、彼女の戦い方は29年前と変わらない。

彼女は基本的に俺やイェトが窮地に陥らない限り、直接手を出そうとはしない。

人類の問題は可能な限り人類の手で決着をつけさせると言うのが保全機能の考えだ。

彼女は俺たちを助けるというよりは、化け物にチャンネルを変える隙を与えないように化け物をけん制している。

化け物の攻撃を受けながらチラミすると、プライマリが口を開きかけていた。何を言うかわかっている。

「「もじり術を身につけろ。」」

ハモってやった。

29年ぶりに聞く言葉だ。

プライマリはただ呆れている。

俺は生え変わった右腕で密集したカーネーションの根元をまさぐって、俺の袖搦を拾い上げた。俺が手をかざしても袖搦は俺の手に戻ってこない。

全身をズタズタにされながら、袖搦を持っていないからと不用意に近づいてきた腐った牛を睨み付ける。

俺には何の技もない。

「があああああぁぁっっ!!!!」

だから体にあるだけのアドレナリンで己を狂わせ、そこかしこが千切れとんだ体で袖搦を振るい化け物を滅多打ちにする。

腐ったウシが膝をついた。いける!

そのまま押し切ってしまえと考えたのだが、どうやら29年ぶりで少々感が鈍っていたようだ。

「ぐああっ!」

最後の力を振り絞って立ち上がったウシ。その角で体をぶった切られ、ついでに10メートル程吹っ飛ばされた。

あー、29年前はどうやってあいつらを倒していたっけな?

立ち上がろうかと思ったら、みぞおちから下がない。

回復するのを待つより、下半身を探してくっつけた方が早いなと思っていたら、俺の下半身を担いだプライマリが目の前に立っている。

「だいぶ感が鈍っているな。」

彼女は俺の下半身を投げてよこした。

俺もまさにそう思ったわけだが、人に言われると少々腹が立つわけで、肯定してやるのは全く癪だ。

「鈍るような技術なんて、はなから持ってねーよ。ちょっと自転車の漕ぎ方を忘れただけだ。」

下半身をくっつけたが、激しさを増す化け物の攻撃に、俺の全身は再びズタボロ。

プライマリは俺の背後に隠れている。

化け物にとって、今はチャンネルを切り替えて逃走するチャンス。

いつもならばそれを阻止するためにプライマリが攻撃をするのだが、プライマリは動かない。

ってことは、腐ったウシは俺を倒す気でいるってことだ。

見れば巨大なウジ虫が、もう、数えるのもめんどくさいほどの数に増えている。

これが最後の死力ってやつだと思うが、腐ったウシまでたどり着くのは厄介そうだな。

「イェトを呼べ。」

「あ?」

「彼女ならあの化け物と相性がいい。」

「セカンダリを呼んでくれてもいいんじゃないか?」

イェトを呼びたくなくて、断られるのを知ってそう言った。

人類は俺とイェトの二人が化け物と戦っている。

自身が化け物になってしまうかもしれないリスクを冒してだ。

ところが保全機能側は基本的に高みの見物。

それに対するささやかな嫌味だ。

「私たち接点は人類に最低限の干渉しかしない。何度言わせる。」

「29年もたてば人間が丸くなるかと期待したが、相変らず融通がきかないな。」

「私たち接点は人間じゃない。」

「ちぇ、」

俺は聴覚のライブ映像と音声通話をラッピングしたオブジェクトをイェトのアカウントに投げた。

イェトはすぐに応答してくれた。

『あらニカイー。奥の資材庫にいるんじゃないの?』

「ワラオという女の有限幻界だ。」

『え、と、何をしているの?』

台詞は疑問形だが、彼女は薄々勘付いている。

俺は「じゃーん。」とやる気なさげにぼそぼそと言いながら、俺を盛んに攻撃してくる化け物の方を向いた。

その映像は彼女にも見えている。

彼女は全てを察した。

ため息が聞こえてきて『…了解。』とそれだけ。

「やれるか?」

『誰に向かって言っているの。物理アドレスを送って。』

ラッパーオブジェクトを破棄し、物理アドレスを送り、「すぐ来るってよ」とプライマリに告げる。

プライマリはそれ以降押し黙ってしまった。接点は俺以外に顔を見せないし、声も聞かせない。

10秒とかからずにやってきたイェトがエントリーポイントから走ってくる。

プライマリがいつものお札の束を投げ渡した。

「相変わらずボロ雑巾みたいね。」

イェトが札の束を腰とホットパンツの間に挟みながら俺を見て、鈴の音のような声でケラケラと笑う。

お花畑の化け物を前に俺とイェト、二人、背中合わせ。

プライマリは戦場から距離を置き、そしてまるで監視カメラのように俺たちの戦いを見ている。

「29年ぶりのコンビ復活だな。」

イェトの大きなため息。

「ほんと、こんな気のきかない童顔の二十歳とさ。私ったらいったい何年付き合っているのかしら。」

「興味深い。暇なときに数えてみよう。」

俺が袖搦を担いで無謀な前進を始める。それしかできないからな。

バレエとスラックラインで鍛えたイェトは違う。

視界を覆い尽くす巨大ウジ虫の密集空間をかすり傷一つ追わずに通り抜ける。

研ぎ澄まされた反射神経と柔軟な身体。

全身がばねの様に高く、または遠くに飛ぶ。

見ている俺が驚くようなアクロバティックな動きと姿勢で、普通の人間なら通り抜けられない隙間に体を通す。

俺が心の底から戦いたくないと思っているのは 、誰でもない。イェトだ。

戦闘スタイルは正反対で、相性は最悪。彼女が両手に鉈なんか持っていたなら、俺は千の肉片に切り刻まれてしまうだろう。

いけね。

彼女に見とれていたら無数の巨大ウジ虫に群がられてしまった。体のそこらじゅうを食いちぎられながら俺は前進する。

「右に走って!」

イェトの指示に従って、半分白骨化した俺が巨大ウジ虫の塊を引きずりながら走る。

頭に噛り付いているやつをむしり取り、眼球を復旧すると視界が回復し、目の前に道ができているのが確認できた。

あの、腐ったウシに向かって真っすぐ道ができている。

彼女が札を使ってウジ虫を有限幻界からダウンさせたに違いない。しかし、俺達も不死身なら敵も不死身。ダウンした化け物の一部は数秒でこの世界に復旧してしまう。

だから急いで駆け抜けなければならない。

俺は、己の身体に袖搦をひっかけて、己の血肉を引きちぎり、己の血肉ごとウジ虫どもを振り払った。

「ああ、ちょっと軽くなった。」

イェトが作ってくれた道を潜り抜け、腐ったウシの前に来る頃には俺の身体はほとんど再生をしていた。

ウシの角が伸びて俺に向かってくる。

「まかせて!」

はるか上空から落下してくるイェト。

彼女が放った2枚の札で、ウシの角がダウン。

俺はウシの眉間に袖搦を突き立てた。

「ぬおおおおおっ!」

両足を踏ん張り、へそに力を入れて、天高くクソ重いウシを放り投げる。

上空で待っているのは接点プライマリ。

「お前はいつも、美味しいところだけ持っていく。」

彼女は腐ったウシの喉に袖搦をひっかけて、俺に向かって急降下。

それを待ち構えて俺は頭上に袖搦を構える。精神を集中して袖搦を倍の長さにし、先端を槍の形に変える。

ズザン!

腐ったウシは、口から肛門にかけてまっすぐ、俺の袖搦で串刺しになった。

ウシのでかい口は俺の腕をすっかり飲み込んで、胸のあたりを咥えている。

俺も今の衝撃で体じゅうの骨が骨折し、痛くてたまらない。

「早くしてくれ。ウシだぜ?しかもこのサイズ。折れた骨にはことのほか重い。」

今一度書くが、接点は俺以外には素顔を見せなければ、声も聞かせない。

彼女は無言のまま袖搦でウシをひっかき、ROM化した。

腐ったウシのワラオは俺達と互いに認識できるが、彼女が我々に干渉することは出来ない。それがROM化だ。

お花畑の化け物も生き残った最後の2310名の一人だ。殺しはしない。

プライマリたちに言わせればお花畑の化け物は俺たち人類の勘違いが引き起こした現象なのだそうだ。

彼女は「人類が解明すべき。」と言って、それ以上詳しくは教えてくれない。

不思議なことに、基本的に化け物の方からは攻撃をしてこない。

最初のお花畑の化け物チャケンダは自分以外の25名をお花畑化した。このとき人類は何の手も打てずにいた。そこで、人類にこの問題について検討する猶予を与えるために、化け物をROM化することになった。

化け物は俺が袖搦を手にして追うから反撃してくる。大人しくROM化されてはくれない。

「終わったな。」

ウシを地面に降ろして袖搦を引き抜いた。

パン屋に戻ろうとする俺の肩をつかんで止めるプライマリ。

「ああ、そうか…化け物の反応は2つ…だったか?」失念していた。

頷くプライマリ。

「なぁに?まだ化け物が居るの?どうなっているの?」

俺とプライマリのどちらに聞いているのか、イェトはクールダウンのストレッチよろしくアキレス腱を伸ばしながらそんなことを尋ねてきた。

「俺にもわからない。」首をすくめる以外出来ない。

「ふーん。まぁいいわ。どうせまた現れるでしょうから、そのときに私とアンタでROM化すればいいじゃない。」

頼もしい女だ。

「って訳だ。化け物の監視はお前たち接点の仕事。俺たちはパン屋に戻るぜ。」

そうプライマリに言い残して、俺とイェトはパン屋に戻った。

「イェトが急いで出て行ったけど、何かあったのかい?」

コンスースとお花畑問題検討委員会のジェジーが雑談をしていた。

コンスースが俺とイェトの姿を見つけるなり、心配をしてそう聞いてきた。

「なぁに、29年ぶりの楽しいデートさ。」

その俺の”29年ぶり”という一言にジェジーが色めき立つ。

「CHMODしてきたのか?29年ぶりのお花畑の化け物か?」

「ああ、一人はROM化してきた。」

「一人は?妙な表現だな。」

「もう一人いるらしい。そのうち接点の監視にひっかかるんじゃねーのか。」

ジェジーが鼻息を荒くしてせがむので腐ったウシ、つまりはワラオの物理アドレスを教えた。

コンスースが席を立った。

「一人じゃあ危ない。俺も同伴するよ。」

「そうだな、お願いできるか。」

「パンは適当に食わせてもらった。」

俺のアカウントに二人から代金の振り込みがあった旨通知が来た。

「まいど。」俺はいつもだるそうに話すが、別に眠いわけではない。省エネタイプなだけだ。

二人は男同士で手をつないでチャンネルを切り替え、俺のパン屋から去った。

何の前触れもなく、イェトが俺にキスをする。

「二人きり。静かね。」

イェトの頭を俺の胸に抱きしめた。心臓の鼓動が聞こえる様に。

「これでも静かかい?」

「そうね、下心丸出しのいやらしい音がしているわ。」

「へぇ、わかるかい?」

「だって、私の心臓の音と同じだもの。」

「「あー。熱い、熱い。」」

チョリソーとオウフが銀色の長髪を左右に揺らして俺たち二人を挟んで立つ。

いつの間に店に忍びこんできたのか。真鍮製のベルはならなかったぞ。

右を向いても左を向いても全く同じ顔、同じ笑顔が俺とイェトを見ている。

こいつらも接点と一緒で顎のほくろで見分けがつく。

向かって右にほくろの飴を舐めている方がチョリソーで、左にほくろがオウフだ。

第4話で説明するが、俺が顎のほくろを提案した。

「今日は来ないかと思ったわ。」

ジト目の棒読み。イェトはいいところを邪魔されて、いかにも不機嫌そうだ。

「楽園派の集会があったから遅れただけよ。」

二人はいつもの窓際の4人がけのテーブルに座った。

「集会って、根拠の塔の?」

イェトはチョリソーの横に座る。

オウフの隣は彼女の恋人ツイカウの席と決まっているからだ。

俺はいつもの紅茶を3ついれる。

「ドーナツ私の分も。」

イェトが手を振っているので、俺は皿をもう一枚棚から出した。

小ぶりのプレーンドーナッツを、7種類のスパイスを調合した特製の蜂蜜に浸し、ホイップクリームで飾りをつける。

「おまっとさん。」

テーブルに並べると、イェトが皿と俺の顔を交互に見る。

「なんだよ。」

「アンタ生きざまが雑なくせに、ほんと仕事が細かい可愛いおやつ作るわよね。」

「ほっとけよ。」

チョリソーとオウフが銀髪を小刻みに揺らしてクスクスと笑っている。

更にだ。フォークで小さく切って一口食べて、極めて不服そうな顔のくせに「美味い!」などと謎のクレームをつけて来たので、俺は即時にイェトの皿を下げてしまおうとしたのだが、フォークの柄で手の甲をガスガスとつつきまわされる破目になった。

痛い。

「何が不満なんだ、何が。」

「アンタが想像したものはなんでも作りが細かすぎなのよ。」

「じゃあ俺は凝り性なんだろうよ。分かったか?」

「ふつうは本物に対して何かが足りなかったり、曖昧にごまかしていたりするのよ。なんなの?このドーナツの完成度は。」

「フン。」

相手をするのが面倒になったので、俺はカウンターの向こうに引っ込んだ。

この狭い場所でテキトーに動画を検索して眺めているのが一番気楽でいい。

ふと、カウンター越しに窓の横のテーブルに目をやる。

女子3人といえば、やかましいおしゃべりという核爆発の臨界量で間違いないが、俺は甘いものを食べている間くらい声を発さないだろうと期待をしていた。

だが実は、その糖分をエネルギーに転換しているのではないかと疑うほどよくしゃべる。

「どうなん?根拠の塔って。」

「どうって?」

「ホラ、かっこいいーとか。すっごーいとか。」

「そうね、かっこいいし、すごいわよ。」

「言い方ぁ。馬鹿にしてるの?」

「だって本当にそうなんだもの。」

「地上600mの複合施設をたった14人で想像するのよ。」

「14人!?」イェトはテーブルに両腕を突っ張らせて目を丸くする。

「ホラ、驚いた。」

「私たち、その14人に応募したの。オーディションは1ヶ月以上先。14人が決まるのは根拠の塔計画の1週間前。」

「二人で一緒に受かりたいなぁ。」

バラエティー動画を見ていた俺が「あれ」と顔をしかめる。まるで他人事のような言い方だが、それくらい思わず口をついて、その言葉が出たのだ。

「チョリソー、お前らが出ていないぞ。」

「なんの話?」彼女は飴でほっぺたを膨らませてきょとんとしている。

「ゴゴナンデスって番組。動画!動画!」

「あーぁ、あの番組はライブストリーミングよ。」

「え、そうだっけ?ほんとだLIVEのステータス出てる。」

「私たちここに居るのに、ライブに出れるわけないじゃない。」

「出ろよ!いつも出ていただろう、お前たち!お前らのトークがないと盛り上がらないんだよ。」

「今日は集会があったのよ?アイドル業は完全にオフよ。」

この世界の女性はみな美人なので、多くが副業でアイドルをやっている。

チョリソーとオウフも”センシェン ガベジ”というユニット名で活動をしている。

彼女たちのトークは最高で、いつも腹がよじれて腸捻転になってしまうかと思うほど笑わされている。

俺はセンシェン ガベジの熱狂的なファンなのだ。

「今からでも乱入してトークして来いよ。俺は動画大好きっ子で、面白い動画を見ないと死んじゃう病なんだよ。チョリソー、お前のあのじゅるじゅるした語りを聞きたいんだよ。」

イェトがチョリソーとオウフの肩を寄せて耳元で囁く。

「馬鹿に対する最高の対応の仕方を教えてあげる。無視よ。」

我が恋人よ、言ってくれるじゃないか。

このパン屋に集う連中で、動画大好きの引きこもりは俺だけ。いつだって味方はいないさ。俺は両手を上にあげて口をへの字に結んだ。


ワラオの有限幻界に到着したジェジーとコンスース。

ジェジーはカーネーションを踏みにじりながら走り、ROM化された腐った牛の角を握りしめた。

「記録では、自然発生したお花畑は最初の化け物チャケンダだけだ。ワラオはどうやってお花畑になったのかな?」

「さぁ。」コンスースが首をすくめる。

「ニカイーが”もう一人”と言っていたのが気になるね。ワラオがそのもう一人に浸食されたのなら話は分かる。」

「そうだな。」

「何処にいるのかな?」

「この近くかもしれないぜ。そういう危険があるから見張り番として僕が居る。」

「そうだな。しかし”何処”は比較的にどうでもよい情報だ。問題は”誰”だ?」


『チャケンダだ。』

接点が…プライマリかセカンダリかはわからないが…root権限で俺を彼女の標準出力にして、強制的に情報を送ってくる。

『信じがたい話だが、彼が自力でパーミッションを書き換えてROM化から脱したようだ。そしてさらに信じられないことに、彼は今、人間の姿で居る筈なのだ。そうでなければ我々の監視体制に感知されない説明がつかない。』

最初の化け物、チャケンダが復活した。

質問も文句も驚きのリアクションもあるが、現状、俺の方からそれを彼女に伝える手段は何もない。

『チャケンダの有限幻界はもぬけの殻。彼は行方不明だ。これ以上の助力は許されていない。袖搦と札を送る。イェトと二人で捜索を。』

接点からの通信は以上。俺は彼女の標準出力から切り離された。

カウンターを見ると、その上に袖搦と札の束が乗っている。

接点め、エントリーポイント無視して物を送るなよ。危ないから。

「イェト!」

名を呼ぶと、バレリーナの小さな頭がこちらを向く。

チョリソーとオウフが居るのでチャケンダの名前は伏せた。奴の名前はインパクトがありすぎる。馬鹿の俺だってそれくらいの気は利く。

札の束を見て、彼女は無言で俺の方へとやって来た。

「今日は店じまいみたいね。」チョリソーとオウフが席を立つ。

「別に二人でお話していてくれてもいいのよ。」

「あなたたちが居ないとつまらないから帰るわ。そうね、どこかに潜り込めたら夕方のライブストリーミングにでも出てこようかしら。」

「出演が決まったら、必ずURLを送ってくれ。」

俺は右手で袖搦をつかみ取り、左腕でイェトを抱き寄せ、チャンネルを切り替えた。

到着した先はガーウィスの店。

「ここに来たってことは、たぶん戦う相手の居場所が不明…とかなのね。」

「ガーウィーース!」

ずかずかと店に入って大声で叫ぶ。

ガラクタの山の奥から白衣を着た老人がひょっこりと顔を見せる。

男はこれだから面白い。必ずしも美男子が理想ではないのだ。俺は本体の顔のままだし、コンスースだっていい男だが美男子と言い切るには控えめだ。

「人を探している。そいつの顔は俺が記憶している。」

ガーウィスは腕を組んでしばし考えた後「全検索になるから時間がかかるぞ。」といった。

「手がかりがない。足を使って探すよりここで探した方が早い。」

ガーウィスが俺の前に顕微鏡を2つ横にくっつけた様な機械を置いた。

「こいつを覗いて探しているものの姿を思い浮かべろ。」

俺は右手の袖搦を壁に向かって投げた。

袖搦は壁に突き刺さり、柄がビィンと一回、軽快な音を発する。

「言っておくが、全検索はかなり精神を消耗するぞ。まぁ、お前なら大丈夫か。」

ガーウィスの発明品は怪しいものばかりで、幾度となく酷い目にあってきた。

軽く腰が引けるわけだが、覚悟を決めてその機械を覗き込んだ。

思考力を全て奪い取られるような感覚。

この直後。

「お前なら、この店に来ると思っていた。」

突然、背後から聞こえてくる声。聞き覚えがある。俺は全検索を中断してガーウィスの機械から少しだけ顔を上げた。そして今一度考える。いや、奴は俺がこの店に来るなんて知らない筈だ。

俺がガーウィスの店を知ったのは、奴をROM化した後だ。

「袖搦を手放したな。」

疑問はあれどこの声はあの野郎で間違いない。下手な動きは出来ない。一発で決めなければ。

深呼吸。そして叫ぶ。

「イェト!その男から離れろ!」

「え!?」

「そいつはチャケンダだ!」

「!!」

イェトが横に飛ぶ。

チャケンダが化け物に変化する。1mあまりの線虫が、何千匹も絡み合い、共食いしあうおぞましい姿。嘔吐物のような異臭。

「きゃあっ!」

俺のせいだ。イェトはチャケンダと直接戦ったことが無い。俺はチャケンダについて何も彼女に伝えてはいないし、今回のターゲットがあの悪名高いチャケンダだってことすら教えていなかった。

化け物がイェトの予想を超えて巨大だったため、彼女は必死に身をかわしたにもかかわらず、左手の小指の先を侵食されてしまった。

イェトは”小指の先くらいなら”と内心ほっとしている。

しかし、チャケンダがもたらす精神的苦痛は、お花畑の化け物の中でも群を抜いている。別格、別次元なのだ。

間もなく訪れる心の苦痛。イェトはそのショックであっけなく気絶をしてしまった。

ガーウィスはとっくにチャンネルを切り替えてこの空間から逃げている。

イェトも化け物と戦うという責務が無ければ、同じ方法で逃げ切れたかもしれない。

俺は振り向きざま、奴の線虫に右腕を丸ごとぶった切らせた。

そして、左腕で俺の右腕を壁に刺さっている袖搦に向かって投げた。

俺の想像力ならば、切り離された右腕を動かせるはずだ…たぶん。

右腕で袖搦をつかみ、壁に踏ん張って引き抜いて、俺の方へぶん投げる。

左手で袖搦をキャッチ。

「また、スープにしてやるよ。」

袖搦を構えて折角すごんだのに、チャケンダは攻撃をしてこない。

それどころか、店の外に出て俺との距離を作りながら、人間の姿に戻ろうとしている。

「この一撃が全てだった。」

「降参か?らしくないぜ。」

「失敗だ。化け物の存在を感知して、まもなく接点がやってくるだろう。」

チャケンダは人間の姿に戻りながらチャンネルを切り替えて消えてしまった。

俺は袖搦を投げたが空振り。

どうやっているのか?奴がチャンネルを切り替える速度が早い。接点並みだ。

イェト。奴が消え去った直後、真っ先に俺の心を占領したのは気を失った彼女。

イェトは床に倒れているが目は開いている。自力で気絶から回復したようだ。やはり大した女だ。しかし、目がうつろだ。

「大丈夫か?」

「小指は回復したけど、心の痛みが取れない。」

嘘だ。そんな馬鹿な…。

その言葉に俺は狼狽し、信じられず、間もなくやって来たプライマリに問いただした。

俺の脇の下に潜り込んできたプライマリは、残酷にも首を縦に振った。

つまり「イェトのお花畑化が始まった。」ということだ。

その事実に俺は絶望し、気丈なイェトの目からも涙がこぼれた。

俺は右腕を即時に回復させて、両腕で強く彼女を抱きしめた。

「どんな結果になっても、俺はこの腕を離さない。」

彼女が、いや、むしろ俺の気持ちが落ち着いた後、チャケンダの居所を突き止めるためガーウィスの機械を使おうと思ったら、その機械も他のガラクタのほとんども奴が化け物に変化へんげした時にぶち壊されていた。

ガーウィスが戻って来た。

「この機械を使いたいのだが、どれくらいで修理できる。」

「修理じゃと?ぺしゃんこじゃないか。作り直すとなると一か月以上はかかるぞ。」

「設計図通りに組み立てるだけだろう?」

「そんなものはない。」

「なんだと。」

「わしは発明品を直感に任せて作るんだ。正直、どうやってあの芸術品を作ったのか、覚えていない。」

「クソっ!兎に角、最優先で作り直してくれ。」

俺は、イェトを抱いて、俺たちのパン屋に帰った。


ワラオの有限幻界。

ジェジーはまだワラオを調べている。

「特に変わったところはないな。」

「興ざめかい。」とコンスースが両腕を広げる。

「いや、これでいいんだ。後は僕が計画している”切離し実験”をどうやって保全機能に認めさせるかなんだ。切離し実験は彼らの協力なしには実施できないからね。」


接点プライマリが接点セカンダリの有限幻界にやってきた。

彼女らの世界は真っ白で何もない。

「チャケンダを取り逃がしたよ。」

「保全機能への報告は?」

「まだだ。君と情報を共有したい。」

「話を聞こう。」

「チャケンダは彼がROM化された時点では知りえなかった情報も有し、行動をしていた。ニカイーも不思議がっていたが、彼は人間の姿と化け物の姿を自分の意思で選べるようだ。そんな前例はない。さて、どう思う。」

「移動手段オミタバからヴァーセテに切り替える期日が迫っている。不明点があると100%マイグレート出来ない。解明しなければならない。」

「君もそう思うか。ではその様に報告しよう。」

プライマリは、セカンダリの有限幻界から退場をした。


俺はイェトをベッドに寝かせて、一人で彼女の有限幻界にチャンネルを切り替えた。

ソフィア国立歌劇場とその周辺を再現した彼女の空間。格式の高さを感じる。

彼女の世界の外周を歩く。そして、見つけてしまった。

紫陽花の花を。

一輪。握りこぶし大の無に一輪在る。

彼女のお花畑化は、確実に進行している。

「クソが。」俺は声をひきつらせた。

パン屋に戻ると、メールが来ている。チョリソーからだ。

”ロケに乱入して来たわ。夜10時から「お弁当チンしますか」って番組に出てるから。URLは自分で検索してね。”

すまない。今は動画を見る気分じゃないんだ。

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