異世界(7)
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「は、はぁ!?」
何処とも知れぬ渓谷で無事に目的の人物である彩香と再会することができた裕紀だったが、驚き顔で放たれた一言に思わずそんな声を上げてしまう。
いや、彩香のこの言葉は例え裕紀でなくてもこんな反応を取らざる得ないだろう。
なにせ、いきなり見知らぬ場所へ転送させられたり、仕方がないとはいえ携帯電話が故障し途方に暮れていた学生に、こともあろうに彼女は「どうしてここに来れるのか」と尋ねてきたのだ。
この問い掛けには、悪気がなければ小さいことはそこまで気にしない裕紀でも言い返さずにはいられなかった。
「ちょっと待てよ。イメージした場所に行けるって言ったのはお前だろ? なのに、こうして何処か分からない場所に飛ばされたんだ。先にそれを説明するべきなんじゃないのか!?」
「ちょっと、私はそんなつもりで言ったわけじゃ……」
裕紀に怒鳴られてようやく自分の失言に気が付いたのか、彩香は首を横に振りながら弁解を始めようとする。
しかし、彩香が何かを言う前に裕紀は自身の口を動かし続けた。
「自分の失敗を何も分からない相手に押し付けるのはやめてくれ。いくらお前が優等生だからって、やって良いことと悪いことがあるだろ。今までもこんなやり方で優等生をやっていたのなら、俺はお前と金輪際関わらないからな」
謎の男に襲われ何もできなかったのは裕紀の実力がなかったからだ。だから今回の件が彩香の手違いならばこの優等生にもそういう所があるのだ、という程度で済ませることができた。
だが、自分の犯してしまった失敗を誰か他の人に擦り付けるなどという行為は決して許してはならない。
それが例え自分の全ての能力を上回る有能な女子高生であってもだ。
そういう思いで言った裕紀だったが、少々口調が厳しくなってしまったことは否めない。これはさすがに言い過ぎたかなと、我に返って恐る恐る彩香の表情を伺う。
言及された彩香の表情は、前髪と降り注ぐ日光でちょうど陰になって伺うことはできなかった。
だが、彼女が何かしらの大きな感情を胸に渦巻かせているのは、小刻みに震える両肩から感じられた。
しばらくして彼女の口から零れた言葉は、八つ当たりでも言い訳でもなかった。
「ごめんなさい。私の言い方が悪かったわ」
その言葉は本当に反省し、裕紀に対しての罪悪感が感じて取れた。唇が強く噛みしめられ眉間に皺が寄ってしまうほど何かに堪えている様子は、そんな自分自身を責めているようにも伺えた。
何だか裕紀が女子を困らせてしまっているようなシチュエーションになってしまい、怒っている時とは別種の居心地の悪さを感じてしまう。
「いや、俺も言い過ぎたよ。だからそんな顔しないでくれ」
何とか機嫌を取り戻そうと謝ろうとするが、口を突いて出てきた言葉に彩香は僅かに微笑みを見せて言った。
「ううん。私が君に、しっかり現状を説明していなかったのが悪いんだもの。君が謝る必要はないわ」
そうは言うがこういう時の男子の気まずさは女子の思っているものよりもかなり重いのだ。
もう一度謝ろうと口を開きかけた裕紀だったが、それより早く彩香が口を開いた。
「でも、私は君より能力は上だけど決して優等生ではないわよ?」
「いや、結構優等生だと思うけど」
言われた言葉は何となく彩香自身のことを自慢された気がして、裕紀はさっきより優しい苛立ちに堪えなければならなかった。
成績は学年で三本の指に入り、裕紀の取柄でもあった身体能力も全校生徒を軽々追い越して抜群。
部活では生徒会と薙刀部に掛け持ちで参加している。しかも、生徒会では一学年ですでに会長候補、薙刀部では全国大会出場経験のある部長に見初められて副部長に就いているらしい。
対して裕紀は勉強もできなければ生徒会や他の運動部にも入っていない。学校内ではまったく注目を集めることのない生徒の一人だった。
目立つと言ったら幼い頃から急成長中の身体能力のみだが、それも呆気なく彩香に追い越されてしまっている。
半分以上が自分に対しての劣等感に苛まれていた裕紀に、彩香は自嘲の笑みを浮かべた。
「いいえ、全然違うわ。この世界には私よりももっとすごい人なんてたくさんいるんだもの」
「まあ、確かに世界は広いもんな」
単純に考えてみれば確かに彩香よりもすごい人はこの世にはたくさんいる。そういう点を含めると、裕紀はもちろん目の前の優等生もただの成績が良い女子高生に過ぎないのだ。
そうと気付き互いにくすくすと静かに笑い合うこと数秒。
今度は互いに目と目を合わせ、さっきまでの和やかな雰囲気を吹き飛ばす勢いで同時に叫んだ。
「それより、ここは一体どこなんだよ!?」
「それより、どうして君がここにいるの!?」
指を指し合いながら言った言葉は、渓谷の新鮮な空気を震わせ広い山岳全体に鳴り響いた。
突然の声に驚いた山の生き物たちが一斉に動き出したが、それぞれの現状に驚愕を抱いていた二人にはそんなことは気にもならない。
ようやく脱線しかけていた話題から本線へ戻った裕紀は、先刻から疑問に思っていたことを彩香に尋ねた。
「柳田さんはここが何処なのか知っているのか? 俺の携帯、壊れて使い物にならないから、ここが何処なのか見当もつかなくて」
早口で問い掛けられた彩香は何か考え事でもしているかのようだったが、裕紀の声で我に返り真剣な表情で返答した。
「え、ええ。もちろん知っているわよ。まあ、携帯から得られる情報では見当もつかないのは当然でしょうけど」
この回答から彩香はここが何処なのか知っているらしい。そして、裕紀の知り得る手段では場所を特定できないことも。
ならば早く説明してほしいものなのだが、本人はこの場所に裕紀が居るこが腑に落ちないみたいだった。
考えると周りのことが見えなくなってしまう癖なのか、彩香は再び黙り込んでしまう。
裕紀も何も考えずにただ立っていても仕方がないので、内心でこっそりと考えてみることにした。
この自然豊かな渓谷と周りを囲む山岳地帯からして、ここが裕紀の知っている八王子市内である可能性はないだろう。木々の葉の隙間から日光が降り注ぐこの天候を考えると、日本国内の何処かへ転送されているという可能性も限りなく薄い。
先ほども思い起こした通り、日本の現在時刻は冬の夕方のはずだ。太陽が完全に空へ昇っていることはまず有り得ない。
では、裕紀は海外に転送されてしまった可能性が高いことになる。どうせ転送されるなら、自然が綺麗そうなヨーロッパ辺りの山岳地帯であって欲しい。
まあ、ここが何処なのか判明しても帰還方法など様々な問題がまだ未解決なのだ。もしかしたら、彩香はそれすらも考えているのだろうか。
食料? 寝床? 着替え? それとも学校の授業の予習?
次々と浮かんでは消えてしまう疑問にうんうん唸っていると、今まで黙っていた彩香が口を開いた。
「聞いて新田君」
「は、はいっ!」
妙に緊張感の含まれた口調に思わずそう返事してしまう。
だが、彩香は裕紀の反応には興味を示さず緊張で硬くなった声のまま喋り始めた。
「今、君と私が居るこの場所はね、その……」
しかし、二言三言喋りだして彩香の声は段々とフェードアウトしてしまった。終いには完全に黙り込んでしまい、中途半端な空気だけが河原を満たす。
それでも、裕紀は目の前に立っている超絶美人の同級生が何を言わんとしていたのか大方判断できていた。大方と言っても転送場所の見当を付けただけで、これから色々どうすれば良いのかは相変わらず判断できていないのだが。
ただ、彩香がこの場所と裕紀の関係を話してくれようとしていたのは確かだと思ってもいいだろう。
急かしても決して良い結果が出てくれるものではないことは分かり切っているので、裕紀も焦らずに彩香のペースで口を開いてくれるのを待つ。
彩香は数秒ほど口を小さく動かしていると、やがて一度大きく息を吸い込み吐き出した。
よし、と自分自身に活を入れ、逸らし続けていたライトブラウンの瞳を裕紀の黒い瞳へ向ける。
今度こそ、彩香は何を隠すことなく正直に話してくれるであろうと裕紀は直感した。表現することは難しいが、種類はどうあれ強い思いを抱いた人間にはそれを感じられるほどの雰囲気がある。
そして裕紀の直感通り、彩香は綺麗な桜色の唇から事実であろう事柄を一言一言紡ぎだした。
「こ、ここは、異世界なのよ」
「…………ん?」
信じられないほど現実離れした単語に、不意を突かれた裕紀は時間を置いて聞き返してしまった。
対して聞き返された彩香は白い頬を朱色に染めながら、今度は目を逸らして震える声で言い直した。
「だ、だから! ここは異世界なのよ。新田君、あなたは異世界に転送されてしまったの」
「……………」
告げられた事実に裕紀はどんな反応をすれば良いのかしばし時間が必要だった。
なんとも言えない表情で首を横に捻っている裕紀を前に、彩香も恥ずかしさに耐えながらぷるぷると硬直していた。
曰く、ここはヨーロッパでもアメリカでもアジアでも他の外国でもない。
裕紀たちが暮らしている世界とは全く別の世界。
異世界。それは健全な男子高生や女子高生、それ以上に大抵の人が聞いたことのあるであろう単語だ。主に漫画やSF小説、ゲームなどで冒険や物語の舞台となる世界という認識が強い。
裕紀の経験上、その世界では様々な種族やモンスターが生息している設定などがあるが、よもや本当に異世界たるものが存在しているとは到底信じ難い。
ただ、つい数十分前の出来事を思い越してみれば半分は信じられないこともない。ただの石ころ一つの力で、様々な店舗ひしめき合うショッピングモールからこんな渓谷にまで来てしまったのだから。
到底不可能だと思っていたことを、裕紀と彩香は一つやってみせてしまっている。
だから、彩香の言う異世界が存在しないとは断言できない。
しかしまだ半信半疑な状態だ。もう少し異世界というセカイの情報を得られなければ納得しようにもできない。
そこで、裕紀はようやく彩香の頭に乗っかった紅葉の葉っぱ二枚に視線を向けた。ちょうどいい具合に葉っぱが外側へ反り返り、まるで獣の耳を連想させる。
などと意識しながら彩香の顔を見ると、彼女の容子と紅葉の葉っぱ二枚が織り成す獣耳が絶妙に合っていた。
異世界に一人はいそうな猫耳のお姉さんのようで、段々と笑いが込み上げて来る。笑みが表情に出ないよう何とかポーカーフェイスを保とうと努力するも、それは無駄な努力で恐らく彩香にはバレているだろう。
いっぽう、裕紀の予想通り恥ずかしさに震えながら硬直していた彩香は、彼までもが何かに堪えるように肩を震わせていることに気が付いた。
顔を伺うと、我慢しているように見える口元が僅かに吊り上がっていた。ついでに言ってしまえば、目元も微かに緩んでた。
「な、何がそんなにおかしいのよ?」
この状況で笑っている相手を訝しむように彩香からそう問い掛けられた裕紀は、笑い声にならないよう強く意識しながら答えた。
「いや、この世界が異世界なら猫耳生やしてる奴もいるのかな、と」
「は? 猫耳?」
なんとか笑い声は抑えることができたものの、視線に敏感らしい彩香は密かに向けられた裕紀の視線から頭に何かが乗っていることに感づいたようだ。
そっと両腕を持ち上げ頭に乗っている二枚の葉っぱを優しく撫でて摘まむ。
ゆっくり目の前に持ち運ばれた葉っぱと、裕紀の猫耳という単語、さっまでの自身の状態を脳内で連想させたのかは定かではない。
だが、明らかに彩香の顔色が朱色から熟したリンゴのように真っ赤に染まり、わなわなと変化していく表情を目視してしまえば彼女がどういう心境なのかは想像に難くない。
二枚の葉っぱを見下ろしていた彩香は、次の瞬間二枚同時に投げ払って裕紀に怒鳴った。
「い、居るわけないでしょ! いえ…、居るにはいるけどこんな場所には来ないわよ!」
羞恥のあまり怒鳴り付けられた裕紀は身構えたが、すぐに自分の嘘を修正した彩香の正直っぷりにとうとう抑えていた笑いが決壊した。
「あっははは。そっかぁ、居るのか。まあ、会う機会があったら会ってみたいな」
そう返してから彩香の真っ赤な表情が脳裏に焼き付いた裕紀はしばらく腹を抱えていなくてはならなかった。
「君、こんなことになっちゃったのに焦らないの?」
自分が笑われていることより、この状況で笑っていられる裕紀の精神状態に困惑を抱いたらしい彩香は、イケナイモノを見る眼で問い掛けた。
散々笑った裕紀は、目頭の涙を指で弾いてしれっと答える。
「正直、かなり困惑しているよ。でも、今更焦っても何も変わらないしな。それより、俺とこの異世界ってどんな関係があるんだ?」
彩香は目の前に立っている同級生の返答に絶句していた。
正確には裕紀のこの切り替えの早さに驚かずにはいられなかった。
彩香は賭け事などはあまり信用しない性格なのだが、新八王子駅で謎の男に襲撃された際、彼女は人生で初めて賭けをしたのだ。残念ながら結果は運悪くこんな場所へ転送されてしまったが、男から逃げるという目的は果たすことはできた。
ひとまず安心した彩香だったが、転移された場所を知って彼女は素直に喜ぶことができなかった。
なぜならこの世界は彩香にとってはとても関係が深い世界だが、裕紀にとっては本来関係のないはずだった世界なのだ。
普通の人ならその存在すら決して知ることのない、現実とは異なる別の世界なのだから。
彩香から事実を聞いた本人もそれなりに驚いていたようだが、それにしてもこの切り替えの早さは普通の思考を持つ人間とは違う。
そんな裕紀を見て、彼がパニックに陥ることを心配していた自分自身が馬鹿馬鹿しくなってしまい、彼女は苦笑を浮かべつつ呆れ声で言った。
「まったく、君って人は。そうね、ここじゃちょっと時間もないから、元の世界へ帰ってからでいいかしら?」
彩香の言葉を聞いた裕紀は、けらけらと笑っていた態度を一変させて真剣な表情で聞き返した。
「そんなすぐに帰還できる方法があるのか?」
言うまでもなく、裕紀は元の世界へ帰る方法は知らない。
だが、その帰還方法が実在し、しかも短時間で解決する問題であったのならば聞かないわけにもいかない。
この優等生に貸しを作るのは少々気に食わなかったが、きっとお互い様と言うことで今回は見逃してくれるだろう。
こっそり内心でそう思っている裕紀に、彩香も真剣な声音で答えた。
「ええ。とっても簡単よ。でも、そのためには村を捜さなくちゃいけないのよ」
「へ? む、村?」
またまた突拍子もないことを言い放った彩香の単語の一部を繰り返し呟く。
しかしながら、彩香は裕紀の疑惑の籠った呟きを完全に受け流して続きを話す。
「幸い、この渓谷には見覚えがあるわ。この近くに小さな村があったはずだから、とりあえずそこまで歩くわよ」
一方的に言い放ってから、まだ答えていない裕紀の返答も聞く耳を持たずに彩香はくるりと背中を向けた。
栗色の長髪がまたしても宙を舞いその度に綺麗だと思わせるが、今はそんなことを思っている暇はないと我に返る。
背中を向けた優秀な同級生は、決して足場の良くない河原の砂利道をすたすたと歩いて行く。
気付いた頃には、もう小さな崖の位置にまで歩き終わりもう一度裕紀へ振り返った。
「早く来ないと置いて行くわよ~」
「あ、ああ。ちょっと待ってくれ!」
両手をメガホンのようにして澄んだ声を渓谷中に響き渡らせた彩香に、裕紀は慌ててそう答える。
彼女に情けない姿は見せられないと、せめて転ばないように気を付けて裕紀は走り出した。




