八王子市防衛戦(1)
夢の丘公園の白い塔の付近で行われていた戦闘は拮抗していた。
水色の魔光剣を正面に構えた月夜玲奈は、対峙するミニドレス姿の魔法使いを見据えた。
ドレス姿の魔法使いは、最初に現れた頃と変わらぬ余裕と息遣いをしている。体力的な問題では玲奈も同じようなものだったが、状況は玲奈が攻めあぐねていた。
目の前の魔法使いは、ある一定の領域内では自由にどこからでも魔法を放てる空間を作り出せる。発動できる魔法の種類は、恐らく魔法使いの扱える魔法全般だろう。
基本的に魔法は魔法使い本人からそう遠くない位置(例えるなら手元)から発動することが原則だ。
だが、この魔法使いはその原則を捻じ曲げる空間を作り出し、その空間内ならあらゆる方向からも魔法が放てるようになる。
あらゆる方向から、という状況が剣士である玲奈には至極難敵だった。
魔光剣の特性上、相手に接近して攻撃しなければならないのだが、どの攻撃も剣を振るう前に変則的な魔法に牽制されて距離を取らざる得ないのだ。
ならばと、遠距離からの魔法攻撃で持久戦に持ち込むのも難しい。
敵がそれなりの魔法戦闘の経験を積んでいるため、魔法の攻撃すら難なく凌いでしまうのだ。
聖具の顕現、という思考が脳裏を過るが、生命力の消費が大きい聖具を作戦途中に使用することは躊躇われた。
「うふっ、どうしたのぉ? 月夜の剣豪って聞いてぇ、ちょっとは期待してたんですけどぉ?」
そんな状況の玲奈に、言葉通り傷一つ付けられていない女性は癪に障るような口調で言ってくる。
明らかな挑発に、玲奈は落ち着き払った声音で言った。
「それはごめんなさいね。私も手を抜いているわけではないから、少しは自分の実力に自信を持ってもいいんじゃないかしら」
挑発を挑発で返すような真似はしない玲奈は、本心を言ったつもりだったが、どうやら相手の地雷を少しばかり掠めてしまったようだ。
初めて妖艶な美貌に苛立ちを露わにした女性が、余裕以外の感情の混じった声音を放つ。
「お褒めの言葉、何だろうけどぉ、アタシには侮辱の一言ねぇ。いいわぁ、ここで殺してあげる」
その宣言とともに、女性が両腕を大きく広げた。
いま、彼女の懐に飛び込めば確実に首は取れる。
だが、玲奈は背後にヒヤリとした感覚を覚え素早く背後を振り返ると剣を振るった。
魔光剣の刀身で弾かれたものは氷の短槍。
(まさか…)
嫌な予感が脳裏を過り、玲奈は先ほどの躊躇いを捨て去った。
魔光剣をしまい、聖具を呼び出す。
それより一足早く、玲奈を取り囲むように水色の魔法陣が幾つも展開した。
女性が有する固有魔法、魔法の原則を無視できる領域が広がっていることに驚きだが、一つの魔法を幾つも同時に展開してしまう魔法技術には素直に感心してしまう。
魔法陣が構成されてから魔法の発動までの時間差は一秒に満たない。
玲奈が軽く握った右手に薄く風が纏うが、魔法の発動より早く聖具を顕現させることは無理だろうと思えた。
ならばと、危険ではあるが魔法陣の包囲網から強行突破の姿勢を取る。
全身に風を纏うことで氷の短槍に対する鎧を生成した玲奈だったが、地面を蹴る直前に途轍もなく大きな魔力を感じた。
女性も玲奈と同じ魔力を感じたのか、発生源と思われる植物園へ視線を向ける。
新田裕紀が加藤徹と戦っているはずの植物園からは、夜空よりも黒い魔力の柱がまっすぐ天に昇っていた。
やがて、黒い魔力の柱の周囲には巨大な魔法陣が三層も重なって展開される。
(まさか災厄が発動してしまったというの!?)
ならば、植物園で戦っている裕紀は加藤徹に破れてしまったのだろうか。
そんな嫌な思考が脳裏を過った玲奈の正面で、魔法陣を展開していた女性が両手を降ろした。
その動作に連動するように、玲奈の周囲で展開されていた魔法陣がすべて消えた。
「どういうつもり?」
全身に風を纏いながら玲奈は女性の真意を問いただした。
すると、女性はドレスの裾を揺らしながら静かに笑って答えた。
「さっきも言いましたけどぉ、ワタシたちは今回、厄介払いなんですよぅ。でもぉ、計画は無事に達成されたようなんでぇ、ワタシに戦う理由はなくなっちゃったってわけです」
彼女が不本意ながらも戦っているということは玲奈も知っている。だが、ここで戦闘を放棄するということは。
「あなたが戦いを止めても、私が斬りかかるとは思わなかったの?」
玲奈のその問いに、女性はなおも妖艶に笑ってみせて言った。
「あなたに、そんな余裕があるなら、ですけどねぇ」
「…………」
一刻も早く植物園内の状況を確かめたいという、玲奈の本心は見透かされていたらしい。
こんな状態で戦えば、もちろん彼女は戦うだろうがその戦いの結末は目に視えている。
一度瞳を閉じて深く息を吐いた玲奈は、身体に纏っていた風を完全に四散させると構えを解いた。
「うふふっ、状況判断はちゃんとできるようですねぇ」
そう言った女性は、一歩、二歩と後ろに後ずさる。やがて、彼女の姿は夜闇に溶けるように消えていった。
その動作を、玲奈は悔しさと焦りを内心で抱きながらただ見ていることしかできなかった。
木々が鬱蒼《鬱蒼》と生い茂る森の、ある一部分だけ木々が不自然に薙ぎ倒された場所で、肩で息をしていた赤城ましろは植物園が建てられている方角から強い魔力の反応を感じた。
息を荒げるましろに対峙するように、悠然と立っている巨漢の魔法使いは植物園があるであろう方角へ顔を向ける。
相手が隙を作った、とは思わないが、突如として発せられた強力な魔力で多少の混乱を誘発していることを願い、ましろは前方へダッシュした。
「てやあああ!」
低姿勢から放たれる高速の右アッパーカットを、顔は別の方向へ向けたまま巨漢男は左手で抑える。
「ふむ、計画は達成されたか。ならば、我らの役目はこれで終いだな」
まったくこちらの攻撃など気にしていないように言うラースに、こいつ本当にあたしのこと尊敬してんのかしら、などと思いながら左のストレートを腹部に放つ。
しかしながら、それですら右手で受け止められたましろに、ラースは顔の向きを正面に変えて言った。
「貴女のことは尊敬している。が、やはりパワーの差は歴然だ。貴女たちの戦いはこれからでしょう? ならば、こんな戦いで体力を使い果たすべきではない」
そう言い、ラースはましろの脚を払うと巨体に似合う怪力で彼女を後方へ投げ飛ばした。
「—―がはっ!」
薙ぎ倒された木々に勢いよく放り投げられたましろの肺から空気が抜ける。
「また次に戦う機会を楽しみにしている。ただ、次は本気で殺しに行きますよ」
全身に痛みを感じながらそんな言葉を聞き頭を上げたましろの前からは、すでにラースは姿を消していた。
胸の奥から湧き上がってくる嫌な感情を、ましろは拳を薙ぎ倒された木にぶつけることで紛らわした。
夢の丘公園、遊具広場。
ネメシス幹部集団、セブン・シンの一員である強欲のアヴァリスの胸部へ魔光剣を突き立てた昴は、苦い顔で胸から剣を引き抜いた。
青色の刀身が引き抜かれた胸部の傷口から大量の鮮血が噴出する。倒れたアヴァリスに、昴はやや消化不足気味な表情を向けた。
(これがネメシス幹部の実力か? だとしたら、この手応えのなさはなんだ?)
右手に握られている魔光剣の柄を険しい顔で眺めていた昴だったが、この感覚を考える暇はなかった。
彼の視界の右端に赤い閃光が瞬く。それが魔光剣の刀身であると気づいた昴は、咄嗟の判断で身体を後ろへ倒した。
目の前を真紅の刀身が通過していくのを見た昴は、右手に持っていた魔光剣の柄を左手に放り、奇襲に失敗した魔法使いの襟首を右手で拘束した。
動きを止めた魔法使いの、魔光剣を持っている左手を肘ごと斬ると流れるように腹部に剣を突き立てた。
どしゃっ、と再び鮮血を溢れさせて倒れる魔法使いに、昴は納得したような表情を向けた。
最初の死体と並ぶように倒れた魔法使いを眺めた昴は、すぐに全神経を遊具広場全域に向ける。
玲奈ほど生命力感知は優れていない昴だが、そう遠くない場所にいる相手を見付け出すことは可能だ。
そして、昴のこの行動に意味があったものだとすれば、この二人の死体はまず死体ではないということになる。
生命力感知を使ってから数秒後、昴の立っている場所から近いところに別の生命力を見つけた。
「っし!」
相手の思考を逆算し、正確な位置を把握した昴は、敵がいるであろう方角に魔光剣を投げつけた。
バシィ!、と電気が弾ける音が聞こえたが、残念ながら肉体に当たった様子はない。
敵がいるであろう方角へ身体を向けながら、生命力で放った魔光剣を回収した昴は数分前まで自分が座っていたジャングルジムへ声を掛けた。
「よぉ、そんなところに居やがったか」
ジャングルジムの頂上で座っている、着物姿の黒髪の青年は幼い笑みを浮かべて言った。
「さすがにバレてしまいましたか。それより、さすがの腕前ですね」
「見え透いた褒め言葉は要らねえよ。俺はお前にまんまと踊らされちまったわけだしな」
肉食獣のような獰猛な光を両目に宿して言う昴に、まるで草食獣のような雰囲気を纏う青年は両手を前に挙げて慌てて言った。
「いえいえ、本心ですよ。分身でも、並みの魔法使いは殺せることがほとんどですから。それに、あなたの倍速には舌を巻かされました」
涼しい顔をしてあっさりと実行犯宣言をしたところからして、アレが草食獣というのは間違いだろう。
それと、これもあっさりと看破された昴の固有魔法を暴露されたお礼に、こちらも相手の固有魔法を暴露することにした。
「いやあ、お前の分身もなかなかなもんだぜ。いったい何人もの分身を作れるんだ?」
「それは、プライバシーを尊重して秘密、ということで」
ニコッと、幼く笑ったアヴァリスに昴も口元を吊り上げた。
お互いに固有魔法を看破し合ったところで、第二ラウンド開始の提案を昴が持ち掛けようとしたところだった。
遊具広場よりそう遠くない場所に建てられた植物園からどす黒い魔力の柱が出現し、それらの周囲にはたちまち三つに重なる巨大な魔法陣が展開された。
ガンガンと不快に脳を刺激する闇の魔力から、昴は裕紀が作戦失敗したことを悟る。
「おや? どうやらあちらの方も状況が動き始めたようですね」
言いながらジャングルジムの鉄骨の一本に難なく立ったアヴァリスは、軽々と地面に降り立った。
まるで忍びのような身のこなしで着地したアヴァリスは、真紅の魔光剣を懐にしまうと微笑みを崩さずに言った。
「残念ですが今夜はこれで終わりですね。また剣を交える機会があれば、ぜひお相手してください」
「ああ、強い奴は歓迎するぜ」
不敵に笑ってそう言った昴に、アヴァリスは軽く会釈するとその場から立ち去った。
完全にアヴァリスの気配が消え去ったところで、昴は植物園から昇る魔力と魔法陣を眺めた。
「さぁて、こっからが本番だ」
何が起こるのか分からないが、これからするべき行動はアークエンジェルメンバーなら全員同じだ。
敵が退いたということは、他の二人が戦っているだろう幹部も撤退している可能性が高い。
なら、ひとまず昴がやるべきことは三人と合流することだろう。
そう考え、昴は三人とコンタクトを取るべく念話を発動させた。
アークエンジェル地下施設、作戦司令室で戦闘のモニタリングを続けていた恵は、加藤徹の発動させた魔法の解析に勤しんでいた。
つい先ほどまで植物園内の映像が映されていた司令室のモニターは、いまは黒く消えている。
魔法を発動させた際に溢れ出した闇の魔力によって、植物園内の監視カメラと恵とのリンクが途絶えてしまったのだ。
再度リンクの確立を試したが、どうやら植物園は完全に発動された魔法の効果圏内に入ってしまっているため不可能だった。
こうして、モニタリングから魔法解析に力を注ぐことになった恵の集中力は凄まじい。
本人からしてみれば、実はこういう解析専門の仕事の方が好みなのだが、固有魔法の性質上そういうわけにもいかない。不幸にも訪れてしまった加藤徹の災厄発動だが、恵の解析力を知っているメンバー全員はそう慌てた素振りは見せなかった。
もう七割近く魔法の解析が完了している恵の隣では、通信機を片手に司令官である飛鳥が各所で待機中の仲間へ矢継ぎ早に指示を出している。指示を受けたメンバーは各々の任務に移ることだろう。準備していた市内全域を取り囲む人払いも次期に展開するはずだ。
だが、植物園内で戦っているであろう新田裕紀とは未だに連絡が取れていない。
彼のことだから心配はいらないだろうが、連絡が一切取れないとなれば心配しないほうが難しい。
押し寄せる不安と戦いながらも、解析担当と協力して魔法の解析を進める。
やがて解析率が九〇パーセントまで到達し、すぐに魔法の正体が明らかになった。
正体を知った恵は、やや戦慄を含んだ声音で報告した。
「解析完了しました。主犯者が発動させた魔法は、大規模召喚魔法サモン・サークルと思われます」
「大規模召喚魔法か。この世界でそれを発動させるには相当な魔力が必要になるが、なるほどな。それで十五人、というわけか」
得心したように飛鳥が呟き返した。
大規模召喚魔法は普通の召喚魔法の上位系統に当たる魔法だ。
使い魔や精霊、悪魔といった類を召喚するのに適している召喚魔法サモンとは異なり、大規模召喚魔法は主に魔獣を召喚するための魔法となる。
召喚する魔獣の規模にも差異はあるが、一つの都市を破壊するほどの魔獣となれば相当の魔力が必要となる。
魔力がほぼ無尽蔵に存在する異世界なら発動者の負担は軽減されるが、この現実世界ではリスクしかない魔法だ。
それに、これだけの規模の魔法の発動には、ここ数日で殺めた十五人の人間の魂では足りない。
だが、彼が今まで殺し束縛してきた魂と、彼自身の魂を用いれば召喚には十分だろう。
そのことを考えた恵は、やや言いずらそうに飛鳥の呟きに応えた。
「それだけではなく、加藤徹は自身の生命力すら召喚の魔力として使用しました。おそらくもう、彼の命は…」
最後まで言葉を言えなかった恵を責めることはせず、飛鳥は司令官らしく堂々と言った。
「…救えなかったことは残念に思うが、いまは感傷に浸っている場合ではない。召喚されるだろう魔獣の正体は?」
そう訊かれた恵は、解析された魔法陣の詳細と、リンクが途切れる前に加藤徹が詠唱した詠唱句を総合して答えた。
「炎の巨人スルトと思われます」
「炎の巨人、スルト…。確か北欧神話に登場する巨人だったな」
下顎に指を添えて、書庫で読んだのだろう知識を呟く飛鳥に、恵も苦笑しながら頷き言った。
「伝承通りなら、この街は焼け野原になると思われます」
「人払いを展開させたとはいえ、焼け野原にされたら本来の街にどのような被害がでるか解らんな」
同じように苦笑を浮かべそう言った飛鳥は、通信機に向けて鋭く指示した。
「アークエンジェル戦闘部隊、各メンバーに次ぐ。敵が大規模召喚魔法サモン・サークルを発動。出現する魔獣は炎の巨人スルトと思われる。街の被害を最小限に留めるためにも、迅速に巨人討伐作戦を発動する!!」
飛鳥の指示に、恵と司令室に残るメンバーも緊張に息を呑んだ。
これが作戦の最終段階だ。敵も味方も、この戦いで全ての結末が決まる。
任務に取り組む直前、恵はふと消えているモニターを眺めた。
午前二時を回ろうとしている時計の隣に設置されているモニターを見ても意味はないのだが、恵は内心で彼に祈った。
(お願い、無事でいて。新田君)
冬の寒気によって意識が戻った裕紀は、身を震わせながら立ち上がった。
月明かりが照らしていた園内は暗く、月の位置で時刻を確認することもできない。
時間を確認するために携帯を取り出そうと傷ついたロングコートのポケットから携帯端末を取り出す。何も心配せずに電源を入れるが、ところが画面は暗いままだ。
どうやら雷魔法の影響で故障してしまったらしい。
「………」
この数週間で携帯の破損率を脳裏に思い浮かべた裕紀は、渋い顔で黙るしかない。
まあ、そんなことを気にしている状況でもないため、裕紀は鬱になる気持ちを切り替えて戦闘服に付属されている時計を見た。
こちらの故障はどうにか免れ、デジタル数字で表示された時刻は午前二時を回っている。
戦闘開始から二時間も経過していたのかと思いつつ、裕紀は改めて辺りを見回した。
園内全体が大きく変わったということはない。ただし、植物園に植えられている植物たちから白色の生命力が天井に向けて吸い上げられている。
裕紀が意識を失う直前の記憶はしっかりと覚えている。
この植物園は加藤徹が発動させた魔法によって闇の魔力に呑み込まれている。おそらく裕紀も、その魔力の内部にいるのだろう。
この植物たちから生命力が吸い上げられているのは、加藤徹が発動させた魔法と何か関係があると考えて良さそうだ。
もしこれが災厄だとしたら、八王子市は大丈夫だろうか。
外で待機している三人は無事に逃げることができたのか。都市全域を取り囲む人払いの発動には成功したのだろうか。
湧き水のように数々の疑問が溢れ出てくるが、それらを知るためにはこの植物園から外に出なければならない。
しかし、どうやって外に出たものか。
闇の魔力によって完全に閉じ込められているなら裕紀に脱出の手段はない。
だが、少しでも脱出経路が残されていれば、まだ脱出の余地はある。
そう思い、裕紀はふと天井を見上げた。
確かこの植物園は極力自然の日光を植物たちに与えようという創設者側の配慮から、天井の所々がガラス張りになっている。
ガラスならどうにかして破れないこともないと思い見上げてみた裕紀の視線の先には、ガラスの表面に満遍なく黒くドロドロとした気味の悪い何かがへばり付いていた。
「上はやめて無難に地上の出口を探そう」
こういう諦めは早いと親友二人のお墨付きがある裕紀は、ひとまずこの場から出入り口へ移動しようとした。
しかし、歩き始めた裕紀の意識に聞き慣れた声音が直接響いた。
『のんびりしていていてはダメよ。早くしないと出口が閉じてしまう!』
その声は、記憶の中でしか聞いたことのない女性のものだった。
加藤千穂。旧姓、寺井千穂。
かつてはこの植物園の職員であり、加藤徹が失くしてしまった大切な存在の一人。
だが、これまで自分で他人の生命力に同調して過去を覗いたことはあれど、こうして故人と会話をすることなどなかった。
まさか幽霊!? などと呑気なことを考え始めた裕紀に呆れたのか、やや催促するような口調で再び声が響いた。
『幽霊でも何でも良いけど、あなたの街を救いたいなら早くここから出なさい。道案内は私がするわ』
「は、はい」
軽いお小言を言われ肩を落とした裕紀は再び歩き出そうとした。
しかし、今度は裕紀の身体を不可解な現象が襲う。
魔法もなにも発動させていない裕紀の身体が仄かな純白に輝いているのだ。
「な!? え、え!?」
訳の分からない現象に動揺していると、裕紀の左胸から紫に光る球体が現れた。
それは裕紀の顔まで浮遊すると、光を仄かに明滅させた。
それと同時に、裕紀の意識に加藤千穂の声が届く。
『逆方向よ。こっちよ! 付いてきて!』
その思念が頭に響いた時には、加藤千穂と思しき光はふわふわと移動を始めてしまう。
「え、ちょっと…」
まだ状況の整理が追い付いていない裕紀は、困惑しながらも光の行く後を付いて走る。
走りながら、裕紀は頭の中で状況を整理した。
まず、なぜこの光(加藤千穂)が裕紀の体内から現れたということだ。
裕紀には、過去に加藤千穂または寺井千穂という人物と関わった記憶はない。なので彼女とは何の縁もないはずだ。
それに、彼女の思念が届くということは、あの紫に輝く光は加藤千穂の魂と呼ぶような存在なのかもしれない。
そんな大きな存在が裕紀の体内にいつ入り込んでしまったのか。
そもそも、他人の魂が体内に入っていてよく裕紀の身体は正常だったものだ。
(ダメだ、最初から詰んだ)
走りながら内心でがくりと肩を落とす裕紀の、二メートルほど前を浮遊する光がまたしても明滅する。
『いきなり出てきて、困惑させてごめんなさい。説明をする暇もなかったから』
「い、いえ。でも、どうして俺の身体から? 俺は、貴女とは関りがあった記憶がないんですけど」
いきなり核心に迫った裕紀の問いに、光から伝わってくる思念は弱々しく届いた。
『そうね。でも、一度だけあるの。直接的ではないけど、間接的に』
「間接、的?」
『生命力、いえ…魔力、と言ったほうが良いかしら?』
「あ…あっ!?」
そう言われ、裕紀は走っている最中でもかなり大きめに叫んだ。
加藤千穂が魔法に精通する言葉を放ったことに対してではない。
裕紀の体内に魔力が入り込んだ唯一の瞬間は、加藤徹の魔光剣に左胸を貫かれたときだ。
「俺が、加藤徹…いえ、旦那さんに魔光剣で左胸を刺されたとき?」
そう言った裕紀に、加藤千穂は一瞬だけ微笑みの気配を滲ませてから、すぐに悲しそうな声音で言った。
『夫の、いえ徹さんがあの家を燃やしたとき、私は記憶という脆く不確かな存在としてあの人の魔晶石へ宿った。そして、徹さんの前に立ちはだかったあなたの力になるために、心臓を貫かれたときにあなたの体内へ移ったの』
裕紀が聖具の力で息を吹き返したときに聞こえたあの声。あの時は必死だったので深く考える余裕もなかったが、あの思念は裕紀の体内に宿っていた加藤千穂の思念だった。
「でも、俺は心臓を貫かれて死んだ。まさか、俺が蘇ることをあなたは知っていたというのか?」
半ば信じられないような声で言う裕紀に、加藤千穂はいたって真面目に答えた。
『あなたの持っている聖具がとても大きな力を秘めていることはすぐに分かった。心臓を貫かれても、すぐにあなたが蘇生されることもね』
やはり、魂となった人間には生きている人間とは違った何かが分かるものなのだろうか。
いや、それよりも、ならばなぜ加藤千穂はこうなる前に加藤徹を説得できなかったのか。
浮かび上がった疑問を、少々卑怯と思いながらも裕紀は尋ねた。
「あなたは、彼がこういうことをすることを知っていたはずだ。なぜ、傍にいて止めてあげられなかったんですか?」
裕紀の問い掛けに、加藤千穂は悲しさの滲む声音で答えた。
『さっきも言った通り、魔晶石に宿った私は記憶なのよ。黒化してしまった徹さんの心には、記憶である私の言葉は届かない。だからせめて、あの人がいつか戻れるように、そのきっかけを待っていたの』
そして、加藤千穂が望んだ存在が裕紀だったのだ。
しかし、裕紀は自身の力不足のせいで加藤徹を止めることはできなかった。
それどころか、彼女が救おうとした夫は、黒化したまま闇の魔力に呑み込まれてしまったのだ。
『自分を責める必要はないわ』
「…え?」
『あなたは、あなたのやれる最善を尽くしてくれているから。今度は私も、あなたの力になるから』
その思念が伝わると、光は目的の場所に辿り着いたのか制止した。
辿り着いた場所は、やはりというべきか植物園のエントランスだった。
他の出入り口はどす黒い魔力によって外と内部を隔離されているが、光が照らす部分には小さな亀裂が走っている。
恐らくこの亀裂が、加藤千穂が言う出口なのだろう。
よく見てみれば亀裂の隙間が徐々に闇の魔力に浸食されている。その幅は、わずか五センチ程度だ。
『間に合ったわね。でも、もう時間は五分もない。早く、この亀裂を破れば外へ出られるはずよ』
「あなたは、どうするんですか?」
腰に吊るした魔光剣の柄を握った裕紀は、隣まで移動した加藤千穂の記憶に尋ねた。
尋ねられた加藤千穂は、愛する夫を思う優しい声音で言った。
『私は、ここに残るわ。所詮記憶である私の声が、徹さんの心に届かないのだとしても、諦めずに語り掛けてみます。それにこの場所は、絶対に守りたいから』
彼女にも心に決めている決意があるのだ。その決意は固く、裕紀は最後まで貫いてほしいと思った。
黒化した加藤徹の凍てついた心は、終始裕紀の力では溶かすことはできなかった。
だが、例え記憶だとしても、本当に愛した人の言葉ならきっと届くと信じたい。
その想いも込めて、裕紀は加藤千穂に向けてしっかりと頷いた。
到達したときは五センチだった亀裂は、すでに三センチ程度にまで縮まってしまっている。
その亀裂から十メートル以上の距離を取った場所に裕紀は立っていた。
手に持っている魔光剣を起動し、群青の刀身を露わにさせる。出現した鋭利な剣尖を、肉眼ではほとんど伺えない亀裂へ向ける。
脚を開き腰を落とした裕紀は、魔光剣を右肩まで引き絞り左手を前方に構えた。
目を閉じ意識を研ぎ澄ませて全身に生命力を巡らせる。全身に金色の生命力が薄く宿り、より多くの生命力を集中させた両足にはくっきりと金色の輝きが宿った。
瞼を開けた裕紀は大きく息を吸い込むと、強化された脚力で舗装された地面を蹴った。
「はぁあああああッ!」
ジェット機の如く飛び出した裕紀は、気合を放ちながら群青の魔光剣を亀裂へ突き出す。
ものの数秒で数十メートルの距離を駆け抜けた裕紀が突き出した魔光剣の剣先は、残り一センチ程度だった亀裂の中心へ突き刺さった。
亀裂を塞ごうとする闇の魔力と裕紀自身の魔力が衝突、反発し合い眩いスパークを散らす。
かなりの威力と速度で貫いたはずなのだが、亀裂との接点で魔光剣は留まっている。
裕紀の魔光剣に設定されている出力では、強力な闇の魔力を貫くには力不足なのだ。
柄を握る右手に左手を添え、両腕にも生命力を送り強化する。
(もっと、もっと魔力を上げないと、この亀裂を破ることはできないのか!?)
それどころか、亀裂を修復しようとする闇の魔力の勢いが強まっている。残り一センチとなっている亀裂が、一ミリ、二ミリと塞がれていくのが分かってしまう。
(やるしか、ないんだッ)
内心でそう叫び、裕紀は両手で握る魔光剣の魔力出力を通常時より倍以上も引き上げた。
両腕から魔光剣へ伝わる生命力量が増加し、群青色の刀身の輝きが一層強くなる。
更に裕紀は両腕と下半身へこれでもかというほどの身体強化を施し、魔光剣の刺突の威力を底上げした。
その甲斐あってか、押され気味だった魔光剣の剣尖が確実に亀裂へ食い込んだ。
(行ける! このまま…、押し切れッ)
全身から金色の過剰魔力を放出させた裕紀の周囲には、暴風にも似た魔力の風が吹き荒れる。
「く、うおおお。…貫けぇえええええッ!!!」
空気を振動させるほどに大きく轟いた裕紀の咆哮に応えるように、拮抗していた魔力のバランスが遂に崩れた。
ズッ、という僅かだが確かな感覚を身体全体で感じた途端、闇の魔力によって修復されつつあった亀裂が一気に広がった。
『信じてるわ。あなたがきっと、この計画を止めてくれると』
抵抗される存在を失った裕紀の身体が外へ飛び出る瞬間、裕紀の頭に加藤千穂のそんな思念が過った。
その思念に応える暇は、残念ながら裕紀にはなかった。
体感では普通の人間では出せない勢いで固い壁に衝突していたようなものなので、壁を失った裕紀は速度を殺すことができず、放り出されるように外へ飛び出したのだった。
お待たせしました!
今年最後の投稿となります!
来年の抱負などは前回の後書きでお話したので省きます。
いよいよ、2017年もあと数時間となってしまいましたね!
読者の皆様はどのような一年をお過ごししましたでしょうか? もうやり残したこととか、ありませんか?
僕はこれから地元の神社で年を越し、初詣してきます。(以上、どうでもいい話でした)
では皆さん、良いお年をお迎えください!




