決戦前(5)
「ふう、これで全部だな」
調理を終えてひと段落ついた裕紀は、二つの皿に盛り付けた料理を持ってテーブルへ向かった。
指示通り、汚してしまった部屋の清掃を終えたらしいエリーは後片付けのためかこの場にはいない。
そのことを確認しながら向かったダイニングテーブルは、片付けの前に拭き終えたようで卓上にはやや水気があった。
そのテーブルの上に、二つの皿を向かい合わせに置くと、そのタイミングを見計らったかのようにエリーが戻ってきた。
「エリー、料理ができたから食べよう」
「ん、そうだな」
裕紀の提案に頷いたエリーは、椅子を引くとストンと座る。
エリーに倣って裕紀も椅子に座ると、お腹を擦ったエリーがにっこりとした笑みを浮かべて能天気に言った。
「いやー、昼前から調理だの片付けをしていたからお腹がペコペコだよ」
「それは全部エリーの家事力が皆無なせいだろ」
自分の家事の不出来さを棚に上げて言うエリーへ、じとっとした視線を送りながら裕紀はそう言う。
本人も内心ではよく分かっていたようで、ややたじろぎながらエリーが返した。
「ま、まあ、家事に関してはやろうと思えばきっとできるようになるさぁ。それより、私はこのホットケーキサンドから漂ってくる匂いにもう我慢ならないんだが…」
そう言うエリーは碧い瞳を輝かせて、光沢のある純白の皿に盛り付けられたホットケーキサンドを食い入るように見つめている。
まるでお預けを食らった犬のようにしているエリーを見ていると、自然と裕紀のお腹も抗議の声を上げてくる。
そういえば、裕紀も異世界で迷いの森攻略途中にリーナの手作り弁当を食べて以来、一口も食べ物を口に運んでいないと今更ながらに思い出す。
さらに言えば気を失ったことを除けば、異世界に帰って来てから一睡もしていないので、同時に猛烈な睡魔も襲ってくる。
とりあえず昼食を食べてから集合時間近くまで睡眠を摂ろうと心に決めて、裕紀はエリーと一緒に手を合わせて「いただきます」を言った。
さっそくホットケーキサンドの包み紙の部分を掴み、小さな口で上品にサンドを齧るエリーを、裕紀は目の前でそっと見守る。
裕紀は料理はするが、その味に絶対的な自信があるわけではない。エリーが他人の料理を貶すような言葉を言う人ではないことは分かっているが、それでも口に合うかどうか不安になることはある。
そう思いながら互いに一口齧った裕紀とエリーは、次いで二口目も齧った。
(味に関しては問題ない、かな?)
そう思いながらもぐもぐと咀嚼していると、突然目の前から英語で大きな声が放たれた。
「Delicious(美味しい)!!」
どうやらエリーにも好評だったようだと、ひとまずほっと肩の力を抜く。
「とてもおいひいよ。よくふぉんなためものをおもいつくものだよ」
「ごめん、エリー。ひとまず口にあるものを食べ終えてから喋ってくれると助かるかな」
注意を受けたエリーはもぐもぐ、ごくんと口の中を綺麗にすると言った。
「改めて言うが、とても美味しいよ。ホットケーキはほんのり甘いのに、挟まっている具材はとても香ばしくて、なかなか合っている」
言うなりすかさず三口目を齧って美味しそうに口を動かす。
裕紀もつられてもう一口、大口で齧ってじっくり咀嚼する。
二枚の小さなホットケーキの間に挟まっているのは、特製ソースを塗ったレタス数枚に焦がし醤油で焼いたベーコンだ。
焦がし醤油風味のベーコンの強い香ばしさを、さっぱりとした特製ソースが優しく包み込みとても食べやすい。ホットケーキは仄かな甘みを含み、レタスもシャキシャキしていて新鮮味が感じられる。
あり合わせで作った品だったが予想以上に喜んでもらえて良かったと、安心した裕紀はそのままホットケーキサンドを食べ続けた。
満足げに最後の一口を食べ終えたエリーは、お腹を擦りながらふうっと息を吐いた。
「ごちそうさまでした。…やはりいいな、裕紀の作る料理は」
「お粗末様。…外に出れば、俺の作る料理なんかよりもっと美味しいものが食べれるんだけどな」
さり気なく外出へと誘導した裕紀の言葉に、エリーは眩しいほどの笑顔で言った。
「いや。私が心の底から美味しいと感じることのできる料理は、恐らく君の手料理くらいだよ。籠っている気持ちが違うだろうからな」
「ぶっ! 何言ってんだよ」
その言葉がトンデモナイ爆弾発言だったために、裕紀は思わず息を吹いてしまう。
今の精神状態で会話を続けたらろくなことがなさそうだったので、裕紀は咄嗟に立ち上がった。
「別に、家族のことを想いながら料理を作るのは当たり前だろ」
顔が熱くなるのを感じながら、エリーの皿と自分の皿を持つと一言だけ言い残してキッチンへと立ち去った。
それからエリーの散らかしたキッチンを十五分で綺麗にした裕紀は、満腹になったことで研究を再開したらしいエリーに話しかけた。
「ごめん、エリー。少し眠いから寝させてもらうよ」
ピンクのセーターの上に白衣を羽織って椅子に座るエリーが、赤い縁の眼鏡の奥で瞳を心配そうに曇らせた。
「寝不足かな? 少し顔色が悪いね。いいよ、時間になったら起こしてあげるから、それまでゆっくり寝ていなさい」
どうやら一目で裕紀の体調を見抜いたエリーは優しくそう言う。
自分で目覚ましを掛ける事くらいは可能だが、この調子だと自力で目を覚ますのがいつになるのか判明できない。
遅刻は許されないので起こしてくれるのであればそれはありがたい気遣いだ。
そんなわけで、とりあえず夕方の六時頃を目安に起こしてもらうように頼むと裕紀はふらふらと自室へ向かった。
勉強机に一人用のごく普通なベット。小さな本棚が置かれた自室に入った裕紀は灯りは無視してベットにダイブした。
暖かな毛布に全身が温まると、裕紀の瞼は鉛のようにすぐに閉じる。
それから一分も経たないうちに、裕紀は心地の良い寝息をたてて眠りに落ちた。
二〇六七年十二月三日、午後六時半。
薄暗い自室で安眠していた裕紀は、頬にキスという唐突かつ大胆なエリーのスキンシップ目覚まし時計によっていろんな意味で跳び起きた。
ただ彼女曰く、最初に声を掛けて反応がなく、肩を揺すっても頬をつついても起きる気配がなかったようなのでこのような暴挙に至ったらしい。
確かに起こしてくれと頼んで、約束通り起こしてくれたにも関わらず目を覚まさなかった裕紀も悪いが、もっと別の起こし方もあったはずだと思う。
なので、今後このようなスキンシップは控えてもらうよう、お小言を言いながら裕紀は自室を出た。
だが、身内同士の贔屓目で見ても美人な女性に目覚めのキスをされるのはこれが初めてである。
早鐘のように鳴る鼓動を感じながら部屋を出た裕紀は、施設の外に出ると敷地内に設置されている水道の蛇口を捻った。
すっかり暗くなり寒くなった外で冷たい水を両手で溜めると、一思いに寝起きの顔へ水を被せた。それから追加で三度、顔面に水を被せる。
氷のような冷たさの冷水を四度顔に浴びた裕紀の意識は、完全に寝起きから通常時へと移行した。ついでに胸の鼓動も収まり、落ち着いた気持ちで裕紀は施設へと戻る。
研究室へ戻ってきた裕紀は、再びあれっと首を捻った。
どういうわけか、エリーはまたしても研究室から姿を消していたのだ。
今度はいったいどこへ行ったんだと思いながら部屋中を見回すと、すぐ左手のガラス窓の奥が光っていることに気付く。
そこは、本来は裕紀の身体を検査するための部屋となっているが、今は違う目的で扱われていた。
恐らく、エリーはこの部屋に横たわっている一人の患者の手当てをしているのだろう。
患者の名は柳田彩香。裕紀と同じ萩下高校の生徒でクラスメイトだ。
そしてアークエンジェルのメンバーであり、裕紀の命を身を挺して守ってくれた魔法使いでもある。
エリーが彼女に何をしているのか、その様子を伺おうとガラス窓に歩み寄る。
透明なガラスの奥を覗き込んだ裕紀は、またしても己の鼓動が早まるのを感じた。
起こされた時のように緩やかではなく、急激に顔に熱が帯び始め、裕紀はほとんど反射的に後ろを向いた。
ガラス窓の向こう側では、エリーが彩香の身体を文字通り手当していた。より詳しく言うなれば、一日中横たわっている彩香の身体をエリーが濡れタオルで慎重に拭いていたのだ。
エリーの背中が裕紀の視線と彩香を遮ってくれていたことに大きく安堵する。
半ば不可抗力とは言え純然な女の子の裸体を見ていたら、今後裕紀は彩香と顔を合わせられない。
それに、この状態をエリーに見られでもしたら後で絶対にからかわれるような気がする。
そう思った裕紀は、そそくさと自室に戻ろうとした。
しかし、そんな裕紀を止めるように室内に放送が流れた。
『そこで覗き見をしようとしていた男子高生くん。あと少しで終わるからそこのソファに座って待ってなさい』
「覗き見なんてしたくてしたわけじゃないよ!!」
さきほどの行動をばっちり知られていたらしいエリーの報告に、頬を赤くしながら裕紀は放送機に向けてそう叫んだ。
とても柔らかいソファに腰まで沈んで待つこと十分程度。
ガラス窓のある検査室から出て来たエリーの表情は凛とした研究者の顔だったが、待機していた裕紀の姿を見るとあからさまにその表情を変えた。
赤渕眼鏡の奥の瞳がニヤッと歪み、可笑しく歪めた口元からはムフフ…、とした笑い声でも聞こえてきそうだ。
明らかに先ほどの裕紀の行いをからかおうという意図が伝わってくる。
そのためリラックスしていた姿勢からやや身構えた裕紀に、エリーは緩んだ口調で言った。
「もうガールフレンドとは面会はできるよ。ゆっくりお見舞いしてきなさい」
「だからそんなんじゃないって」
そう言いながらも、裕紀はソファに沈めていた身体を起こして検査室に向かっていた。
「とはいえ、まだ彼女の意識は戻っていない。顔を見るだけになるけど大丈夫かい?」
裕紀の彩香に対する想いを汲み取ってのことか、打って変わって心配そうな声でそう言うエリーに、裕紀は一度だけ頷いた。
「大丈夫。いまは、それだけで充分だから」
言いながら裕紀は検査室に入る。
裕紀の自室よりやや狭い部屋に入った裕紀は、彩香が横たわるベット付近に置いてある椅子に座った。
ベットに横たわっている彩香は、まるで物語に出てくる眠り姫のように美しい容姿をしていた。彼女の身に何も起こっていなければ、裕紀はこの寝顔をいつまでも見ていたいと思うほどに。
だが、こうして何もできずに裕紀が立っている間にも、彩香の身体は弱っていき死へと近づいて行っている。呪いという、病気でもない魔法という未知の力によって。
そう思うと、裕紀の視界に映る彩香の表情はとても衰弱している病人のように見えてしまった。
途端に、裕紀の心をとても大きな不安が覆い、さっきとは全く違う意味合いで鼓動が早くなると身体が鉛のように重たく感じた。
気が付けば、裕紀はベットの傍らで膝を折り、眠る彩香の手を両手で包み込んでいた。
これがあの魔光剣を扱っている手なのかと思うほど綺麗で華奢な手から伝わってくる温もりから勇気を求めるように、裕紀はしばらく手を握り続けた。
(俺が負ければ、この街は終わってしまう。そして君も、死んでしまう)
「俺は勝てるのかな。今の俺の実力で、あの魔法使いを止めることができるのかな…」
絶対に勝たなくてはならない決戦が近づいて来たことで心が弱りかけていた裕紀の口からそんな弱音が零れる。
そんな裕紀に、優しく語りかける声があった。握っていた両手の感覚に、本当に僅かな力が届いた。
「だい…じょうぶ…だよ…」
「…っ!」
その声が、この数週間ずっと裕紀が求めていたものだっためか、途切れ途切れでも裕紀は息を呑んで顔を上げた。
視線の先には、彩香が顔をこちらに傾けていた。
さっきまで静かに閉ざされていた瞳が薄く開かれ、血の気が失せた唇には弱々しくも笑みが浮かんでいる。
奇跡だと、この時の裕紀は思った。
加藤という魔法使いから受けた呪は相手の生命力を徐々に蝕み、最終的には衰弱死へと追い込む恐ろしい呪だ。
術者を殺すか、術者が任意で魔法を解くことしか救える方法がない彩香を助けていたのは、魔女と名乗るエレインだった。気配こそ感じないが、彼女もこの部屋にいるのだろう。
そんな中、彩香はついに目を覚ましたのだ。
別に呪によって意識が奪われ続けるという説明もなかったので、いつ意識が戻っても問題はなかったはずだが、今この瞬間に意識が戻ってくれたことを奇跡と言わずして何と言うか。
しかし、生命力が減り続けている彼女自身、こうして目を覚ましていることはかなり無茶をしているはずだ。
…出来ることなら、いまは眠っていて欲しい。
そう内心では思っているはずなのに、裕紀は胸の内から溢れそうになる感情を必死に抑えながら口を開いていた。
「柳田さん、俺は君に言いたいことがたくさんあるんだ。謝りたいことも、お礼だって言いたい。けど、それは今言うことじゃないんだ。あの魔法使いを止めて、君を救ってから、元気になった君に言いたいから」
そこまで言って喉が急に狭くなった裕紀の手を、再び彩香が先ほどよりも強い力で握った。
とても小さく消え入りそうな声が届く。
「きっと…君ならできるよ。だって…、君は、一人じゃない…から…」
彩香の声を聞いて、不思議と裕紀の心の不安が和らいだ、そんな気がした。
(そうだ、俺には俺を支えてくれている人がたくさんいる。魔法使いとしてはまだ未熟だけど、みんなの想いもきっと力になってくれる)
握っていた彩香の手をそっとベットに戻すと、両の目に浮かんでいた雫を彩香に気付かれないように振り払って裕紀は立ち上がった。
「ありがとう、柳田さん。おかげで、戦う勇気を持てた。必ずあの魔法使いの策略を止めて、ここに戻って来るから、いまは休んでで」
力強い口調でそう言った裕紀の言葉を聞いた彩香は、微笑みながら頷くと再び瞼を閉じた。
その寝顔をしっかりと瞳に焼き付けて、裕紀は部屋から毅然と立ち去った。
部屋から出て来た裕紀の気配を感じたのか、デスクトップ型のパソコンと向き合っていたエリーが椅子を回して振り返った。
普段着に白衣を羽織ったエリーは、裕紀の顔を見ると何かに気付いたように眼鏡の奥の瞳を大きくした。
「裕紀、きみ、泣いて…」
「気のせいだよ、エリー。…さて、夜も少し出掛けてくるし、晩御飯作らないとな」
「ええっ!? また出掛けるのかい!?」
食材が限られているなか何を作るかさておき、これ以上エリーに余計な詮索をされては泣きかけたことがバレてしまう。
この前もエリーの前で号泣してしまったので、これ以上涙を見せたくはない。
そういう意図を含めて裕紀が逸らした話を、エリーは違う意味で解釈したらしく、驚き声を上げて頭を抱えた。
ただ、今回は晩御飯もしっかり作ってから出掛けるのでそう心配する必要はない。
「明日の朝には帰って来るから、それまで柳田さんのことをお願いするよ」
エリーも裕紀が長期間外出しないことを聞くとそれで納得したのか、腕を組んで溜息混じりに言った。
「はぁ。まあ明日には帰って来るということなら心配はいらないか。今回みたいに無断で何日も帰ってこないということではないからな」
「…そのことに関しては、本当にごめんなさい」
あらぬ形で引き出された問題に裕紀はただ謝ることしかできない。
「理由は話してくれるのかい?」
そう言えば、まだエリーは裕紀が魔法使いの世界に足を踏み入れたことを知らない。
エリーが魔法と関わりのある人間ならば話しても問題はないはずだが、そうでない確率の方が高い現状では言うことは憚られるだろう。
だが、ここまで心配を掛けておいてだんまりというのは卑怯なのかもしれない。
しかし、この街の命運が裕紀自身にかかっている現状で予測不能な事態を独断で起こすことはできない。
家族のように大切な人に対して本心を言えない裕紀は、胸に杭を刺されたような痛みに堪えながら黙り続けた。
エリーと視線を合わせるのが怖く、普段は直視している碧い瞳から視線を外していた裕紀の耳に、諦めたエリーの声が届いた。
「…まあいいさ。裕紀もそういう年頃になったってことだろう。うんうん、青春だねぇ」
「ごめん」
喉から絞り出すように言った裕紀に、エリーは背中を叩きながら言った。
「いいよ。いつか、私に言える時が来たら言ってくれれば。それまでは、気長に待っているとするから」
家事全般は何もできない彼女だが、時節見せるこの大人びた雰囲気が、今の裕紀にはとても眩しく見えたのであった。




